第四話『聡への疑念』


 2005年 4月

 除霊屋と呼ばれる者達が、この社会にはいる。彼らの業務は、『理から外れしモノ達を調整する』こと。すなわち、一般常識から外れて存在しているものを、なかったことにするか、はたまた偽装させて一般常識に組み込むのか――それを判断、実行しているのが除霊屋である。彼らは、一般的には知られていない所謂(いわゆる)闇組織。しかし、彼らの業務は、国に正式に認められているものであり、実は法的な守りもあるのである。さらに言えば、国家的除霊屋組織も存在するほど。そして除霊屋には、上部組織である『日本神族会』という神様達が存在するのであるが、それは今は関係のない話である。

 除霊屋は、(たちばな)『家』、尼崎(あまがさき)『家』という風に、『家』ごとに機能しており、それぞれに『領域』を持つ。その領域の問題で、家同士の争いがあったりするが、今は一部の地域を除いて、領域の争いは起こっていない。

 橘家が、代表として君臨している九州地区でも、昔は家同士の争いが絶えなかったのであるが、今は完全に過去の話となっている。十年前に、橘家と争っていた尼崎家がお取り潰しになったからである。

 その尼崎家の本家の玄関前に、一台の白のセダンが止まった。降りてきたのは、橘家の当主である勝彦と、小泉家の次期当主候補である章吾。勝彦は着物姿の白髪の老人で、章吾は長い髪を首筋辺りで結んだ中性的な印象を纏う、長身の青年である。

 現在、尼崎家には十年前の事件の生き残りの片割れである尼崎月子(つきね)が、たった一人で生活をしている。それには色々と理由があるのであるが、それは追々。

「相変わらず、けったいな建物ですね」

 章吾は嫌そうな顔で、屋敷を見上げている。勝彦は、そんな彼の言葉を苦笑して受け止めた。

「彼らなりの精一杯の対抗心を、そう邪険にするものではない」

 尼崎家は、丘の上を切り開いた土地に立てられた洋館の集まりである。勝彦たちがいる場所は、その本館の前。といっても、本館以外は現在閉鎖中であるが。なぜ、尼崎家が洋館なのか。それはいたってシンプル。敵対勢力である橘家や小泉家が、和に重きを置いているためである。一緒は嫌。俺達は敵同士だ――ただ、そう言いたいだけである。

「章吾、お前は車に残っていろ」

「えっ? なぜです」

 納得がいかないと、章吾が勝彦を見つめる。

「今回の問題は、デリケートなものだ。あの月子が、十年前の事件についての証言を覆す事は考えられない。だから、私は彼女の言葉からではなく、表情から推測するつもりなのだ。焦る気持ちも分からんでもないが、事を急いても状況は変わらぬ。本来なら、このような仕事は、透子殿の仕事なのであろうが、『赤飯』が関わると精度に信用がおけぬ」

 透子とは、章吾の母親である。すなわち、現在の小泉家の当主だ。

 説明しても、章吾は納得がいっていない様子だ。勝彦は、困ったように笑った。

「帰りに、私がよく行く料亭で食事を振舞おう。『赤飯』にも、お土産を持たせる。それで、今回の案件、私に託してはくれまいか?」

「そこまで言われては、何も言えません」

 章吾としては、お土産の方に心を惹かれていた。『橘家の鬼神』と呼ばれ、色々と無茶なことをやってきた彼も、最近は随分と丸くなってきた。食事を振舞うから――そんな台詞が出るなんて、以前からだと考えられない事であった。

「勝彦様、お願いいたします」

「あぁ、任せておけ」

 章吾は車に戻り、勝彦は玄関へと向かい、ベルを鳴らした。少しして、重たい扉が鈍い音をたてながら、開かれた。

「お待ちしておりました」

 深々とお辞儀をしているメイド服姿の女性。長い髪を束ねて青色の袋で包み、右肩に掛けている。少し丸顔の、柔らかい印象を与える女性である。彼女が、尼崎月子だ。

「当主、お一人だけですか?」

 月子は、勝彦が一人なのを見て取って、疑問を口にする。勝彦は、何事もないという風に『あぁ、そうだ』とだけ答えた。

 応接間に通される。無駄に豪華な家具や壺や絵などが置いてあり、なんとも目がチカチカする空間である。やけに沈むソファーに座ると、月子が緑茶を差し出してくれた。その手が震えている事に、気付かないほど勝彦の眼は曇ってはいない。

「あの・・・それで今日は・・・」

 座って、月子が話を切り出そうとした時――。

「研究の方は進んでいるか?」

 勝彦が割り込んできた。勝彦の鋭い瞳に囚われ、月子の緊張はさらに高まった。

「あ・・・はい。もう少しで、分かりそうな気がしています。十年もかけて・・・申し訳ありません」

「よい。莫大な資料を一人で解析せよという無理難題を押し付けたのだ。十年でそこまで来ているならば、評価される事だ。新しいことが分かったら、逐一報告してくれ」

 勝彦は、じっと月子を見つめている。月子は俯いて、彼の視線に耐えていた。しばらくの間――月子の余裕がなくなる頃合を見計らい、勝彦はようやっと本題を切り出す。

「今日は、報告する事があってな。つい先日、『赤飯』の施術が揺らいだ」

 月子が驚いて顔を上げた。

「結局、施術は安定し、現在は通常通りだ。だが、施術が揺らいだ際に彼女は夢を見たと言う。夢の中で『茜』と呼ばれ、そしてその場に『サトシ』という少年がいたそうだ。月子よ、もしや彼が十年前の事件の発端だったのではないか?」

 月子は、一度瞳を閉じた。次に開いた時には、確固たる意思がその瞳に宿っていた。

「いいえ。存じません。そもそも、茜様と『赤飯』は繋がっていません。所詮、夢・・・だと、私は判断いたします」

 勝彦はうっすらと笑って、『そうか』と頷いた。

「よく分かった。邪魔をしたな」

 勝彦は話を打ち切り、立ち上がって部屋を出て行った。その際、ドアを完全には閉めず、彼は月子の姿を窺っていた。月子は、頭を抱えていた。それを確認してから、ドアを静かに閉じた。

「嘘の下手な子だ」

 屋敷の外に出ると、それを見つけた章吾がすぐに駆けつけてきた。

「どうでしたか?」

 急かす彼を片手で制しながら、勝彦は成果を告げる。

「サトシという男に、監視をつけろ。何事もなければそれに越した事はないが、嫌な胸騒ぎがする」

 それを聞いて、章吾は露骨に嫌そうな顔をした。彼の嫌な予感は、今まで外れた事がないからである。

 

 (さくら)町商店街を歩いているのは、神山(かみやま)(さとし)。角刈りのような頭に、しっかりとした体つきのどことなく野暮ったい男である。

 無料のバイト雑誌を片手に、首を捻る。記憶を失っている彼は、現在立麻琴菜(たてまことな)のログハウスに居候しているのであるが、記憶がないのだから当然、職がない。まぁ、戸籍もないのだが、戸籍はなくてもバイトぐらいはできる。嘘の履歴書を抱えて、とりあえずやれることをやろうかと頑張っているが、なかなか雇用してくれる所がないのが現状であった。

 いつまでも琴菜のお世話になるわけにも行かない。といっても、家事全般は聡が行っているので、どちらかといえばお世話しているのは聡であるが――資金は、すべて琴菜から。どこからともなく、無尽蔵に湧いてくる資産であるが、それを食い潰すわけにもいかない。

 そんなこんなで必死に職を探す聡であるが、そんな彼の努力をあざ笑うかのように、職が見つからなかった。

「なんでかな・・・」

 最初は、特に問題はない。ただ、名前を言った瞬間に難しい顔をして、よく顔を凝視された後、『他をあたってくれ』と言われてしまう。

「昔、なんかやらかしたのかね」

 記憶がない以上、なんともしがたい。唯一、色々と知ってそうな琴菜は、肝心の聡の過去については、『知らない』の一点張りである。そこも含めて、なにやら怪しいのだが。

 色々と悩みを抱え、うんうんと唸る彼。そんな彼を見つめているものがいた。

 商店街の細い界隈(かいわい)。そこに身長140センチ程度の少女が一人。オレンジ色のショートカットの髪に、同じくオレンジ色の瞳。チャイナ服を身に纏った、幼さが残る顔立ちの彼女は、聡をじっと見つめていた。

「間違いありません。あの人、あの時の人。始まりの人」

 彼女の後ろに、揺らぐように人影が現れる。少しきつめな瞳に、腰に届くほどある長い髪。白いカッターシャツに赤い色のロングスカートを着ている、驚くほどの美人である。ただ、その姿は実体ではなかった。半透明で、向こう側の景色が透けて見えていた。

『この町に戻ってきていたのですね。これは、偶然・・・?』

「分かりません。ただ、少し前からこの町に漂い始めた嫌な匂いと、彼が纏う匂いはかなり酷似しています。それは、十年前には纏っていなかった匂い。記憶を失っているという話です。なにかしらの干渉を受けていると考えるのが妥当かと」

『・・・よく分かりました。ただ、しばらく彼のことは放置で。あの子と除霊屋の動きに注意してください』

「はい」

 少女の姿は、界隈の闇へと消えていった。そんな二人の気配を察する事もなく、聡は商店街を抜けて、駅前を通り、海沿いの道へと歩を進めた。潮風が、なんとも心地が良い。煌く海は、地平線まで見渡せていた。

 聡は、職を探しながら、この町――櫻町を探索していた。記憶の断片を探しているのだ。この町には、デジャブを覚える場所がいくつか存在する。それは、間違いなく記憶の断片。聡は、昔確かにこの町にいたことがあるという証拠だ。その一つが、夏樹や由紀子(ゆきね)と出会った、あの『大木公園』であった。

「・・・ここからの景色も見覚えがあるな」

 そんな事を呟きながら、しばらく歩いていると、不思議な建物を発見した。周りは、いかにも海辺近くの家といった風情であるが、その一軒だけがなぜかレンガ――どうせパネルを張っているだけだろうが、とにかく洋風の風情を醸し出していた。パネルの風化具合から、それなりの年月は経っているようだ。だからといって、周りの風景には溶け込んではおらず、激しく自己主張をしていた。それは、誰が見ても一風変わった風景であったが、聡はその建物を知っていた

 喫茶店である。名前は、『海の家』と身も蓋もない。その名前も懐かしく感じる。やはり知っている。聡は、確信した。

 喫茶店の扉を潜る。軽やかな鈴の音が去り、濃厚なコーヒーの匂いが鼻腔をくすぐった。外見のイメージを崩すことなく、中も洋風。窓から差し込む光が柔らかく店内を照らしていた。

「いらっしゃい」

 カウンターから、40代のひげをたくわえた男が声をかけてくる。彼は、タキシードを寸分の狂いもなく着こなしていた。

 店の中には、その男一人だけ。休日の昼前にしては、寂しすぎる光景である。聡にはこの匂い、そしてこの静けさ、さらに男の声までも懐かしく感じていた。それにも関わらず、思い出すことが出来ない。焦燥感と苛立ち。聡がそれを感じていると。

「・・・ん?」

 カウンターの男――この店のマスターであろうその人が、いつまでも座らないで立ち尽くしている聡に気づいて、不思議そうに視線を送ってきた。

 その瞳がすっと細くなったかと思うと。

「お前、聡じゃないか!?」

 唐突に、マスターが驚きの声をあげた。わけがわからず目をぱちくりさせている聡に、彼はやや意地悪そうな笑みを浮かべた。

「おいおい、この店と俺を忘れたとか言うんじゃないだろうな? 冗談でも、ゆるさねぇぞ」

 その時、聡の中で何かがカチッとはまり込んだ。

「・・・いや、相変わらず寂れてるなって思っただけだ」

 ずっと昔。それがどれぐらい昔かは、分からない。聡は、この店によく来ていた。一人ではなく、何人かと。

 だが――。

 誰と一緒に来たかまでは思い出すことが出来なかった。

「親父、いつものだ」

「ふっ、またメニューを見ないつもりか。このクソガキめ」

 懐かしむようにマスターが言う。聡は、かつて自分が座っていた場所を思い出し、そこに座った。

 いつもの。

 ここでは、それしか頼んだ事がない。そして、出てくるメニューも覚えている。なのに、それ以上のことが思い出せない。

 確かに、その時隣に誰かがいたはずなのだ。

 誰かが――。

「なに難しい顔してんだ?」

 マスターなら、いつも誰と一緒にいたのか分かるのではないか。

 探し回らなくても、目の前に答えがある。

「元からそういう顔だよ。そういやぁ、アイツはどうしたんだ?」

 記憶喪失である事など今更説明しても、信じてもらえそうにない。とりあえず、『アイツ』という言葉を使って聞いてみた。

(いつき)君なら、そこの(さくら)高校で教師をしている。お前、まだ挨拶してないのか?」

 一発でビンゴ。隣にいたのは、どうやら斎というらしい。だが、名前を聞いてもピンと来なかった。

「あぁ、帰ってきたばっかりだから、これからだよ」

 『帰ってきたばかり』――素直に出てきたその言葉に、聡は自分で驚いていた。記憶は相変わらず不明瞭のままであるが、聡はこの町に住んでいたか滞在していたかで、ここ数年は町を離れていた、そんな所だろう。

「心配していたからなぁ。ちゃんと、謝っとけよ」

 そう言いつつ、オーナーが聡の前にコーヒーを置いた。

 心配していた――その言葉が、少し気になった。オーナーも、先ほどと比べて暗い顔をしている。これらが何を意味しているのか。分かる事は一つだけ。自分の過去の中には、歓迎したくないものも混じっているという事だ。

 聡は、コーヒーを口に含む。過去の記憶は、このコーヒーのようなものかもしれない。そんな事を思った途端、馬鹿らしくなって苦笑を浮かべる。

 改めて、もう一口。懐かしくはあったが、苦すぎて自分の口には合わない。見計らったように、オーナーがシュガーポットとミルクを置いてくれた。彼は、少しだけイジワルそうに笑っていた。

「その年になっても飲めないか」

「甘党に年は関係ないのさ」

 いつもどれぐらい入れていたのか、その加減が自然と思い出せた。そんな些細な事でも、聡は嬉しさをかみ締めずにはいられなかった。

 いつもの――それは、オーナー特製のハンバーグ定食だった。

 食べれば、記憶が戻る素敵メニュー――なんて都合がよいものはあるはずはなく、味に懐かしさを感じても、かつての場面を垣間見る事は出来なかった。

 ハンバーグ定食を平らげた後、コーヒーを一杯追加してもらう。それを飲みながら、のんびりとオーナーが流している趣味、もしくは雰囲気作りなのかも知れないが、名前も知らないクラシックに聞き入っていた。そうしていると、オーナーが『聡』と声をかけてきた。聡が、『ん?』と話を振るが、オーナーはなかなか話を切り出さない。最後には、なにか安心したような顔で笑い、『んにゃ、なんでもない』と答えた。

「なんだそりゃ。言いたいことがあるなら、言ってもらって構わないのに」

 そうしてくれると助かるのが、聡も本音。しかし、オーナーはそれから口を開かなかった。それが、聡を不安にさせた。

 

 少し時間は(さかのぼ)り、橘家――。

 椿は、オフタートルTシャツと黒いロングスカートという服装に身を包み、鏡の前でクルクルと回っていた。今日は、由紀子たちとお出かけする日。生活のほとんどを着物か仕事着である巫女装束で過ごしている彼女であるが、友達と過ごすときは目立たないように洋服を着る。ずぼらな由紀子に比べれば、彼女の方がずっとお洒落であった。

「こんなものでしょうか」

 自分なりに満足な出来であったようである。すでに用意しておいた黒い手提げのバックを持って、椿は廊下へと出た。するとちょうど妹の(さくら)が廊下を歩いていた。椿に気づいた櫻は、軽く会釈をする。

「お出かけですか、椿姉さま」

 いまどき珍しいポニーテールの少女。服装は、薄い桜色の着物である。感情の薄い細い瞳に、痩せすぎた顔。その姿は、痩せた犬を連想させた。彼女の名は、櫻。椿の妹であり、橘家の除霊屋の一人でもある。

「えぇ、友達と」

 気恥ずかしそうにしている椿。滅多に洋服を着ないため、どうしても恥ずかしいのである。しかし対する櫻はというと、凍てついた表情をピクリとも動かしてはいなかった。

「お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 ペコリと頭を下げ、横を通り過ぎていく。椿は何か声をかけようとしたが、結局何も言うことはできなかった。 深い溜息を吐く。妹の扱い方が、彼女には分からなかった。

 時刻を確認する。そこで椿は眉根を細めた。現在時刻は、十一時五十分。部屋に戻って目覚まし時計の時刻を確認してみる。そっちは十一時半で――秒針が止まっていた。

 血の気が引いた。

「最悪っ!」

 椿は、慌てて家を出た。

 待ち合わせ場所は、櫻駅の前。走った所で間に合う距離ではないが、彼女はかまわず走る。折角セットした髪が乱れる事を気にしながらも、まっしぐらに駅に向かった。

 時刻は、十二時七分。椿は、駅前に立っている夏樹を見つけ、全力で走り寄る。夏樹も気づいてそんな椿に手を振ったが、彼女にそんな余裕はなかった。そのまま走り寄り、夏樹の肩をガシッと掴んだ。

「お、遅れて申し訳ありません!!

「いいいいいい、OK、OK! とりあえず落ち着こうよ椿ちゃん」

 ガクガクと揺さぶられる、哀れな夏樹。椿は姿身はか細いが、その腕力はとんでもない。揺さぶられすぎると激しく危険である事を、夏樹もよく知っていた。

「時計が故障していまして・・・申し訳ありません」

「いいよいいよ。それに・・・椿ちゃんに悪いけど・・・」

 夏樹は周りを見渡す。日曜日である事もあって、人も車も割かし通っている。しかし、そこには彼女が探している者達の姿は見当たらなかった。

「・・・夏樹さん」

 椿も様子がおかしい事に気付いたようだ。彼女も、周りを同じく見渡す。だが、彼女の瞳にも夏樹と同じものしか映らなかった。

「後の二人はどうされたんですか?」

「それが・・・」

 夏樹は、少し言葉を濁らす。だが、もう誤魔化す事も出来ないので、できるだけ明るく椿に告げた。

「十分前からここにいるけど、だ〜〜〜〜れもこないんだなぁ! あはははは!!

 夏樹の笑い声が、虚しく響き渡る。椿は、いまだに夏樹の洋服を掴んでいる。だから分かった。その握力が、瞬間的に増した事に。

「この私が・・・どんな思いで・・・」

「ゆ、ユッキーが遅刻するなんて、ほら・・・ね?」

「夏樹さん」

 椿の声は、まるで井戸の底から這い上がってくる地獄からの怨嗟(えんさ)の声のよう。夏樹の顔も、真っ青に。

「そ、そうだよね。遅刻なんて、悪い事だよね。にゃははは・・・」

 最後の方は、もうほとんどかすれていた。

「迎えに行ってきますね」

 椿が浮かべた笑みは、あまりにも完璧すぎた。彼女は、普段あまり笑わない。そんな彼女が笑うときは、大抵怒っている時である。

 椿は、長い髪をたなびかせ、颯爽と由紀子の家を目指していく。

 夏樹には、それをただ見届けるしか出来なかった。

 由紀子の家までは、およそ三十分程度。その道程を、椿は十五分に短縮させた。端から見るとただ歩いているだけのように見えるが、速さが尋常ではない。彼女の所だけ、早送りでもしているかのようであった。

 由紀子の家族とは顔見知りなので、チャイムも鳴らさずに家に上がる。『おじゃまします』と、居間でテレビを見ていた由紀子の母親に挨拶してから、二階へ。階段上がってすぐ左の部屋。そこが由紀子の部屋である。

 ドアを開けると、ガンと何かにぶつかる。散らかっている本に阻害され、ドアは半分ほどまでしか開かない。その間に体を滑り込ませ、室内へ侵入した。

 由紀子は、気持ち良さそうにまだ眠っていた。もう昼も過ぎているというのに。ここまでくると、椿も流石に呆れていた。起こそうと近づいたとき、机の上にある本が目に付いた。脳関連の本に、精神疾患の本。あとは、小難しくてよく分からない本が何冊か並んでいた。

「・・・また凄く難しい本を。お医者さんにでもなるつもりなのかしら」

 由紀子の知識は偏っている。彼女が医者になろうとするならば、先に勉強しないといけないことは山ほどある。なんにせよ、由紀子を起こさないと話は進まない。椿は、由紀子を揺すり起こした。

「ん・・・あれ・・・? 椿・・・さん?」

 寝とぼけた顔で、目を擦っている。椿は、由紀子がいつも付けている眼鏡を由紀子にかけてあげた。

「おはようございます。随分とゆっくりとしたお目覚めでしたね。殴りますよ」

 由紀子の顔は、青ざめていた。現状を理解した様子である。

「・・・ゴメン。殴らないで。すぐに着替えるから」

「まったく、また夜更かしをしていたんでしょう。あんな難しい本を読んで」

「あぁ、ちょっとね」

 由紀子は答えをはぐらかした。さすがに椿もそれ以上突っ込んで聞くわけにもいかなかったので、由紀子の着替えを手伝う事にした。

「だから! なんで、そんな地味な服を選ぶんですか! それ、ヨレていますよ! それも却下です! 由紀子さん、少しは自分が女性であることを自覚してください!!」

 結局、椿は自分で選んだ服を由紀子に着せ、髪を整わせてから、引っ張るように待ち合わせ場所へと移動した。由紀子は、大層困り果てた顔をしていた。

 待ち合わせ場所へと着くと、見覚えのない少女が一人、夏樹の側に立っていた。少し赤茶けたセミロングの髪に、ダークブルーの瞳。やや痩せすぎているようだが、胸だけが異常に発達していた。まるで、どこぞの令嬢――そんな風に、椿の瞳には映っていた。

「あの方は?」

 由紀子に聞く。

「あぁ、天野さんだよ。鬼のように可愛いでしょ?」

「そうですね。どこから騙して連れてきたんですか?」

「人をなんだと思っているのよ。クラスメートで、ちょっと色々ときっかけがあっただけだって。夏樹、神華さん、ごめん、待たせて」

 由紀子が二人の下へと走り寄っていく。

「なにが、ゴメン、だよ! 遅い! 遅すぎる! ユッキーが言い出したのに、何分待たせるわけ?!」

「面目ない」

 そこで由紀子は振り返って、神華に椿を紹介していた。

「天野さん、友達の椿さん」

「はじめまして。橘椿です。どうぞ、良しなに」

 丁寧に頭を下げると、神華も同じように会釈していた。

「天野神華です。よろしくお願いいたします」

 容姿と同じで、とても品のいい人である。しかし、何かしらの違和感があった。それがなんなのかまでは分からなかったが、確かに何かが変。それは確信できたのだが、肝心の何がおかしいのかが分からなかった。神華は、どここからどう見ても変ではない。変ではないのに変。

 椿は、気にする事でもないと開き直る。人間、一つや二つ秘めているものがあってあたりまえである。椿自身にも、由紀子や夏樹が知らない思いを抱えている。それが当たり前なのだ。

「じゃ、ボチボチ行こうよ。時間が、誰かさんのせいでごっそりなくなっちゃったしね」

「はいはい、私が悪うござんすよ」

「全員分奢ってもらわないと割に合いませんわね」

「私に死ねと申しますか、椿さん」

「介錯は、友人代表で私がしてあげますから、どうぞすっぱりと」

「ま、まだ死にたくない! 夏樹、なんとか言ってよ。あの人、素で怖い」

「私に助けを求めないでよ! 大人しく、すっぱりされちゃえ」

「ブルータス、お前もか!」

 そんなこんなで一行は、海沿いに五分ほど歩いた所にある、喫茶店『海の家』を目指した。ひねりも何もない名前であるが、見た目は海の家なんて粗暴なものをイメージさせる佇まいではなかった。綺麗なレンガパネルで覆われた、洋風の一軒家。そこだけ、まるで世界が違うかのような感じを抱かせるその店を見て、神華は『ここだったんですね』と呟いていた。

「この店、知っているんだ」

 由紀子と夏樹と椿。この三人は、この店によく来ていた。由紀子の問いに、神華はわずかに陰りのある笑みを見せた。

「はい、少しだけ」

 セミロングの髪をきゅっと掴む仕草。いつもの明るい感じがすっかりと消えてしまった神華に、椿、夏樹、由紀子は顔を見合わせた。

「シノ、嫌なら場所を変えるよ」

「そうそう、別に他にだってあるわけだし」

「ですね。あえてここにしなくても問題はありませんよ」

 三人の意見に、神華はいつものように笑って見せた。

「いえ、平気です。別に、この店が嫌いというわけではありませんから」

 神華がそういうなら、無理に変える必要もない。ということで四人は、店の扉をぎぃっと押し、中に踏み込んだ。

「いらっしゃい」

 という男の声は、カウンターの向こう側にいる、ひげを蓄えた四十代ぐらいの渋いマスターのもの。濃厚なコーヒーの匂いが漂う。マスターは、入ってきた由紀子達を見て。

「よっ、乙女達! 久しぶりじゃないか」

 と、気軽に挨拶してきた。常連というわけでもないが、一番最初に来たときに夏樹とオーナーが妙に意気投合したおかげで、すっかり顔を覚えられてしまっていた。

「ちぃ〜す、また来てやったよ。相変わらず、儲かってないでしょ?」

 夏樹の言葉に、『うるせぇ』と答えるオーナー。この店、決して悪くはないのだが、オーナーの性格が災いして客が少ないのだ。

「ところで・・・むっ?」

 オーナーは、神華を見て眉根をひそめる。そんなオーナーに、神華は軽く頭を下げた。

「・・・お久しぶりです」

「えっ? 天野さん、知り合い?」

 驚く由紀子。それよりも驚いていたのは。

「おぉ〜〜〜〜〜!!!!」

 なんと、店中に声をとどろかせたオーナーだった。

「神華ちゃんか! 久しぶりだな。さっぱり髪を切っちゃって、失恋でもしたのか?」

 オーナーにそういわれて、神華は困った顔をする。それでオーナーは、なにやら納得がいったようだった。

「おっと、ごめんよ。今日は、おごりにしてやるからな」

「・・・そんなに気を遣わないでください」

 神華とオーナーが紡ぐ、不思議な雰囲気。由紀子達もわけが分からず立ち尽くす羽目に。

「神華ちゃんは、君達よりも古い常連さんなんだ。席はいつも通りガラガラだ。好きな所に座りなさい」

 その時になって、夏樹がカウンター席の端のほうに男の人が座っているのに気付いた。オーナーの大声にビックリしたのであろう、顔を上げて、しかもこちらのほうに顔を向けてきた。

「聡さん・・・?」

「夏樹さん、どうかしましたか?」

 先に席を確保しに行った由紀子と神華。その後を追いかけようとした椿が、夏樹の様子がおかしい事に気づいて、声をかけた。夏樹は、そんな彼女の言葉に答えることなく、男の方へと走り寄っていった。

「聡さん! こんな所で会うなんて、超奇遇だね!」

「おっ、夏樹じゃないか。皆で、ご飯か?」

「そんなところ〜」

 カウンター席の端にいた男は、大木公園で競争して夏樹を破った、神山聡であった。夏樹は、あれ以降もちょくちょく大木公園へと赴き、聡との交流を深めていた。今では、すっかり仲良しである。

「サトシ? あれが・・・」

 椿は、報告に上がっていた名前と同じ事に気づき、由紀子の方を見た。しかし彼女は、メニューを見ており、まるで関心がない様子である。否、由紀子の表情がいつもに比べて、落ち着きがない。メニューを見ているだけが、果たしてその情報を読み取れているのか。

「由紀子さん、今日は白玉パフェ、奢ってくれるんでしたよね?」

 由紀子の横の席に座りながら、椿は普通に話しかけた。由紀子が一生懸命に知らない顔をしているのに、それをほじくり返すほど、椿も空気が読めないわけではない。今は、由紀子の気持ちを尊重すべきである。

「いつもお世話になっているしね。白玉パフェでいいの?」

「えぇ、結構です」

「じゃ・・・私はチーズケーキのセットかな・・・天野さんは?」

 神華は、メニューを畳み、朗らかに笑う。

「はい、決まりました。虹野さんは・・・」

 夏樹はまだ聡と話をしているようである。

「アイツはほっといていい。オーナー、注文をお願いします」

「あいよ」

 由紀子は椿の分の注文もまとめてオーダー。それに続いて神華が、チョコレートパフェをオーダーした。

「あの、天野さん。一つ、伺って宜しいでしょうか?」

 椿の問いかけに、神華は少し困ったように笑った。

「出来れば・・・名前で呼んでいただけると助かります。あまり・・・苗字で呼ばれるのは好きではないもので」

 椿は少し驚いた。

「なら、神華さんと呼ばせて頂きますね。私のことも、どうか『椿』と呼んでください。私も、苗字で呼ばれるのは好きではないので」

「そうなの? ごめん、私普通に苗字で呼んでいた」

「なかなか言い出せなくて。くだらない、些細なこだわりですので、気になさらずに。あの、ところで椿さん、私に聞きたいこととは?」

「不思議に思って。由紀子さんは、かなり人見知りで、ご覧のように目つきも悪いです」

「悪かったわね」

「神華さん、なにか弱みとか握られていませんか?」

 心底心配そうに尋ねる椿。神華は、『とんでもないです』と両手を振って否定した。由紀子は、もはや咎める気もないらしく、外を眺めている。

「むしろ、私のほうがご迷惑をかけております」

「由紀子さんは人見知りですが、お人よしでもありますから」

 椿は、自分の事のように嬉しそうに語る。由紀子は何も言わない。照れているのだ。

「皆、ゴメンネ」

 そんな風に、たわいのない話をしていると、夏樹が戻ってきた。神華の隣に座り、さっそく注文している。しかも、『いつものやつ』と。

「いつもの・・・どれだ?!」

 夏樹のオーダーは、通らなかった。それもそのはず。夏樹は、この店に来て同じ品物を頼んだ事はない。基本、ノリで生きている夏樹らしい行動である。

「馬鹿がいる。前から思っていたけど、真性の馬鹿だ」

「ここは、オーナーがさりげなく私の好きそうなのをチョイスするべきだと思うわけ!」

「死ねばいい」

 由紀子の容赦のない一撃。椿と神華もさすがに苦笑していた。しかし――。

「俺は、試されていたのか?! くぅーー!! 浅はかな己が恨めしい・・・!」

 オーナーは、ノリノリだった。

「よし、封印していた、イナゴのパフェを」

「殺される!!」

 店の中に、笑いが木霊した。

 

 楽しい時間はすぐに過ぎ去ってしまった。店の前で神華と別れ、商店街近くで、夏樹とお別れ、そして橘神社の階段の前で、由紀子の背中を見送る。とても有意義な時間だった。だからこそ思う。今の生活を壊されたくない――と。

 由紀子の姿を見送ると、椿は階段を登らずに道路を渡って、住宅街の細道へと入った。

 夏樹から、サトシのことを幾ばくか聞きだせた。名前は、神山聡。大木公園で、時折姿を見かけるが、その素性は夏樹も知らないとのこと。大木公園に行くならば、道をまっすぐに行ったほうが近かったが、そちらは由紀子の帰り道と重なってしまう。そのため、迂回して大木公園を目指していた。

 時刻は、六時を回ろうとしている。日もかなり傾いており、風もかなり冷たくなってきている。夜の(とばり)が下りる。

 大木公園は、すでに静まり返っていた。夜になると、その表情を変える大木公園。女の幽霊が出る、大きな狼を見た――さまざまな噂が人を遠ざけているのだ。その理由を椿は知っている。ここは、ある人の狩場。大木公園の中央に鎮座する『守り木』は、魔を呼ぶ広告塔のようなものであり、また食い残した残滓を掃除するクリーナーでもあるのだ。

 さすがにこの時間帯にはいないだろう――椿はさして期待もせずに、守り木が鎮座する中央まで辿り着き、そして驚いた。ベンチに座っている、青年が一人いる。短く刈った髪に、しっかりとした体つき。間違いない、神山聡その人である。

 椿が近づくと、俯いていた聡が顔を上げた。

「君は確か・・・」

 まともに顔を合わせてはいないはずであるが、彼もまた椿のことを覚えていたようである。

「橘椿です。あなたのお名前を聞かせていただけませんか?」

 並ならぬ気配を感じたのだろう、聡は立ち上がった。

「・・・神山聡だ」

「少し、お話があります。正直に答えて頂きたい」

「話?」

「どこで、『茜』という名前を知ったのか、教えていただけませんか?」

「なぜ、君がその名前を・・・?」

「由紀子さんから聞きました。教えなさい。どこでその名前を知ったのか」

 口調は穏やかであるが、椿の言葉は非常にきつかった。

「そんなに重要な名前なのか? 悪いが、俺は知らない。あの件は、人違いとしてもう片付いたことなんだ。今更、ほじくり返すのは止めてくれないか?」

 椿は、聡の胸倉を掴みあげた。

「とっても重要な名前よ。一般人が知っていていい名前じゃないわ。あなたは何者? なぜ、由紀子さんを『茜』と呼んだのか。知らないで済ませないわよ」

「よく分からないが、そんなに大切な事なのか。手を離してくれないか? このままじゃ、話しにくい」

 椿は仕方がないと手を離した。聡は、服を調える。

「小泉にも言ったが、俺は記憶喪失なんだ。今年の四月三日以前の記憶が俺にはない。だから、『茜』というのが誰なのか、分からない。小泉に似ていたのかもしれない。俺が言えるのは、それぐらいのことしかない」

「記憶を喪失している・・・」

 そこで椿は、由紀子の机の上に積んであった小難しい本の事を思い出す。あれは、彼の記憶喪失について調べていたものだったのだろう。

「『茜』というのは、君の知り合いなのか? もし知り合いだったら、会わせて欲しいんだが。記憶を取り戻したいんだ。会えば、戻るかもしれない」

 にわかに信じがたい。記憶喪失なんて、嘘の常套手段である。だが、彼が嘘を言っているように見えないのも、確かだった。

「・・・茜さんは、ずっと昔に亡くなっています。由紀子さんと(ゆかり)のある方なんです。この話は、内密にお願いいたします。由紀子さんを、困らせたくないでしょ?」

「そっか。分かった。もう聞かない。忘れるよ。そういうことなら」

 聡は、あっさりと椿の言葉を信じてくれた。根はとっても素直な人であるようだ。そんな彼を、疑うのはお門違いのように感じた。

「ごめんなさい。急に意味不明な話をして、胸倉まで掴んで」

「気にしてないよ。小泉のこと、大切なんだろう?」

「えぇ、とってもとっても大切な人です」

「なら、それでいい」

 聡は、優しく微笑み、ベンチに置いていた小さな箱を手に取った。

「じゃ、俺は帰るわ。君も気をつけて帰るんだぞ」

 何事もなかったように聡は帰って行った。椿は、その背中をどこか複雑な表情で見送っていた。

「記憶を喪失。過去に何かしらの接点があったのなら、由紀子さんと接触させるのは危険なのかもしれませんわね。でも、そんな曖昧な事では動けない。内偵を進めてもらって、確たる材料を揃えて、それから判断すべきですね」

 心がざわついていた。なにか、良くないことが起こるような気がしてならなかった。

 

 聡は、ログハウスの前に転がっている材木に腰をかけ、夜空を見上げていた。随分と、色々な事があった。

 記憶を喪失し、琴菜に助けられる。

 仕事を探しに町に下りれば、夏樹と由紀子と出会う。二人とも、妙な引っ掛かりを感じるのは確かだ。夏樹は、夢で見た異形の一人に似ている所があり、由紀子は異形には似ていないが、不思議な光景を垣間見た。

 喫茶店で、幼馴染の情報も得られた。斎という名前で、櫻高校で勤務しているとのこと。彼女に会うことが出来れば、一気に色々と知ることが出来るだろう。しかし、どうやって会えばいいのか、分からない。普通に学校に入ったら、今のご時勢警察のご用になりかねない。

「由紀子に頼むか・・・」

 そう口にして、聡は己の本心に気付く。

 斎には会いたくない。何故だか分からないが、それが本心だった。

「仕事も見つからない、記憶も見つからない。わけの分からないことばかりだ」

 長期戦になるのは覚悟しなければならない。

 聡は、深い溜息を吐いた。

 

 

 END

 

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