第一話『人類が滅ぶ夢』


 2005年 4月

 目を覚ますと、そこはどこかの家の居間だった。覚えがあるようで、そうではないような気もする。室内であるにも関わらず、うっすらとした霧に覆われており、照明も乏しく薄暗い。景色も判然としないが、意識もどこか判然としない。考え事をしていても、すぐにその考えていた事を忘れてしまう。まるで、意識にまで霧に覆われてしまったかのような、そんな思いに彼は駆られていた。

「どこなんだ・・・ここは?」

『ここは・・・だよ』

 女の子の声がした。だが、肝心な部分が聞き取れない。周りを見渡してみると、台所の方に小さな影が見えたが、これまたはっきりと分からない。

「誰なんだ?」

『・・・審判が始まるよ。その前に、お兄ちゃんの名前を教えてあげる。お兄ちゃんの名前は、神山(かみやま)(さとし)。さぁ、起きて』

 声が遠ざかっていく――。

 気付くと、ベッドに横になっていた。

 見知らぬ木の天井。小奇麗な木張りの床の部屋で、部屋の端っこにはこれまた味のある木の勉強机が一つ置いてある。そこに、驚くほど美人な女性が座っていた。白いカッターシャツとジーパン姿であるため、色気においては乏しいと言わざるを得ないが、その野暮ったさもまた魅力の一つなのかもしれない。

「目を覚ましたのね」

 能面のように変わることのない表情に、違和感を覚えた。体を起こすと、『大丈夫?』と声をかけてきてくれたので、『大丈夫』と手を振って答えた。

「それよりも、ここはどこなのか教えてくれませんか? 良ければ、あなたの名前も」

「私は、立麻琴菜(たてまことな)よ。ここは、若草山の中腹」

 どれも分からない。そこで、彼はあることに気付いた。

 分からないのは、彼女の事や地名だけじゃない。何も分からない。どうして自分がこんな所にいるのか。過去のことが一切頭の中になかった。

「嘘だろう・・・何も思い出せない。どういうことなんだ、これは?!」

 錯乱しかけている彼の肩に、琴菜がそっと手を置いた。

「落ち着いて。名前は?」

「それは分かります。神山聡」

 スムーズに出てきた。

「住所は?」

「分からない」

「家族は?」

「・・・分からない」

「櫻町は分かる?」

「分からない」

 分かるのは、やはり名前だけ。それ以外の一切を、彼――神山聡は覚えていなかった。

「記憶喪失みたいね」

「あっさりと認めてしまうんですね」

「意味がよく分からないわ」

 彼女は、さっぱりとしている。表情もやはり変化がない。元から、感情に乏しい人なのかもしれない。

「どうして記憶が喪失してしまったかは分からないけど、過去なんて飾りみたいなものよ。これからどうするのか、考えましょ。力になるわ」

 能面のような顔で、彼女はそう言った。

 琴菜から、現状を聞くことが出来た。ここは、福岡県櫻町若草山の中腹に建てられたログハウス。その裏手の森の中で、聡は倒れていたとのこと。

 琴菜は、まるで表情を変えない。淡々と語る。とっつきにくそうな人だな――聡は、そう思った。

 琴菜の案内で、聡は自分が倒れていた現場に赴くことに。彼女の言葉が示すとおり、周りには鬱蒼(うっそう)と木々が茂っている。なんでこんな所で暮らしているのか。疑問に思ったが、いちいち聞くことでもないので、聡はさらりと流した。

「多分・・・この辺りよ」

「多分、ですか」

 地面はぬかるんでいる。昨日は、凄い大雨だったとか。

 現場は、ログハウスの裏手、およそ百メートル先の森の中。琴菜は、一本の木の根元を指差している。

 聡は膝を折り、周辺を探索してみるが、目ぼしいものはなにもない。どうやら、ここには聡の記憶に繋がるものは、何もないようだ。

「・・・この先はどこに?」

 聡は、若草山の頂上に視線を向ける。獣道もなく、ただただ木々が生えているだけの場所だ。

「この先は、家科(やしな)町よ」

 その地名にもやはり、聞き覚えはなかった。

「歩いて行ける距離ですか?」

「無理よ」

 琴菜は即答した。聡は、しばらく森を見つめた後、溜息を吐いた。彼女の言葉どおり、これ以上先に進むのは無謀だと悟ったのだ。

「・・・確かに、進むのは難しそうですね。なら、私はやはり麓の町からやってきた・・・ということでしょうか」

「そう考えるのが妥当よ。下りてみる?」

 聡は、頷いた。

 琴菜と共に長い山道を抜け、麓の櫻町へと降りる。降りてすぐは、二車線の道路になっていた。聡は、自分の記憶が落ちていないか、周りを見渡しつつ、注意深く歩んでいく。琴菜は、その後ろを付いていった。

 道路を渡り、住宅街を縫い、そし公園に出た。

「・・・大木公園」

 聡は、看板の名を読む。公園へと入り、中央の大きな木の前までやってくる。大きな木は、聡へ降り注ぐ陽光を(かげ)らせていた。

 聡は、守り木を見上げた。

「・・・なにも思い出せない」

 全く知らない土地。しかし、懐かしさを感じることは出来た。それゆえに、思い出せないことが歯がゆい。

「なにも・・・思い出せない・・・!」

 震える聡の肩を、琴菜は優しく叩いた。

「もう一度言ってあげる。過去なんかに価値はないわ」

 聡はその手を振り払って、勢いよく振り向いた。

「そんなことはない! 記憶がないことが、どれだけ自分の存在を曖昧にさせているのか・・・! この焦燥感、そして虚無感! 君には分からない!!」

「えぇ、分からない」

 琴菜は、あっさりと相変わらず無表情で答えた。

「確かに、人にとって過去とは己のアイデンティティーそのもの。でもね、それにすがって自分の在るべき立場を歪めてしまうのは、間違いよ。過去は、過ぎ去ったもの。大切にしなければならないかもしれないけど、それに振り回されてはいけない。私は、過去に価値なんか見出さない。必要なのは、今この瞬間、瞬間、全ての今と、今の選択で導かれる未来だと、私は思う。それに、ないないと大声を上げて探し回っても、探し物は見つからない。そんなことに無駄な時間を費やす暇があったら、新しい記憶を紡ぐことに費やしたほうが、有益だと思わない?」

「・・・そ、それは・・・そう・・・かもしれない」

「過去がなくても、十分に歩けるわ。その歩いた道程は、間違いなくあなたの過去よ。焦る必要なんてない。私は、神山聡、あなたを認識している。一人ではないわ」

 その言葉の重みが、聡の目を覚まさせた。

「・・・分かった。君の言う通りだ。ありがとう」

「部屋はそのまま提供してあげる。好きに使っていいから」

 軽くそう言う琴菜に、聡は驚く。琴菜と聡は年が近い、男女だ。どこの馬の骨とも知れない男の同居を、そんなに簡単に許していいのか。

「いや・・・それは世間的にもあんまりよろしくないので・・・?」

「近所に住んでいるのは、野良犬か、タヌキか、イタチよ」

「そういう問題ではなく・・・」

「炊事と掃除をしてくれる人を探していたの。それでいい?」

 聡は、諦めた。この人には、何を言っても無駄だと悟ったのだ。

「分かりました。では、お世話になります」

「敬語は、もういいから。私のことも、琴菜と呼び捨てでいい。私も、あなたを聡と呼び捨てにするから」

 聡は、少し考えた後、言葉を一言紡いだ。

「おう」

 折角山から下りたのだからということで、琴菜と一緒に商店街で買い物をすることになった。聡の所持していたものは、今も左の薬指に付いているプラチナのリングと衣服だけで、その衣服も今は洗濯されている。現在着ている服は、琴菜の祖父、ログハウスの元の所有者が残していたものである。

 色々な食料や日用品なんかを買い込み、再び山道を登っていく。先頭を切って歩く琴菜。ふと、聡は疑問を口にした。

「どうして、俺にここまでしてくれるんだ?」

 琴菜は少し考えた後、またあっさりと言い放った。

「なんとなくよ」

 

 記憶を失った聡は、表情が欠落している琴菜と共に、ログハウスで生活する事となった。不安、焦燥感はまだ心に燻ってはいるが、虚無感は琴菜が側にいてくれるおかげで随分と軽減していた。明日からの一日、一日をどう過ごすか。その事に思いを馳せているうちに、聡は深い眠りへと誘われていった。

 

 目が覚めると、聡は平らな地面に転がっていた。

「・・・ここは?」

 地面は硬くて冷たい。周りは真っ暗で、何も見えない。さきほどまで寝ていたベッドの上ではないように思えた。

『記憶を失って、一日が過ぎたけど、気分はどう?』

 真っ暗な空間に、明かりが燈る。小柄な姿。服装は、祭服。背中には赤い羽根が一対。顔には、無貌の仮面が付いているため、性別は分からない。

「・・・夢に出てきていた奴か。君は、何者だ?」

『あなたに見せたいものがあります』

 それは、聡の疑問には答えなかった。瞬きの後、彼を包む世界が変化した。

「なっ・・・?!」

 足元に、無数の人間の姿が現れる。空から、地面を見ているような感覚。

 素手で殴りあい、首を絞め、大地に転がった人間を多くの人間が執拗に蹴りを入れている。それは、地獄の光景であった。

「なんだ・・・これは・・・」

『これから起こりうる、未来の一つ。人類の滅び』

「人類の滅び・・・?」

 あまりにもむごいその光景から、視線を逸らすと、別のものが聡の視界に収まった。聡のように、空から大地を見つめている別の集団。その一人に、自分と同じ顔をした人がいることに気付き、驚く。

「あれは・・・俺? そんな馬鹿な・・・」

 顔は確かに、聡のもの。しかし、背中には黒い三対の翼があり、漆黒の鎧を身に纏っている。頭には、左右から一本ずつ、中央に一本の角。身の丈よりも長い、柄の部分に髑髏(どくろ)の装飾が施された巨大な剣を持っている。聡に似た存在は、表情一つ変えることなく、人間が殺しあう様をじっと見つめていた。

 聡に似た存在の近くには、計五人の異形の姿があった。

 白銀の鎧をまとった、性別不明の存在。

 赤い瞳の少女。右手に分厚い本を持っている。

 燃えるような赤い髪の少女。五人の中では、一番小柄だ。

 左手首に赤いリストバンドを付けた少女。リストバンドからは、赤い羽根が刃のように伸びている。

 白い天使が着ているような衣を纏った少女。両腕には、巨大な十字架が付いている。

 それぞれ、淡々と聡と似た存在と共に、地獄をただ見つめる。その六人の背後には、遠近感を狂わせるほど巨大な木が生えていた。それは天を貫いており、どこまで延びているのか、果てが全く見えなかった。

 聡は、言葉もなくそれらを見つめた。最早、どう表現していいのか分からなかった。

『神山聡、あなたの選択が、未来を決める。人類が滅びるか、滅びないか。それは、あなたの選んだ選択によって、決定する』

「でたらめだ。五十億以上いる人間を滅ぼすなんて、出来るはずがない!」

『それは、あなたが人間だからそう思うだけ。私には出来る』

「随分自信満々じゃないか。アンタは、自分を神様だとでも言うつもりなのか?」

『・・・人は、私を神と崇める事もある。私の名は、アース、テラ、ガイア、地球。そう、この星の意思そのもの。人類だけを滅ぼす智恵を、私は持っている』

 どこまで本当なのか、正直分からない。表情も分からないため、なおさらだ。

『私は、人類を裁定するために、神山聡、あなたを選んだ。あなたの選択が、人類の可否を決定する』

「なぜ・・・俺なんだ?」

『その答えは、自分で探しなさい。それもまた、試練です。私は常に見ております。あなたの選択する全ての事柄を、私は見ております』

 目を覚ます聡。とっくに日は昇っていた。汗を拭い、頭を抱える。夢の内容は、完全ではないが、ぼんやりと記憶に残っていた。

「やけに・・・リアルな夢だったな」

 聡は苦笑する。所詮は、夢。気にするようなことでもない。

 今はそれよりも考えなければならないことがある。

「とりあえず・・・仕事をしたほうがいいか」

 聡は、ベッドから降りた。

 新しい生活が、始まる――。

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