四
この日に至るまでの経緯を語ってみれば以下の通りだ。
ここ五ヶ月余りの天地の異常な現象が、天子の動向に深く関わりを持っていることは、
その異変が始まった時期と、帝周辺での忌み事の起きた時期とを考え合わせてみれば明
らかであった。
だがそれも伊周等の配流が決まって以来すっかり鳴りを潜めていたのに、ここへ来て
また新たな展開を見せ始めたのだ。一時に放出されれば、大変な事態に陥る力の集積。
数々の修法(ずほう)や、都の四面に施された呪によって封じ込められていた、先頃
までの異界の力が急速に解放されようとしている。
何らかの働きかけによって、異界から現界へ通じる扉が開かれようとしているのだ。
”働きかけて”いるもの、”働きかけられて”いるものは一体何であるのか?
皐月の半ば頃に始まる、船岡から北野一帯の氣の乱れ。最近はその振幅が頓に大きく
なっていた。夜の静寂(しじま)に、霹靂(へきれき)が鳴り響くことも度々である。
そんな折り、晴明が内裏で耳にしたのが、例の”鈴の音”であった。
神を喜ばせる妙麗な鈴の音。それは行成が書く菅公の詩が、或る特殊な霊層を震わせる
ことによって聞こえてきた音である。
”北野の神”はそれに惹き付けられたのだ。
行成の出生も、菅公が目を付けるにはもってこいであった。
行成は藤原氏九条流の中でも、最も筋目正しい”醍醐帝”の血を受け継ぐものなのだ。
菅公にとっては怨んでも怨み尽くすことのない時平と醍醐帝。
その血が行成にも流れていた。
だが、太政威徳天(だじょういとくてん;道真の怨霊)の働きだけにしては、この氣
の乱れは激しすぎはしないか?
当初は北野界隈の氣の乱れに留まっていたものが、この数日は僅かずつだが都の時空
にも影響を及ぼしはじめていた。
これほどまでの力は何処から来るのか?
”天神”だけの力では、都の結界に影響を及ぼすまでには至らないはず。
だとすれば、もっと大きな力が働いていると考えるのが妥当であろう。
菅公の御霊(みたま)が、十六万八千の眷属をして北野の土着の神にも働き掛けたと
いうことか。
北野の地は、北野社創建以来から、もともと農業の神として火雷神(ほのいかずちの
かみ)を祀っていたところである。これらの波動が一つになって、場の力を増幅させた
という事だろう。大元に御坐すのは、もちろん菅公であるが。
だがここで厄介なことは、この力が成長しているところが、都の結界に大いに影響を
及ぼす場所だということ。
則ち、平安京に施された魔界防御システムの正に中枢で力を増強しているという事実。
平安京は幾重にも施された呪の上に成り立つ都であるが、その中でもとりわけ重要な
意味を持つ結界がある。その結界に関わる場所で力の拡大は進んでいた。
問題の意味を理解するためには、先ず平安京の成り立ちを頭に入れておく必要がある。
平安京がある場所は、大和朝廷の時代(500〜600年)朝廷の招きによってやっ
て来た渡来民族秦氏(一説には秦の始皇帝の子孫と言われる)が、もともと住んでいた
場所である。秦氏は松尾山の神を総氏神として崇め、大宝元年(701)松尾山の麓に
神殿を創建する。それが松尾大社だ。この神社の祭神は、大山咋神(おおやまくいのか
み)である。
大山咋神は、松尾の山の神であると同時に、比叡山を支配する神でもあった。
松尾大社と比叡山を結んだ線上に在るのが、三本柱の鳥居で有名な木島神社。
この鳥居は元糺(もとただす)の池にある。
この名前からも解るように、下鴨神社(賀茂御祖神社;かもみおやじんじゃ)と河合神社の間にある「糺の森」と関係が深い。
(元々は此処にあった祭祀を、嵯峨天皇の御代に下鴨神社に移したのだ)
賀茂御祖神社は、先程の松尾大社と比叡山を結んだ線上にあり、賀茂御祖神社と松尾
大社を結んだ真ん中あたりに内裏は造営された。
つまり、松尾大社、木島神社、内裏、下鴨神社(賀茂御祖神社)と比叡山は直線で結
ばれる。この線は、申寅の方角を示す。これが都を横切る第一のライン。
そして第二のラインは、松尾大社と賀茂川上流にある賀茂御祖神社の上社、上賀茂神
社(賀茂別雷神社;かもわけいかずちじんじゃ)とを結ぶ坤艮の線。
この線は、秦氏の古墳がある双ヶ丘(ならびがおか)を横切る。
(と言うよりむしろ、その坤艮の線に載るように聖地を造ったというべきだが。)
最後である第三のラインは、比叡山と河合神社、大原野神社を結んだ線。
大原野神社は、延暦三年(784)長岡京建設の際、藤原氏の氏社春日大社の神を勧
請して創建されたもの。
ただし、現在地に移ったのは嘉祥三年(850)年頃とされている。
これら三本のジグザグに結ばれた線の中央に内裏はある。
各々の説明をもう少し進めてみよう。
先ずは三柱鳥居とそれぞれの位置関係について。 【図参照;こちらから】
先の、木島神社の三柱鳥居からは、比叡山に夏至の日の出を望むことができる。
比叡山とは『古事記』にあるように、”夏至の朝日が枝(さ)す山”という意味であり、
同じく木島神社の元”糺”の池も、下鴨神社の南側の”糺”の森も「朝日の直刺す(た
ださす)」を意味していると考えるのが妥当だ。〔『古事記』迩迩芸命の項参照〕
それと反対の松尾大社側は、冬至の太陽が沈む場所。
そしてまた、鳥居から愛宕山に向かって太陽を望めば、夏至の日の入りが見られ、反
対の稲荷山には、冬至の日の出を遙拝できる。
木島神社の正式の読みが、”このしまにます あまてる みむすび神社”(木島坐天照
御魂神社)というのも、夏至冬至の日の出・日の入りを正確に四方に望めるところから
来ているのがお解り頂けただろうか。
三方目の鳥居は、一方に双ヶ丘、逆方向に葛城山を望む。
葛城地方は、役小角(えんのおづぬ)で知られた「賀茂役君小角(かもえだちのきみ
おづぬ)」が生まれ育ったところであり、賀茂氏と縁が深い。賀茂氏は雄略朝の時代、秦
氏とともに大和葛城から岡田を経て、山城にやって来たのである。
賀茂氏と秦氏が、濃密な姻戚関係にあったことは秦氏の記録からも窺える。
そして、ここ松尾山は葛城山の真北に位置する。
ということは、松尾山に対する比叡山同様葛城山に対応するものが存在するはずである。
それが、三輪山である。葛城山と三輪山を結ぶ申寅の線上に”藤原京”は造られた。
そう、平安京は長岡京ではなく、藤原京を模して造られた都なのだ。
秦氏(あるいは賀茂氏)によって、如何に緻密にこの土地の調製が為されたかを、さ
らに検証していこう。
比叡山を霊峰としたのは、なにも延暦寺故のことではない。
それ以前からここは秦・賀茂両氏にとっての聖地であり、山そのものが御神体で、主
峰四明岳の名前も、道教の教えに基づいて、東明君・南明君・西明君・北明君と呼んだ
ことに由来する。
秦・賀茂氏の道教しいては神仙思想への思い入れの深さが窺われようというものだ。
すべては陰陽道に基づく完璧な設計のもとに調整されていた。
また、この山に元々あった神道の拠点は、天台宗が護法神としている日吉大社である。
日吉大社は、俗に山王権現と称され、大きくは東本宮(小比叡)と西本宮(大比叡)
とに別れている。東本宮は先程の大山咋神を祀る。
そして西本宮は、大和国三輪山に坐す大物主神(おおものぬしのかみ)を大津京遷都
に当たり勧請し、大津京はじめ国家鎮護の神として祀っている。
大物主神は大国主神(=大己貴神;おおなむちのかみ)の和魂(にぎたま)である。
和魂とは、神霊(かむたま)の持つ二つの性格のうち、荒魂と対局にある存在。平和と
繁栄をもたらすものだ。
そのようなことから、大物主神は悪しき神を懲らしめ、国土の開拓に務め、病を癒し、
薬を与え、災いを除くなど福や徳を与えてくれる神として信仰されている。
日吉大社にはこの他にも三つの神社があり、八王子と呼ばれる八王子社は大山咋神荒
魂と鴨玉依比売(姫)荒魂を、聖眞子と呼ばれる宇佐宮(八幡様)は田心姫神を、客人
(まれびと)と呼ばれる白山姫神社は菊理比売(姫)を祀っている。
(”菊”をこよなく愛した菅公のバックに常に御坐すのは、この菊理姫である)
一方、船岡界隈には斎院《賀茂社に奉仕する斎王の御所》があったが、賀茂社も北野
の地と同じく雷神とは縁の深いところ。
斎院の東方に位置する賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ;下鴨社)は賀茂建角身命
(かもたけつぬみのみこと)と玉依日売命(たまよりひめのみこと)を祭神として祀る。
この賀茂建角身命は、山城を開拓し農耕を教し、正邪を糺(ただ)して裁判の道を開
いた神。言ってみれば秦氏に縁濃き神である。玉依日売命はこの神の御子だ。
その玉依日売命と、日売(姫)が賀茂川での水浴中に川上から流れてきた丹塗矢(に
ぬりや)との間に生まれた子が、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)である。
賀茂川上流には、その神を祀る賀茂別雷神社(上賀茂社)がある。矢は雷神を意味し、
別雷神は雷神の分霊なのだ。
実はこの”丹塗矢(にぬりや)”とほぼ同じ話が松尾山にも存在する。
『秦氏本系帳』に載るこちらの話では、大山咋神(松尾大明神)が丹塗矢になって受胎
させ、生まれた子供たちが秦一族の先祖になる。
賀茂氏と秦氏の接点が、ここでも語られているというわけだ。
もう一つ忘れてはならないのが、大国主神(大己貴神,大物主神)の子供である八重
事代主神(やえことしろぬしのかみ=事代主神)の存在である。
この神は、大国主神と神屋楯比売神(かむやたてひめのかみ)との間の子供だ。
事代主神は賀茂氏の信仰の中心をなす神であり、葛城王朝で中心的役割を果たす神。
異母兄の阿治志貴日子根神(あじすきたかひこねのかみ)は、『古事記』で言う賀茂大
神である。(この神は、土佐神社では、土佐大神と呼ばれ一言主神と同一視されている)
一般的には、一言主神は事代主神の叔父に当たり、葛城王朝が信仰した神とされる。
(この神に関する記述は記紀の雄略天皇四年の事績に有る。
『吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり』と)
両神とも託宣の神である。
そして、『古今和歌集』で紀貫之が語ったように「詩歌は神や人の心を動かす」もので
あり、そこに働く力こそまさしく事代主神、一言主神の力。
貫之曰く、”やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。・・・(中
略)力を入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあわれと思はせ、
男女の中をやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり”
むろんこれは「和歌」に対して贈られたものであるが、貴之の説く処は漢籍やそれ以
前の文学を土台として展開されている。
歌に宿る言霊(ことだま)、マナ(霊力)が最大限に発揮されたとき、まさしく神々は
感応するのだ。神々を感応させるには、感受性豊かで繊細な心を持つ者が、生き生きと
”その言葉”を奏上しなければならない。
邪なるものを惹き付けるのも、聖なる神意を発動させるのもまたその言葉なのである。
つまり以上の考察から、この平安京の歪んだ時空を修復出来るのは、この地を平安京
創建以前から治めてきた秦・賀茂両氏が崇敬する大物主神の血を受け継ぐ”事代主神”
の力を仰ぐ以外にないのである。
とてつもなく重大な責任を負わせれたその人は・・・未だ夢の中である。
付け加えれば、夢の中の人が祖父摂政伊尹から伝領した桃園の邸は、内裏の艮の方角
にあった。偶然にしては余りに出来すぎだ。
─そろそろ目覚めても良いころか・・・
神聖なる舞台の最終調整を終えた晴明は、右手の人差し指と中指を立てると呪を唱え、
行成の首筋にそっと触れる。
冷漓(れいり)な感覚が行成の敏感な五感を刺激した。
全権を自身の内に秘めた漢は、呟くような低い声と共に、ゆっくり目覚めていく。
太文字の部分は、別コンテンツで解説及び関連事項の説明を致します。
ただ今制作中ですので暫くお待ち下さい。
(岡野せんせ『陰陽師』二巻、六巻がご理解頂けていれば(四)は楽勝?!)
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