尼崎市南部地域は阪神工業地帯に含まれ、大きな工場の多い地域でした。
市には工場で勤める社員、家族が多く住み、昭和40年代の出屋敷駅周辺は多数の商店が軒を連ねていました。
市の南部には国道2号線に阪神国道線、国鉄尼崎より南に尼崎港線、出屋敷駅から急カーブで南に
阪神尼崎海岸線という鉄道線があった。全て運転している姿を見ているがフィルムがもったいないのであまり写していない。
これらの他に人の乗れない工場内鉄道があった。
中堀運河を渡る道路橋上から、すぐ南に鉄道橋が見えていた。 阪神本線とも国鉄線ともつながっていない不思議な線路だと思っていた。
鉄橋のすぐそばで見ることが出来た。
船が接岸し、運河上へ伸びたクレーンで積み込み・積み下ろしができる設備が運河沿いの工場にはあった。
専用線は神戸製鋼所尼崎工場内での移送に使われていた。
残念ながら、平日に来て列車を写したことがない。無用の者は近寄れない雰囲気が騒音を発する工業地帯にはあった。
(1984年撮影)
西宮浜という人工島ができ、阪神西宮駅から路線バスで行けるようになった。 西宮大橋を渡る前の登り坂で工場内に複数の線路と平たい貨車があるのを発見した。 周囲を塀と植木で囲まれ、構内が見れなかったのが橋の上から見れるようになっていた。 インターネット未発達の時代で事前情報なしの単独発見でした。1990年3月撮影
水色の鉄柱はクレーンの支柱で写真右側の岸壁の船に荷物を移せられる。 貨車の連結器は独特な形だった。この日はトラックに製品を積んでいた。
上の写真左の線路は半円カーブを描いている。
上の写真の半円カーブ奥(敷地北側)に止まっていたDL。
同じタイプのDLは海側の線路にもいた。写真奥が工場で線路は建物内に続いていた。
海側線路の奥には方向転換できるデルタ線が見えていた。
この年数回バスから工場を見たが船が着岸しているのは一度も見なかった。
敷地内だけの線路だった。現在クレーン支柱は残っているが線路はなくなっている。
(2023年 記)
尼崎港駅は貨物が主の駅で取扱量は管内で上位だった。
朝夕2往復客車列車が走っていた。(1964年時刻表では朝夕夜の3往復)
塚口駅から東海道線跨線橋への築堤をゆっくり進んで来たDD13牽引の列車は音もなく現れた。1977年撮影
廃止前は客車1両の運転になった。
1981年3月で旅客営業廃止。1984年貨物廃止、廃線。
尼崎駅から福知山線下り線が東海道線を跨線橋で越えた所から築堤の東側に沿って敷かれていた。
コンクリート壁の上は旧福知山線尼崎−塚口間下り線
1980年廃止。1990年撮影
廃線跡は東西線開業のため尼崎駅構内改良で
旧福知山線の上り下り線を複線にまとめてこの区間に通すことに使われた。
(1)の下り線築堤を抜けた西側で1977年撮影
旧福知山線下り線をDD54が通過。卸売市場支線の遮断機が左下に写っている。
尼崎−塚口間にあった築堤と橋脚
阪鶴鉄道の明治時代から使われていたと思う。1990年撮影