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buck
               六
 
 あたりは既に祭儀が始まる前から、校書殿で聞いたものとも土御門第で聞こえたもの
とも異なる玲玲たる音が鳴り響いていた。
 それは行成が書き付けた文字霊によって引き起こされたもの。
 見る者をして幽境の世界へ誘い込むその書は、今摂関家の『手習いのお手本』という
形で卓越した美しさを結実させた。まさに流麗典雅、秀潤温雅と言われる行成の手蹟の
典型である。
 
 お膳立てが揃ったところで、いよいよ書いた本人自らが”神饌”(しんせん;神へのお
供え)となって、耽美的叙情詩の頂点を極めた”詩人”菅公の詩(うた)を読み上げる。
 行成の声は斉信の様な”吟詠慣れ”した派手さはなかったが、誠実な人柄そのままに
清々しく、聞く者の心に穏やかな安らぎを与えた。
 『類聚神祗本源』の中で”正直をもって清浄となし、一心不乱をもって清浄となす”
と言われる通りの清廉な姿で詩を読む行成。
 霹靂絶えず鳴り響き、吹き込む風に五色の奉幣が勢いよく棚引く。
行成の直衣の袖も、冠の垂纓(すいえい)も強い風に絶えず翻っていた。
そんな尋常でない場にあって、解れた鬢(びん)を風の為すままにさせながら流暢に詩
を読み上げる行成は、一際輝いている。
 
─つい先程まで”この己で果たして大役が務まるか”などと殊勝なことを言っていた同
じ人物とは思えんな・・・
 度胸が据わっているのか、修羅場慣れしているのか、凛としたその姿に思わず晴明も
舌を巻く。
 
 霹靂の到来と共に、晴明は契印をもってこの場に金剛網を施している。
”金剛網”、乃ち必要以外の邪を侵入させないための結護法である。
これによって菅原院周辺は、菅公及び菅公率いる眷属のみを囲い込む”場”になってい
た。
 
 霹靂を降らせていた主は、今やその姿をはっきりと現出させ、其れを取り巻く異形の
者たちはどん欲な目で獲物を狙っている。特別な行を修していない行成など、晴明が護
身法を施していなかったらとっくの昔に魑魅魍魎に喰われているところだ。
 
 その時あたりを轟かせる凄まじい声。
「闇の中より我を降臨せし者よ! 
神聖なる鈴の音響かせ、清浄の氣にて我が詩読みたるは誰ぞ!」
 
 そのただならぬ声に、一瞬詩を読み上げる行成の声が止まる。
行成の目が、このまま詩を読み続けるべきか否かを晴明に問うていた。
それに応えて簡潔に指示を送る晴明。
「合図致しましたら『後集』より、それまではこの晴明が仕ります」
 これよりいよいよ”陰陽師”安倍晴明の本領だ。
 
 晴明は恭しく祭壇の前で一礼すると、祭文を唱え始める。
「謹請天神七代地神五代、八百万神等降臨此座無上霊宝神道加持。
謹請東方甲乙青帝龍王、謹請南方丙丁赤帝龍王、謹請西方庚辛白帝龍王、謹請北方壬癸
黒帝龍王、謹請中央戌己黄帝龍王、謹請天地日月五星三台玉女神」
 晴明の厳恪な声が黒雲を貫く。
 一切の無駄を排除した姿で祭文を唱える晴明は、妖しいまでに美しい。
まさに当朝きっての陰陽師の名に相応しい存在だ。
 
 勧請呪に引き続いて、三種大祓が奏上される。
「吐普加身依身多女(とおかみえみため)、寒言神尊利根陀身、波羅伊玉意喜餘目出玉
(はらいたまいきよめでたまう)」 《寒言神尊利根陀身=坎艮震巽離坤兌乾;八卦》
 
「たかが陰陽師の分際で、神なる我に呪掛けたるか!」
 菅公の怒り猛々しく、嵐の様相はますます激しさを増す。
 だが、菅公の脅しにたじろぐ晴明ではない。相変わらず一糸乱れぬ姿勢で、天門呪、
地戸呪、玉女呪、刀禁呪と立て続けに唱えていく。
「六甲六丁天門自成、六戌六巳天門自開、六甲磐垣天門近在急急如律令。
九道開寒・・・明星北斗却敵万理・・・急急如律令。
甲上玉女・・・来護我身無令百鬼中傷我見我者以為束薪独開我門自閉他人門急急如律令。
吾比天帝使者、所使執持金刀、令滅不祥、此刀非凡常之刀百之鑑、此刀一下何不走、何
病不癒、千殃万邪皆伏死亡、吾令刀下、急急如天帝太上老君律令」
 濡れたように輝く紅い唇に載せる言葉は、まるで生き物のように菅公とその眷属たち
に纏(まと)わりつく。
「おのれ小癪な真似を!」
 
 菅公の面に僅かに焦りの表情が浮かんでいた。
 どの様にしても霹靂を二人の上に降らせることが出来ないのだ。そればかりかこの場
より他に移ることも出来ない。
 晴明の施す呪法が功を奏していた。
 
 祭儀は一時も中断すること無く流れるように続く。
契印と共に放たれた四縦五横呪に引き続き、晴明が行うのは反閇(へんばい)。
「謹請、天逢、天内、天衝、天輔、天禽、天心、天柱、天任、天英。
南斗北斗、三台玉女、左青龍避万兵、右白虎避不祥、前朱雀避口舌、後玄武避万鬼、前
後輔翼、急急如律令」
 晴明の唱える呪は、目に見えぬ矢となって天空深く突き刺さる。
 
「ええい!忌々しい陰陽師め、いかにしてくれようぞ・・・」
 そう言うと菅公はひとしきり部屋を見回して柘榴に目を留める。
 壇の上の神饌(みけ)と共に供えられた、花をたわわに付けた柘榴の枝。
その枝の横に望みの立派な実が一つ。 この季節にはまだまだ早い筈だが・・・
 陰悪な笑みを浮かべると、自信たっぷりに言い放つ。
「我に柘榴供えたるか!」
 言うが早いかその実は宙高く舞い上がる。
 まさに菅公が口元に柘榴が達したそのとき、神壇の傍らの大麻筒から岐神(賢木で作
られた神聖な杖)を取り出す晴明。
 「実よ、その真の姿表せ!黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本の実、邪神を封ぜよ」
 そう言うと、手にした岐神で灑水器の水を素速く三度弾く。
 瞬時に先程まで柘榴と見えていた赤い実は、熟した桃へと変化した。
 
 その実は黄泉国で、伊弉諾(いざなぎ)を八柱の雷神から守った聖なる実。
 それをまともに身に受けてはたまらない。思いもよらず動きを封じられる菅公たち。
ぐ、ぐううう・・・なにをする・・・
 仰け反るようにして、苦しそうに叫ぶ。
 
 だが、それで呪法の手を緩める晴明ではない。さらに畳み込むように『不動金縛りの
法』を呪す。
 内縛印を結び、真言”ノウマクサンマンダ・・・マカラシャダソワタヤ・ウンタラタ
カンマン”を唱えると、続いて剣印を結び、真言”オン・キリキリ・ウンハツタ・ソワ
カ”と唱え、刀印に結び換えて再び同じ真言を唱える。
 引き続き転法輪印、外五鈷印(げごこいん)と流れるような動きで印契を変えながら
次々と霊験あらたかな真言を繰り出していく。
最後に外縛印(げばくいん)を結んで始めと同じ真言を唱えると、呪法は完成した。
 
 此処に至って、険しかった晴明の表情が僅かに和らぐ。
もちろんこれで菅公たちの力が完全に封ぜられた訳ではない。あくまで次の段階までの
一時的な凍結に過ぎないのだ。
 
 激しい術の応戦にも拘わらず、晴明の面は変わらず涼しい。
恐ろしいまでの冷厳さをたたえた瞳が向けられたのは、神々に愛でられし漢(おとこ)。
「行成様、これより先は行成様の領分。その思う所のままに『後集』をお詠み下さい」
 緊張した場にあっても、行成を見るその目には優しい色が浮かぶ。
 行成は、今までの一部始終を壇の側で身動ぎもせず見守っていたが、少しも怯える風
は無くやはり晴明が見込んだ人物だけのことはあった。
 
─全てはその霊性に係っているのだ。力の限りを見せ給え。
 
 晴明の勧めに応えて壇の正面に立ち、再び玲瓏な声でゆっくりと詩を読み始める行成。
その姿は先程にも増して神聖な氣で包まれていた。
 
「”誰と與(とも)にか口を開きて説かむ
   ただ獨り肱を曲げて眠る
    鬱蒸たり 陰霖(いんりん)の雨
     晨炊(しんすい) 煙を断ち絶つ
  魚観 竈釜(そうふ)に生(な)る
   蛙咒(あじゅ) 階甎(かいせん)に聒(かまびす)し
    野豎(やじゅ) 蔬菜(そさい)を供(きょう)す
     廝兒(しじ) 薄亶(はくせん)を作る   ※亶の左横に食偏
  痩せては雌(めどり)を失へる鶴に同じ
   飢ゑては雛を嚇(かかやか)す鳶に類(たぐ)へり
    壁 堕(やぶ)れて奔溜(ほうりゅう)を防ぐ
     庭 泥(まみ)れて濁涓(だくけん)を導く ※泥の下に土
  紅輪は晴れたる後に轉(まろ)ぶ
   翠幕(すいまく)は晩(ゆうぐれ)よりかかぐ
    境(をり)に遇(あ)ひて 虚しきに白(はく)を生ず
     遊(たはぶれ)に談(ものがたり)して 時に玄に入る
  老君(ろうくん) 迹(あと)を垂(た)る話(ものがたり)
   荘叟(そうそう) 身を處(お)くこと偏(かたつかた)なり
    性は常道(じょうどう)に乖(そむ)くこと莫(な)し
     宗(そう)は當(まさ)に自然に任すべし
  慇勤(いんぎん)なり 齊物(せいぶつ)の論
   洽恰(こうこう)たり 寓言(ぐうげん)の篇
    景致 夢よりも幽(かすか)なり    ※景の左側にしんにょう
     風情 癖(くせ)痊(い)えず
  文(ふみ)の華(はな)は何(いず)れの處(ところ)よりか落ちむ
   感(いた)びの緒(お)は此(こ)の間に牽かる
    志を慰(やす)めて 馮衍(ひょうえん)を憐れぶ
     憂へを銷して 仲宣(ちゅうせん)を羨(ねが)ふ
  詞(ことば)の拑(つぐ)むことは忌避(きひ)に觸(ふ)るればなり
   筆の禿(つ)くることは 麁癲(そてん)に迷へばなり
    草は誰か相視(み)しめんことを得ん
     句は人の共に連ぬることなし”・・・・」
 
 先程までの霹靂が止んで、完全な静寂が支配するこの祭場に、行成の清らかな声が木
霊する。その清浄な霊性が紡ぎ出す菅公の美しい詩は、天神ならずとも聞く者の肺腑を
深くえぐった。これこそが行成の聖なる力。神々が愛でるその神聖な性情の所以である。
 憎悪で醜く歪んでいた太政威徳天の表情からは、徐々に憤怒の色が消除していった。
 
「・・・・・・
 ”・・・合掌して佛に帰依す
  厭離す 今の罪網
   恭敬(くぎょう)す 古(むかし)の眞筌
    皎潔(きょうけつ)たり 空観の月
     開敷(かいふ)す 妙法の蓮(はちす)
   誓い弘(ひろ)くして誑(たぶ)れたる語(こと)なし
    福(さいわい)厚くして唐捐(とうえん)ならじ
     熱悩の煩い わづかに滅(き)ゆ   
      涼気の序(ついで) 愆(あやま)つこと罔(な)し
   灰飛んで 律候を推す
    斗建 星躔(せいてん)をさす
     世路(せいろ) 間みて彌(いよいよ)険(さか)し
      家書 絶えて伝わらず”
 
 その詩は、宿世の因縁によって現世の境遇に至った諦めを語っていた。
 そして、菅公その人の思いは、遙かに百年近い過去世へと遡る。
 とうとう居易に学ぶことが出来なかった、異境での謫居生活。
 
「・・・・・・・・
 ”俄頃(しまらく)つかれたる身 健(すくよか)なり
   等閑(なおざり)がてらに残んの命 延びにたり
    形馳せて 魂恍恍(こうこう)たり
     目想いはかりて 涕(なみだ)連連たり
  京(みやこ)なる國 帰らんこと何れの日ぞ
   故(ふるさと)の園 来たらんこと幾ばくの年ぞ
    却りて尋ぬ 初めて仕えを営みしことを
     追いて計(かぞ)う 昔堅きを鑽(き)りしことを”
 
 続いて詩人の魂魄はあの得意の日々に飛翔する。
 風雅に在りし花鳥風月のとき。
 
「・・・・・・・・・・
 ”責めは 千釣(せんきん)の石よりも重し
   臨むところは 万仭(ばんじん)の淵よりも深かりき
    具(とも)に将相(しょうしょう)を兼ねたるを瞻(み)る
     僉(みな)曰く 勲賢を缺(か)けりという
  試(こころみ)に製して 錦を傷めんことを嫌う
   刀を採りて 鉛を缺かんことを慎む
    競競として鳳衣(ほうい)に馴れたり    ※衣に戸だれ
     懍懍として龍泉(りょうせん)を撫ず
  履(くつ)を脱ぐ 黄埃(こうあい)の俗    ※履は、おのたれに徒類字
   襟を交ふ 紫府の仙
    櫻花 通夜(よもすがら)の宴
     菊酒 後朝の筵(むしろ)”」  《『菅家後集』 四八四より》 
 
 此処に至って、菅公その人の眼には積年の怨情にかわって己の犯した罪の深さに思
い至る悔悟の情が浮かぶ。
両の眼(まなこ)から落ちる泪は、雨粒と成って激しく地を叩く。
 
 時同じくして、天空高く立ち上る聖なる光焔(こうえん)。
その光の柱は、行成を中心として祭場全体を包み込むようにして聳え立つ。
 まさしくそれは、行成の読み上げた詩に篭(こ)もるマナ(霊力)によってもたらさ
れたもの。その純真な心と、研ぎ澄まされた感性が紡ぎ出す流麗耽美な言霊(ことだま)
は、神々を感応させるのに十分であった。
 
 光の中からこの世ならぬ声が響く。
「我は託宣の神、八重事代主なり」
 この光の中に勧請されてきたのは葛城・山城太古の神である”八重事代主神”。
 
─今こそ、魑魅魍魎と袂を分かちて、菊理比売(くくりひめ)の待つ高次元界へ旅立つ
とき。待ち望んだ媛神の御許へ昇華されよ。
 
 張りつめた空気の中、晴明が秀麗な面で淀みなく祭文を奏上する。
「掛けまくも綾に畏(かしこ)き 事代主大神のうづの御前に慎み敬いも申さく 
 ここに降臨の菅原道真公のみ霊(たま) 高千穂の峰より参り給いて 霊層昇華奉る
 平けく安けく諾(うべな)い給え 恐(かしこ)み恐みも申す
 恩として協わざるなく 願として成らざるはなく 意の如く円満ならしめ給え」
 神霊に通う其の御言葉は、神秘のベールとなり菅公を覆い隠す。
眩しい閃光が走ると異次元の扉が開いて、その光の渦と共に菅公は異界に吸い込まれて
いった。
 
 光が消索した後には、猛る菅公の姿はそこに無く、ただ菊の花びらが舞い散るばかり
であった。
 菅公を取り巻いていた眷属も、今や頭を無くしてその力は急速に衰える。
風に吹かれる塵の如くバラバラの次元へと霧散していった。