第三話『記憶の果ての知らない人』
????年 某所―― 闇の中に、ぼぅと灯った赤色の光。情熱を意味する色にも関わらず、それは何よりも冷たく見え、まるでたれ流れる血液のようであった。その瞳に映る一人の男の姿。右腕が欠落したその男は、血が零れ落ちている断面を押さえ、表情を怒りで歪めていた。 「わ、私の腕が・・・!」 むせ返るような血の匂いが漂っている。瞳だけではなく、着ている物まで赤色に染めあげられている彼女は、後ろで震えている少年の方にゆっくりと体の向きを変えた。 少年に、彼女は優しく笑いかける。その瞳は、先ほどと違って暖かさを伴っていた。座り込んでいる彼の前で膝を折り、視線の高さを合わせ、そして――。 「ごめんね。こんな事に巻き込んでしまって。あなたは、あなたの日常に・・・戻って。もう思い出してはダメ。一生・・・忘れたままでいて」 「お、俺は・・・!」 言葉を紡ごうとした彼の前で、彼女は両手をばっと交差させた。 少年の瞳から光が奪われ、その光を失った瞳を静かに閉じ倒れた。彼女はそれを見届けた後、立ち上がってずっと傍に立っていた少女の方に顔を向けた。 「彼をよろしくお願いします」 少女が何か言葉を発した。だが、再び冷たい赤色の瞳に戻った彼女の耳には、届かなかった。いつのまにかいなくなっていた右手を失った男を追うために、彼女は深い森へと駆け込んでいった。 2005年 4月 水が流れる音が、朝の静けさを奪う。洗面台に掴まり、小泉由紀子は前かがみになっていた。 顔を上げる。鏡に映る姿は、いつになく冴えていない。彼女は自分の不健康な青白い顔を眺めつつ深いため息をついた。別に、自分の顔や健康状態に不満があったためではない。 夢――幼い頃から時折見る、不思議な夢。それは楽しくも切ない夢であることもあるが、大半は吐き気を催すほど、気持ち悪いものである。だが、どんな嫌な夢でも目が覚めてしまえば、消え去ってしまう。だからといって、不快感まで消えるわけではなかった。 夢を見た後、彼女はいつもこう思う。 自分は誰なのか――と。自分は、本当はこの世界にいてはいけない人間なのではないか――と。だから、夢を見たその日一日はとても気が重い。 「由紀子、遅刻するぞ」 唐突な呼び声に、由紀子はビクッと体を硬直させ、すかさず瞳を細め声の主を睨みつけた。 「うるさい・・・!」 由紀子の剣幕などどこ吹く風といった風貌の相手は、今年二十六歳になる由紀子の兄、小泉章吾。男であるが髪を長く伸ばしており、それを首筋で結んでいる。優しい瞳とあいまって、どこか中世的な容姿の持ち主であった。 「だいたい、まだ七時半。遅刻するわけがない」 時計を確認しながら言う。由紀子は、課外を受けていないため、八時半までに校門を潜り抜けていればOKなのだ。ちなみにいつもは八時十五分くらいに起き、バタバタと学校まで走って行っている。おかげで、遅刻の回数は凄い事になっていた。 「もう七時半・・・だ」 由紀子が鏡に向かったのは、七時ごろだった。彼に言われなければ、三十分経っていることに気づかなかっただろう。それを理解したからといって、由紀子が態度を変えることはなかった。 章吾の横を無言で通る。章吾は、そんな由紀子に敢えて言葉はかけず、ただ微笑んでいた。 居間に行くと、母親の透子が朝食を作っていた。彼女もまた長い髪を有しているのだが、彼女の場合はその髪を幾重にも後ろで重ね、巻きつけているので、解いた時どれだけの長さになるのかは、正直分からない。彼女がその髪を由紀子の前で解いた事は、一度もなかった。時代錯誤も甚だしい割烹着を着た透子は、鼻歌交じりでフライパンを転がしていた。 「おはよう」 由紀子の挨拶で、ようやっとその存在を認知。 「おはよう。今日は早いのね」 母親の言葉は無視する。いつものことなので透子は気にしていなかった。透子が作ってくれた朝食を食べているうちに章吾が合流し、片づけを一段落させた透子が最後に合流する。小泉家は、これで全員だ。父親は、ずっと昔に亡くなっている。由紀子が覚えているのは、父親の大きな手の平と頭を撫でてもらった感触だけ。棚の上においてある写真で顔は分かるが、それを見ても懐かしさはあまりなかった。 静かな朝食を終え、由紀子はいつもより早いが学校に向かった。家を出るとまず坂を降り、大通りを渡り、そして大木公園の中へ。この公園を通れば、わずかであるが近道になるし、同時にさわさわと優しく囁きかけてくる若葉の音が心地よいのである。夜はいい噂のないこの公園であるが、太陽が出ている間は本当に美しい公園であった。 守り木のある中央部に差し掛かる。 由紀子は一旦足を止め、その守り木に視線を送り――そこで木の前に青年が一人立っていることに気づいた。大きな背中を由紀子の方に見せ、木を仰いでいる。この木は櫻町の伝説であり、名物であり、愛されている木だ。こうやって守り木を見上げている町の人がいても、なんら不思議な事ではない。むしろ、それは日常的な光景の一つであるとも言える。 由紀子も気にすることなく、守り木を左から迂回する。そして何気なく青年の方に、もう一度視線を巡らせた。途端、青年も由紀子のほうに顔を向け、視線がぶつかり合った。由紀子の意識は、それと同時に眩んだ。 視界が開けると、木々に囲まれた小さな空が見えた。 「茜」 そう呼ばれて振り向くと、そこには少年が穏やかな顔で立っていた。 「またこれたみたいだ」 「・・・聡さんは、不思議な力を持っているのかもしれませんね」 「そうなのか? これ以上ないというぐらい平凡な人間なんだけどな」 「そうですね。私から見ても、そう見えます」 「だろう」 少年が笑う。それを見ていると、とても心が穏やかになった。 ふと気づくと、由紀子の視界には白いパネルが映っていた。公園に敷かれている、薄汚れたパネルだ。そのパネルに点々と跡を残している染み。それが、自分の涙であることに気付くのに、結構な時間を要した。 正体不明の感情が、由紀子を苛む。由紀子は、唐突に怖くなった。自分の存在が、おぼろげに感じる。このままここにいては、何か大切なものが欠けてしまう。唐突な危惧。由紀子は、涙を拭う事もせずその場から走り去った。 走って、走って。途中で転んで。それから、流れ続ける涙を拭いながらひたすらに歩いた。そうしてたどり着いた場所が、櫻町の西方に位置する防波堤だった。櫻駅の裏側にあるこの場所は、休みの日であれば釣りをする人が幾ばくかはいるが、平日ではよっぽどの事がない限り、人は来ない。 ここは由紀子が泣きたい時や、悩み事がある時に来る聖地だった。 まだ四月の下旬。風は冷たい。穏やかな海の音。ささやかなる太陽の恵み。潮の香り。時折遠くで聞こえるディーゼル車の排気音。それらの音が優しく由紀子を包み込み、彼女に穏やかさを運ぶ。 由紀子は膝を抱え、顔を埋めていた。まだ心が疼いている。震えまで出てきていた。そして、涙もまだ止まっていなかった。 しばらくそうやって考えていた。由紀子が垣間見たあの光景は、いつも見ている夢に良く似ていた。気持ち悪い夢の方ではなく、楽しくも切ない夢のほうに。いつもと違う点は、いつもならすぐに忘れてしまうのに、今でも鮮明に思い出せることだ。 「茜・・・なんで私が茜なんて呼ばれているの・・・?」 少年は確かに『茜』と呼んだ。『ユキネ』ではなく、『アカネ』と。 「・・・由紀子さん?」 唐突な声にびくっと反応したものの、その声が聞き覚えのあるものだったので、由紀子は僅かに顔を上げた。しかし、声がした方に振り返ろうとはしなかった。 「どうしてこんな時に・・・」 由紀子の後ろにいつの間にか立っていた少女が、その顔を僅かに曇らせる。美しい切れ長の瞳に、強い輝きをまとう黒い双眸。同じく黒い髪を首筋辺りで結んだ、ほっそりとした典型的な日本美人。なぜか彼女は巫女装束をまとっており、背に緑色の唐草模様の袋に包まれた長い棒のようなものを背負っていた。 浮世離れした存在。まるで千年前の物語から抜き出てきたような彼女の名前は、橘椿。由紀子にとって、二番目に古い友である。 「どうされたんですか?」 「別に」 由紀子は、素っ気無くそう答えた。すると椿は、きっと由紀子の背を睨み付けた。 「由紀子さん!」 その一喝は、この広い空間であってもよく響いた。由紀子はまた泣きそうな顔になって、それを隠すように顔を埋めた。 「・・・一人で悩まないでください。私を・・・困らせないでください。そんな風にされると、私は不安です。私は、由紀子さんの親友ではなかったのですか?」 椿の言葉が辛い。そこまで言われたら、由紀子も流石に『NO』とは言えなかった。 「・・・さっき変な奴に会ってね」 由紀子はそう切り出し、椿に先ほどの事を全て話した。椿は、驚いていた。そして話を聞いているうちに段々と、辛そうにしていく。由紀子が話し終えた後、椿はしばらく言葉を紡ぐ事ができなかった。彼女の中で、色々な思いが渦巻いているのだろう。左の手首を握っている右手の力が、ぎゅっと強まる。 「由紀子さんは、由紀子さんですよ」 椿は微笑んだ。それはあまり上手な微笑ではなかった。 「なら、私が見たのはなに?」 「それはきっと前世の記憶ですよ」 「前世?」 由紀子は、少しだけ顔を上げた。 「輪廻転生は、事実です。強き思いを叶えられずに死んだ人間は、記憶を捨てることが出来ずにこの世界に戻ってくることがあるんですよ」 そこでわざとらしく、咳払いを一つ。 「かくいう私も、安土桃山時代に最強の名をほしいままにした橘家の椿の転生体・・・と言われているんですよ」 「え? 本当のことなの?」 由紀子は驚き、椿の方を見た。ようやっと彼女がこっちを向いてくれたことに嬉しさを感じ、椿はいつにも増して語る。 「本当の事らしいです。でも、それほどの才能は私にはありません。前世の記憶というのも、実は全く」 椿は、広い海原に視線を移す。風が、優しく彼女の髪を撫でていった。 「お爺様が言われるには、前世の私が記憶を封じているそうです。人は、現世の事で精一杯。前世の事に縛られていては、不幸になるだけ・・・私はそう教えられました」 どことなく寂しげに瞳を細めた彼女であったが、由紀子の方に視線を戻した時には、そんな面影は微塵も残っていなかった。 「由紀子さんは、由紀子さんです。私の・・・こんな私の大切な親友です。ひねくれ者で、オカルトを愛し、根暗で眼鏡で、遅刻と赤点の数は優等生な、そんな親友です」 「一言も二言も多い」 由紀子はそう言いながらも、うっすらと笑みを浮かべていた。椿の言葉は、由紀子に確証を与えた。わだかまっていた不安が。積もり溜まっていた思いが。緩やかに氷解していく。もう由紀子は、泣いていなかった。 「・・・顔を洗って、学校に行くかな」 由紀子は立ち上がり、ちょっと苦笑い。 「完全に遅刻だけどね」 そして、由紀子も海原を見つめた。 「まぁ、夏樹をからかってウサ晴らしでもするよ」 椿の方に向き直った彼女の表情は、実に晴れ晴れとしており、彼女らしい笑みがそこに現れていた。 「夏樹さんですか」 「夏樹も会いたがっていたよ。今度、一緒に喫茶店でも行こう。白玉パフェ、奢ってあげるから」 「白玉パフェ・・・委細承知しました」 なぜか真面目にそう答える椿がおかしく、由紀子は笑いを必死にこらえる。素直に笑ったりしたら、海にけり落とされかねない。椿とはそういう女なのだ。 「じゃ、夏樹に話しておくから。決まったら電話するね」 椿の横を通り過ぎ、由紀子は学校を目指す。その前に由紀子は一旦止まり、椿に振り返りこう言った。 「ありがとね」 椿は笑みを浮かべ、そんな由紀子に手を振りつつ、見送った。 由紀子の姿が見えなくなる。すると椿の顔が、途端に翳った。 携帯を取り出し、コール。 しばらくして。 『どうした?』 と野太い声が聞こえてきた。 「赤鬼の件についてのご報告があります」 『赤鬼だと?』 「詳しいことは後ほどご報告いたします。調べたいことがありますので、小泉家の依頼をキャンセルしていただけないでしょうか?」 『分かった。小泉家の当主にも話を通しておく・・・迂闊に動くなよ』 「分かっております」 携帯を切った椿は、瞳を細めて海を睥睨する。 「・・・由紀子さんの記憶に現れた男の名は、サトシ。危険人物の名前は一通り覚えたはずですが・・・」 椿の言葉は、海のささやきに静かに取り込まれていった。 通学時間外の通学路は、なんともいえない物悲しさと静けさに包まれている。何度も辿ってきている由紀子でも、その感じを拭い去る事は出来ない。いつも通っている道が、違う道に見える。それはちょっとした異世界を冒険するような、そんな感覚だった。この感覚が、割かし好きな由紀子。遅刻慣れしているため、その足取りは優雅なものである。いつもならこのまま変化もなく、学校にたどり着く事が出来るのであるが。 「・・・遅刻ですぅ〜」 と、背後からなんとも情けない声が聞こえてきた。何事かと振り返ると、由紀子と同じ制服を着た少女がとてとてと走っている。走っているのだが、とても遅い。普通の人だったら、少し速めに歩けば簡単に追いついてしまうほどの速さだ。 わざとなのか――そうでないことは彼女の表情と流れる汗が証明していた。どう見ても全力疾走である。少女は、赤茶けた髪をセミロングに整えた、丸顔の子。日本人というよりかは、どことなく西洋っぽい容姿である。特に由紀子の目を惹いたのが、胸の大きさ。絶壁、まな板と夏樹に馬鹿にされている由紀子から見れば、破格の大きさである。だからといって、彼女は太っているわけではない。というか、由紀子よりも痩せているのではなかろうか。 由紀子は、世の不条理を痛感しつつ、少女を観察した。 どこかで見たような――。だが、それを思い出すことができない。一生懸命に思い出そうと頭をひねらせていると、はたっと視線があった――途端、一瞬動きを止めた少女は、足をもつらせて『あぁ〜、いたい』とか間の抜けた声をあげつつずっこけた。 「大丈夫?」 知らん振りするわけにもいかず、由紀子は近づかずに声をかけた。すると少女は。 「だ、大丈夫ですぅ」 笑みを浮かべて、立ち上がる。割かし大丈夫そうだ。由紀子は、何事もなかったように再び歩き出す。その後を追いかける少女。目的地は同じだから、これは仕方がない。しかし、少女はなぜか由紀子の背中をちらり、ちらりと見ている。人の後ろを歩くのが気まずい――とかではなく、その瞳は少し戸惑いの色が垣間見えていた。 「あの・・・」 「ん?」 由紀子は振り返らずに、そう返事を返す。少女は、少しの間逡巡した後。 「今日、学校は遅れてあるんですか?」 と、口にした。 由紀子はその質問の意味がよく分からず、少しの間思考がふらつく。で、たどり着いたのが、自分が急ぐわけでもなく、堂々と歩いているという事実だった。 「あぁ、授業は通常通りよ。私もあなたと同じ、遅刻の同業者。どうせ、一分遅刻しようが、一時間遅刻しようが、遅刻したという事実は変わんないわけよ。ならさ、急いだって一緒でしょ?」 「・・・そ、そうですね。遅刻は遅刻ですね」 遅刻という事実を目の当たりにして、さらに落ち込んでしまう少女。由紀子はそれが気になりつつも、なんと声をかけていいのか――いや、自分如きが声をかけていいのか、葛藤が口にふたをする。 「私、今日が七ヶ月ぶりの登校なんです」 少女が、唐突にそう切り出した。 「なのに起きれなくて・・・本当に私って、何をしてもダメなんです」 「・・・・・・」 「あっ、私、ごめんなさい。その・・・」 名前も知らない相手に愚痴を零している事に気まずさを覚え、少女は語尾を濁らせた。由紀子は黙っている。少女にとっては、嫌な沈黙が流れた。 変な奴だと――由紀子は正直に思っていた。聞いてもないことをベラベラと。しかもそれが面白おかしい事ならまだしも、ひたすら自分を責めることばかり。そんなのを聞かされても、どう対応していいか分からない。 「あの、天野神華と言います」 突然名乗り始めた。由紀子は一つ嘆息を吐いて、律儀に答える。 「小泉由紀子」 「甘いものが大好きなんです」 今度は好物。由紀子は、そこで気付いた。この天野神華という生き物は、寂しいのだ。なんとか会話を繋ごうとして、名前やら好物やらを口にしているようだが、相当な不器用なのだろう。会話を成立させるための要素が、ごっそりと抜け落ちている。甘いものが好きだとカミングアウトされても、『あ、そう』という話である。 「好物は、チュパカブラ」 「へっ? ちゅ・・・アメ?」 「うん、よく知ってたね」 「だ、駄菓子屋で見たことがあります」 チュパカブラが駄菓子屋にいる姿を思い浮かべて、由紀子は思わず吹き出してしまう。それはなんというか、ある種の和洋折衷なのか。 「もう・・・ダメ・・・! チュパカブラが、駄菓子屋って・・・!」 由紀子の中では、なぜか風船アイスを啜っているチュパカブラの絵が構築されていた。ちなみにチュパカブラというのは、南米付近で目撃例があるUMA、未確認動物の事で、家畜や人の血を啜ったりするらしい。 笑う由紀子に、神華は戸惑っている。由紀子が笑うツボが理解できないからだ。それは、ごく一般的な反応だと言っていいだろう。大変居心地が悪そうな神華の方を、由紀子はようやく振り向き、そして中指で眼鏡の位置を微調整した。 「ゴメン、今の嘘だから」 「えっ?」 「チュパカブラというのは、南米で目撃されたという血を吸う化け物のことよ。さすがに、駄菓子屋にはいないから」 「あ・・・うぅ・・・へへへ、おかしな話だと思っていました」 なんだか、笑ってごまかしている。その様子がおかしくて、愛らしくて。由紀子は珍しく他者に関心を向けていた。由紀子は、元来人見知りをする方であり、また社交的でもない。性格もどちらかといえば、内向的でさらにインドア派である。そんな由紀子が関心を持つほどの相手なのだから、どこか通じるものがあったのだろう。 「私が好きなのは、ジャンクフードよ。カップラーメンとか、鬼好き。天野さんは、なんだかそんなのとは縁遠そうに見えるね」 白いお肌に、上品な顔立ち。そして、気品に満ち溢れた動作。明らかに彼女は、上流階級の人である。 「興味はあるのですが、食べさせてもらえません。体に悪いとか、美容の天敵とか、怒られちゃいます」 神華は、苦笑いしている。 「やっぱりお金もちなんだ。けど・・・ウチの学校の生徒だよね? どう見ても」 同じ制服の神華。由紀子が通う高校は、これ以上ないというぐらい普通の公立高校である。神華のようなお金持ちそうな人とは、それこそカップラーメンほどに縁がないように思える。 「私立の受験に失敗しちゃて。私、あんまり勉強は得意じゃないんです。特に数学は、泣きそうなぐらい嫌いです」 数学の試験をしながら、泣いている姿の神華を思い浮かべて、不覚にも可愛いと思った由紀子である。 「私も英語が、泣きそうなぐらい嫌いね。数学は得意だけど」 「私、英語は得意ですよ」 「これは、神の悪戯にも似た偶然ね。あぁ〜・・・天野さん、そう言えば何年生?」 素でタメ口であったことに、今更気付いた様子である。 「二年生です。二年一組です」 「二年一組・・・? うそ、同じクラス?」 由紀子は、そこで思い出した。学年が変わってから、一度も来たことのない生徒がいたことに。それが、天野神華だったようである。あまりの偶然の重なりに、ただただ由紀子は唖然となった。神華も、『まぁ』と上品に驚いている。 「そっか。なら、宜しくね」 「はい、こちらこそ」 そんな挨拶をしていると――。 「見つけたぁ〜〜〜〜〜〜!!」 怒鳴り声が聞こえた。声の主は、学校の方面からものすごいスピードで走ってきていた。左右非対称の髪型――左側だけが少しだけ長い不思議な髪型をした、きりりとした瞳の二十代半ばの女性。鬼の形相の彼女の顔を見て、由紀子が、『げっ』とあからさまに呟く。 彼女こそ、由紀子が今現在最も脅威に感じている存在。由紀子のクラス、二年一組担任、熱血の坂田斎先生、その人であった。 「せ、先生、おはよう・・・ございます・・・」 「おう。この後、体育館裏集合」 それは、処刑台に上がれと言われたのと同義である。言い逃れる術はないので、『はい』と素直に応じた。応じなかったとしても、首根っこ掴まれて強制連行されるのだ、おとなしくしていたほうが被害を最小限に出来る。 そこで斎は、神華に気付く。由紀子より三歩ほど後ろにいた彼女は、ビクッと体を震わせた。 「天野さん・・・?」 「おはようございます・・・あの・・・ごめんなさい。ちゃんと、学校に行くつもりでしたが・・・」 「いいのよ。やっと学校に来てくれたのね。頑張ったね、天野さん。あなたは、凄い!」 神華の方は、無罪放免になりそうである。由紀子はすでに、反省文の内容について、検討を始めていた。 さて昼休み。由紀子は、自席でうつ伏せになっており、ピクリとも動かない。いつもの三倍ぐらい激しいお説教だったのである。ちなみに、『体育館裏集合』は、言葉のあやでもなんでもなく、本当に体育館裏で説教を受けるのである。斎は、言葉遣いが荒い。職員室なんかで説教をした日には、他の先生からクレームがくるのである。 「ユッキー、生きている?」 声をかけてきたのは、同じクラスの虹野夏樹。短髪の髪が良く似合う、活発そうな少女である。ちなみにユッキーとは、由紀子の愛称であるが、その名で由紀子を呼ぶのは、夏樹ぐらいだ。 「死んでいる」 「そう、線香を焚こうか?」 「いらない。抹香臭いのは嫌」 完全にネガティブモードに入っているようであり、夏樹はどうしたものかと溜息を吐いた。 「小泉さん、大丈夫ですかぁ?」 神華もやってきた。しかし、今の由紀子には構ってあげられるほどのエネルギーは残っていなかった。そんな由紀子を見て、神華はなにやら思いついた様子。一旦自席に戻り、カバンの中からお徳用と書かれたビニールに包まれたチョコレートがたくさん入った袋を取り出して持ってきた。チョコレートを三つばかり手に取り、それを由紀子に。 「どうぞ、宜しかったら」 ようやく顔を上げた由紀子。神華の親切を踏みにじるわけにもいかない。少しだけ微笑み、由紀子はチョコレートを受け取った。 「あんがと」 チョコレートを口の中に含む。なんの変哲もない普通のチョコレート。一応、それがきっかけになったのだろう。由紀子は、完全に体を起こして、なにやら諦めたように溜息を吐いた。 「はぁ・・・ご飯食べよう」 「そうだよ。ご飯を食べたら、すっきりさっぱりだよ」 夏樹の言っていることは、相変わらず理解できない。 由紀子が弁当を鞄から取り出しているうちに、夏樹も弁当を持ってくる。ふと、由紀子は神華の方を見たとき、彼女はそこで展開されていた光景に目を疑った。神華が、チョコレートを食べている。それは良し。しかし、包み袋の残骸がすでに山を作っていた。チョコレートの総量も、半分近くになっている。さきほど由紀子にチョコレートを渡して、まだ五分も経過していなかった。 「天野さん・・・?」 「はい?」 なんともないという風に神華が振り返る。 「まさか、チョコレートが主食なんて事はないよね?」 「甘いものが好きでも、さすがにそこまでは」 チョコレートを食べるのをやめた彼女は、可愛らしい小さな弁当箱を取り出した。さきほど食べていたチョコレートと、量的にはイコールのようにも見える。由紀子は、吐き気を覚えた。 「ど、どんだけ食べるのよ」 「あれだけ食べて、あのプロポーション・・・食べたら食べるだけ胸が大きくなるのかな」 「私たちじゃ、せいぜい腹回りに贅肉が付くだけよ。マネするのはやめといたほうがいい」 不思議そうな顔をしている神華の前で、由紀子と夏樹は顔を見合わせて溜息を吐いていた。 「あ、夏樹。今度、いつが暇?」 弁当を食べている時に、椿との約束を思い出した由紀子。『どうして?』と尋ねる彼女に、由紀子は椿との約束のことを話した。 「とりあえず、部活で忙しい夏樹の予定を聞いてから、話を進めるのが妥当かなと思って」 「部活なんてサボっちゃえばいいし、いつでもOKだよ」 夏樹は、あっさりと言う。彼女の場合、自主練習の時間がすでに他の部員の数倍である。一日サボった所で、先生も強くは言えないのだ。 「そう・・・なら、今週の日曜日。それで椿さんとの話を進めるけど、いい?」 「うん、OK、OK。あ、シノも来る?」 すでに夏樹は、神華を『シノ』と呼んでいた。愛称を付けるのは、彼女の得意技でもある。 「また変な呼び方を。天野さん、先に言っておいたほうがいいよ。『ユッキー』なんて、意味不明な呼び方を定着させられた私みたいになるから」 「えぇー、可愛いじゃん」 「私を見ろ! 可愛い要素のあるキャラか?! 恥ずかしいんだよ!」 「そこが魅力なのさ」 「意味が分かんないし。くだばれ」 「あの、私は別に構わないですし、『ユッキー』と呼び方も素敵ですよ」 「そう、天野さんは私の敵なのね。覚えたから」 「そ、そんな意味では〜!」 由紀子の眼鏡の奥に宿る鋭い光に怯えて、神華が慌てふためいている。 「ユッキーは、世に言うツンデレメガネだから、常に反対の意味で取らないとダメだよ」 「アンタは、そうやって人に嘘八百を定着させて、嬉しいのか?」 「ほどほどかな」 「ポストに鶏の死体を投げ込む」 「うっ、冗談に聞こえなかったよ。今の」 「逆に考えるんだろう? ぜひとも、好意的に取ってくれたまえ」 そんなこんなで、夏樹と由紀子のバトルが数分間展開された後、逃げるように夏樹が話題を元に戻してきた。口が達者で頭がキレる由紀子が相手となると、さすがにお話し上手の夏樹でも分が悪い。 「で、シノ、来週の日曜日、一緒に行こうよ。ねぇ、ユッキー。いい考えだと思わない?」 由紀子は何も答えない。 「私、迷惑じゃ・・・?」 控えめな神華の態度を、笑って吹き飛ばそうとする夏樹。 「大丈夫だよ。こうやって出会えたのも何かの縁だと思うしね」 「本当に嫌な時は、『嫌』と言っておいていいから。このバカは、それぐらいのことは受け入れきれる」 「あの、お邪魔じゃなければ、ぜひご一緒させてください」 「だってよ」 「本人がそう言うなら、それでいいじゃない」 とりあえず、今週の日曜日に白羽の矢が立った。あとは、椿の用事を聞くだけである。 由紀子は、その後も神華と夏樹と共に、昼休みを楽しく過ごした。 その頃、椿は――。 自宅へと帰り、由紀子が口にした『サトシ』という名前を調べ終え、さらに『赤鬼』の件を付け加えた資料を、祖父に提出していた。 椿の家は、『除霊屋』と呼ばれる家業を営んでいる。除霊屋とは、『理から外れしモノ達を調整する者』達の総称である。ようは、妖怪や幽霊と戦う人たちである。彼らは、『家』単位で動いており、『家』に縛られずこの家業を行っているものは、『遊撃士』と呼ばれる。椿の『家』である橘家は、九州でもっとも権力のある一族で、彼女の祖父はその橘家の当主。九州の除霊屋の中では、二番目に偉い人なのだ。そう、『二番目』。実は、もう一人上にいるのであるが、それはまた後程。 椿の提出した資料を目に通した、椿の祖父である勝彦は、渋い顔をしていた。椿も、どことなく沈鬱な表情をしている。 「これは、該当者ゼロということで良いのだな?」 「はい。この周囲に、サトシという名前で暮らしている関係者はいません。その他、全ての同名の方の動向を確認いたしましたが、櫻町に近付いた者は誰一人としていませんでした。それと、由紀子さんの事ですが・・・当主に聞いていた話と、少し食い違うように思うのですが・・・?」 「彼女が、『茜』と呼ばれていたことについてだな。私は、知っている範囲のことをすべて話しておる。だが、それが十年前の事件の真相のほんの一部である事も理解している。今まで、知らなくてもやってこれたが・・・揺らぐか、今。サトシとやらのこともある。今一度、彼女に問うべきだな。十年前の生き残りの片割れである、尼崎月子に」 祖父の部屋を出て、椿は不安で空を眺めた。今まで保ててきた均衡が、少しばかり揺れた。それは、些細な揺れかもしれない。だが、その些細な揺れが心をかき乱す。 「何もなければ良いのですが・・・」 暮れ行く空。オレンジ色の光は、不安をひたすらに助長させていく。そんな折、携帯電話が軽快なメロディを奏でた。由紀子である。 「はいはい、どうしました?」 さすがに祖父の部屋の前で話しをするわけにもいかないため、移動しながら電話を取る。 『夏樹に話したら、今週の日曜日で大丈夫だってさ。椿さん、日曜日は開いている?』 「えと・・・ちょっと待ってください」 椿は、メモ帳を取り出した。彼女は、高校進学を諦め、除霊屋家業を祖父と共にやっている。仕事の予定が入っていないのか、確認しているのである。 「あぁ・・・」 声のトーンが下がっていく。ばっちり仕事の依頼が入っていたのだ。どうしたものかと考えあぐねていると――。 「椿、友達を優先しなさい。依頼は、なんとでもなる」 「ふえっ?!」 突然、襖を開けて顔を出した勝彦に、椿は驚いて変な声をあげた。 「でも、それでは・・・」 「私がいいと言っているのだ。気に病むことはない」 パタンと返事を待つことなく、勝彦は襖を閉めてしまった。椿は、苦笑していた。 「予定開きました。行きます」 『・・・仕事の依頼が入っていたんだ。ゴメンね』 「気にしないでください」 『あ、当日、クラスメートの子が一人、合流する事になっているんだけど・・・大丈夫?』 「由紀子さんが夏樹さん以外の人を連れてくるなんて、珍しいですね。私は、構いませんよ」 『色々とあってね』 電話の向こうで、由紀子が苦笑しているのが伝わってきた。 『じゃ、日曜日。いつもの所に、十一時集合で』 「了解。遅れないでくださいよ」 『肝に銘じておく』 通話を終え、携帯電話をポケットの中にねじ込む。いつもと変わらない由紀子。今は、まだ何も変わりがない。気にしすぎなんだろう。椿は、深く考えない事にして、自室へと戻って行った。 それから数日経った日の夕方のこと。由紀子は、いつも通り大木公園を通って帰宅していた。守り木の横を通り過ぎようとした時、その下のベンチに件の青年の姿があった。思わず足を止めてしまった由紀子。青年も、由紀子の気配に気付いたらしく、振り向いた。 「あっ、君は・・・良かった、また会えた」 青年は、安堵していた。その理由が、由紀子には分からなかった。瞳が合うが、今度はこの前のような急激な眩みはなかった。 「少し、話を伺っても構わない? 聞きたいことがあるんだ」 「・・・別に構いません」 男の人に声をかけられ、由紀子は非常に緊張していた。嫌悪感があるとかそういうのではなく、純粋に男性と話すのが苦手なだけである。 「俺のこと、なんでもいいんだ。知っているなら、教えて欲しい」 何を言っているのか。由紀子は、『はっ?』と言葉にはしなかったが、表情でそう表した。青年は、困った風に頭を掻いていた。 「・・・信じてもらえないかもしれないが、俺、実は記憶がなくてさ。覚えていたのは名前ぐらいなもんで、それ以外は全く。だから、ずっと俺のことを知っている奴を探していてさ。この町には、覚えがあって・・・ここになら、俺のこと、知っているやつがいるんじゃないか。そう思ってさ。君は・・・茜さんだっけ?」 由紀子は、すぐに頭を横に振った。 「いいえ。私の名前は、小泉由紀子です」 青年の目が点となる。そして、急に頬を染めて、慌てふためいた。 「あ・・・俺、もしかして軽く人違いしてた? うわぁー! わ、わりぃー! 忘れてくれ、今の話! めちゃ、恥ずかしいわ。どないしよう。あはは、気にしないでくれ。こんな事もあるさ。ははははは」 やけくそになっている。そんな彼の姿が滑稽で、由紀子も思わず笑っていた。 「記憶喪失・・・なんですね。私、初めて見ました」 「そうだろう! 記憶喪失の人間なんて、レアだもんな。凄いだろう」 「凄いかどうかは・・・」 苦笑する由紀子。それは威張る所なのだろうか。 「私、オカルトとか好きで、大変興味深いです。あ・・・」 そこで、由紀子は失言に気付いた。相手の深刻な悩みを、『興味深い』と言ってしまったためである。だが、青年は特に気にした様子もなく笑っていた。懐が大きいのか、あまり物事に頓着しない性格なのか。 「ごめんなさい、私・・・興味深いとか・・・」 「いいんだよ。実際、俺自身もそう思っているしな。なぜ、記憶を失ってしまったのか。分からないが、なんとなく・・・なんとなくだが、記憶を失ってしまった事には意味があるんじゃないか、そう思っているんだ。だから、俺は記憶を必死に探している。早く、記憶を探して、答えを見つけなければ、俺はきっと後悔することになる。そんな焦燥感が、いつもあるんだ。変な話だろう? でも、妙に焦るんだよな。本当に」 記憶喪失。いわゆる、『健忘』と呼ばれる現象である。由紀子の知識にも、そのことはあった。 「記憶喪失は、心因性、外傷性、あとは薬物とか病気とかが原因で起こるもので、名前を覚えていて、昔の事を思い出せないなら、逆行性の部分健忘だと思います。一度、ちゃんとした病院にかかった方がいいと思います」 青年は、再び驚いていた。 「君、凄いな。えらく、物知りじゃないか」 「そ、そんなことないです」 由紀子は、照れて思わず頬を掻く。人に素直に賞賛されるのは、彼女にとっては滅多にないことであった。 「でも、病院はダメなんだ。病院には、近づいたらいけない。なぜか、そう思えて仕方ないんだよ。だから、自力で何とかするしかないかなってね」 暗示でもかけられているのか、それとも記憶を失う以前のなにかしらのこだわりなのか。彼の記憶喪失には、色々と制限がある様子である。 「今日は、色々とありがとうな。楽しかった。また、ここ通るんだろう?」 「通学路ですから」 「よし、またここで待ち伏せしているからさ、その時は付き合ってくれないか? まだ、知り合いが二人しかいなくてさ」 「私で良ければ・・・」 青年の事は、嫌いではなかった。それどころか、話をすれば話をするほど、どこか懐かしい思いに駆られていた。ずっと、ずっと昔――彼と、こうやって話していたような、そんな錯覚さえ感じていた。 「よっしゃ! じゃ、俺、そろそろ帰るわ。煩い奴がいるからさ。またな!」 青年は、慌しく走って帰っていった。由紀子は、その背中に手を振って見送る。彼を見送っている時、とても寂しいと感じた。なぜ、そう思ったのは分からなかったが、また会える、そう思うと、堪らなく嬉しかった。由紀子は、その時気付いてはいなかった。頬を流れる、一滴の涙の存在に――。 |