第二話『面影の王子様』


 琴菜の祖父のスーツを借りて、身に纏う。ネクタイをきっちり締め、聡は居間へと赴いた。

 居間には、琴菜がいる。ごちゃごちゃとした部屋の中央で、真っ白なキャンバスに彼女は向かっていた。

「・・・似合ってない」

 最初の一言に、カチンと来るが聡は耐えた。

「うるせぇ」

「仕事、本当に探しに行くの?」

 琴菜は、再び真っ白なキャンバスに向き直る。真剣な顔。しかし、鉛筆をクルクルと回しているだけで、一向に彼女は描こうとしない。

「あぁ、いつまでもお世話になるわけにもいかないしな。・・・それ、何も書かないのか?」

「書くわよ。そのうちね。お金なんて、いくらでもあるから、気にすることはないわよ」

 聡は、頭をボリボリと掻いた。

「お前、箱入り娘とかそんなのか?」

「そう見えるなら、嬉しいわね」

 聡は諦めた。琴菜になにを聞いても無駄である。

「・・・ここにいても何も変わらないからな。それに、なにかしていないと気が滅入りそうだ」

「そう。頑張る必要はないから。私のためにとか、そんなこと必要ないから。全ての時を、自分のために有効に使いなさい」

 琴菜は、ただ淡々と微笑むこともなくそう言った。気を遣っているのか、ただ距離を置こうとしているのか。はたまた両方なのか。今の聡では、全く判断がつかなかった。

 

 (さくら)町の南側、櫻町商店街の外側の密集した住宅街に(こう)()印刷所という、小さな印刷所がある。かつては結構繁盛していたが、人手不足と人材のチョイスに失敗し、いい感じに看板が傾いてしまった。社長の虹野美津子は、いつも眉間を寄せ、帳面と向き合う。

「お母さん、学校行ってくるね!」

 明るい笑顔を振り撒いているのは、娘の夏樹。母親の辛気臭さも、彼女の笑みの前では吹き飛んでしまう。

「おう、気をつけなよ。アンタまで先に逝ってしまったら、世界を恨んで魔王にでもなっちまうよ!」

「にゃははは・・・お母さん、心配しすぎー」

 貧乏は貧乏なりに。父親を早くに亡くした虹野一家は、それなりに幸せな毎日を送っていた。

 夏樹の朝は、とても早い。町内を一周してから、学校に向かうからだ。母親の心配も、そこに起因している。それが分かっていても、この日課を止めるわけにはいかない。彼女には、彼女なりの『走る』理由があるからだ。

 夏樹は、左手首に古ぼけたリストバンドを付けている。七歳の時に、とある少年からもらった『足の速くなるお守り』である。その頃の彼女は、とても『ノロマ』だった。何をするにも動きが遅くて、他の子からは『カメ』と評されるほどであった。その日も、彼女は他の子供たちに『カメ』と呼ばれ、からかわれていた。そこに現れたのが、リストバンドを付けた少年だった。

「もう泣くなよ。あ、そうだ! このリストバンドをあげるからさ。足の速くなるお守りなんだぜ」

 彼は、他の子供たちを追い払った後、リストバンドをくれた。少年の笑みとその優しさを、今でも夏樹は忘れる事ができない。リストバンドを付けて走っていれば、いつか彼に会うことが出来るのではないか。それが、彼女の『走る』理由である。

 中学生の時から陸上部に所属し、高校生になってからも陸上部を続けた。もともと才能があったため、夏樹は多くの賞を取り、現在も期待のエースである。しかし、少年とはあれから一度も出会えていなかった。

 いつも通りに町内を一周して、いつも通りに大木公園の中央に(そび)え立つ守り木の下のベンチで一休みを取る。

 四月もまだ中旬。風がとても心地よく、春の匂いを感じる。夏樹は、大きく伸びをして、心行くまで一休みを堪能していた。

「もう高校二年生か。もうあの人には会えないのかな。はぁ・・もう会っても、分かんないよね。十年も過ぎちゃったし」

 少年が何歳だったのかは、記憶もおぼろげになっているからはっきりしない。それでも、十年も経てばかなり相手の容姿も変わっていることだろう。正直、最近どんどんと自信がなくなりつつあった。

 そんな折である。公園の中央に一人の青年がやってきていた。その青年は、近くにあった空き缶をやけくそ気味に蹴飛ばした。空を飛ぶ空き缶。クルクルと回転し、それは――あろうことか夏樹の頭に直撃した。

「あだっ!」

 妙な奇声を上げ、頭を抱えてうずくまる夏樹。スチール缶の硬さは、半端ない。痛くないはずがなかった。さすがに缶を蹴った青年も焦った様子。慌てて駆け寄ってきた。

「うわぁーー! すまねぇーーー!! 大丈夫か? 救急車呼ぶか? その前に止血か?!」

「なんてことするのよ! 頭がカチ割れるかと思ったよ!」

 夏樹は、慌てる青年をきっと睨み付けた。髪を刈り上げた、随分と立派な体つきの青年である。青年が慌てふためく姿は、どこか滑稽でもあった。だからといって、許すわけにはいかない。断じて。

「ねぇ! 普通、周り見るよね?! 考えなしに、空き缶とか蹴らないでくれるかな! すんごい、気分悪いんだけど! おじさん、謝ってすむならね、警察なんかいらないのよ、この馬鹿!」

「まったくその通りだな。本当にゴメンな。ちとイライラしてて」

 言えば言うほど、ショボーンとしていく青年。怒っているうちに、夏樹もなんだかあんまり言うのも可哀想かな? と思えてくるほどであった。

「たんこぶ出来なかったか? 本当にゴメン」

「・・・もういいよ。今度から気をつけてよね。私みたいに、寛大な人ばかりじゃないんだから」

 言うだけのことは言ったので、夏樹は早々にその場を後にしたが――少し気になって、公園を出る前に後ろを振り返った。しかし、もう青年の姿はなく、何が気になったのかも、結局は分からないままだった。

 その次の日のことである。

 いつもの日課を終えて大木公園へと来ると、昨日の青年がベンチに座っていた。驚く夏樹に、青年は気軽な様子で『よぉ!』と声をかけてきた。

「昨日は本当に悪かったな。あ、これやる」

 良く冷えた、スポーツドリンクの500mlのペットボトルを手渡される。ひとっ走り終えたところで、これは嬉しい。夏樹は、快く受け取った。

「ありがとう。昨日の事は、本当に良く反省してよね。すんごい、痛かったんだから」

「反省しております。猛省しております」

 深々と頭を下げる青年。どことなく憎めない人である。彼に対しての怒りは、いつのまにか消失していた。

「おじさんは、何かスポーツでもしているの?」

 青年の隣に座って、スポーツドリンクを飲みながら、彼と雑談する。座るといっても、青年がほぼ真ん中に座っているのに対して、夏樹はベンチの端であるが。

「う〜ん、分からん」

 青年は困っていた。

「分からん?」

 夏樹も困って、そのままオウム返し。

「・・・分からないんだ」

 青年はただそう繰り返した。その表情は、冗談を言っているようにはまるで見えなかった。なにかしらの事情があるのだろう。夏樹もそれ以上は聞かなかった。

「そういう・・・えと、名前、聞いていいかな。俺は、神山聡」

「虹野夏樹だよ」

「虹野さんは、なんのスポーツをしているの?」

「陸上の短距離」

「へぇー、短距離か」

 青年――神山聡は、どこか嬉しそうに立ち上がった。

「なんだか、懐かしいな。なぁ、俺と競争しないか?」

「へっ? 言っとくけど、私、滅茶苦茶速いよ。勝負にならないと思うんだけど」

 相手が成人男性であろうが、夏樹は負ける気などさらさらなかった。それだけ、短距離には自信があった。

「それでもいい。なんだか、今無性に走りたいんだ!」

 拳を握って、熱血な聡。そこまで言われると、断るのも可愛そうだと、夏樹は彼に付き合うことにした。

 場所は、そのまま大木公園。中央から外の大通りまで伸びる道は、長さ100m前後。丁度いい長さなのである。

「位置について・・・」

 夏樹が掛け声をかけることになった。聡は、軽く腰を沈める。夏樹も彼に合わせて、少しだけ腰を沈めた。わざわざ、正式のスターティングポーズはとる必要もないと判断したのだ。

「よーい、どん!」

 夏樹が少し早く出た。軽やかにそして力強く大地を蹴り上げ、夏樹の体が加速していく。いつも通りの走り。手加減は最初からするつもりはなかった。引き離されていくであろう聡の姿を見るために、後ろを振り返ろうとしたその時、目の前を聡が走り抜けていった。

「えっ?」

 驚いている間に、グングンと引き離される。慌ててスピードを上げようともがくが、距離はただただ離されるばかり。その後姿が、夏樹には一瞬リストバンドをくれた少年の姿と被って見えていた。

 結局夏樹は、圧倒的な差をつけられて敗北してしまった。

「うそっ・・・」

 肩で息をしている夏樹には、それしか言葉にならなかった。聡のほうは、もうすっかり息を整えている。体力も彼の方が桁違いに上のようである。

「よっしゃ、大勝利! やっぱ、間違ってなかったぜ」

 彼が何を言っているのか、やっぱり分からない所がある。だが、今はそれどころではない。夏樹は、意を決めて、彼にリストバンドを見せた。

「ねぇ、このリストバンドに覚えがない?」

 願うように、夏樹は言葉を紡ぐ。『yes』と言って欲しい。そんな彼女の思いは――。

「ん・・・悪い。今、分からないわ」

 叶わなかった。知らないではなく、分からないであったが、彼女にとっては同じ意味も当然だった。

「そっか。せっかく会えたと思ったのに・・・」

 悲しかったが、夏樹はすぐに気持ちを切り替えた。

「なんでもない! それにしても、神山さん、足速すぎ! なにが分からない、だよ。いい感じに、騙された! 責任取れ!」

「またジュース買ってきてやっから、そんなに怒るなよ」

「物で釣ろうとしている! 大人ってズルイんだ!」

 口でそう言いながらも、夏樹はとても楽しそうに笑っていた。

 

 夏樹と別れた聡は、すっとその表情を引き締めた。

「・・・自分の足が速いというのは一つの収穫だったが・・・」

 あの夏樹という少女の顔と、リストバンド。夢に出てきた異形の一人に似ていた。

「気にしすぎか・・・」

 聡は苦笑し、商店街のほうへ足を向けた。

「今日も面接だ」

 大きく背伸びをしながら、歩いていく。

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