思うこと 第53話   2005年12月26日 記

靖国参拝と憤青(フェンチン、ふんせい)

20年前に自ら創業した会社の社長として東京で活躍している、私が日頃尊敬し、時に触れメールを交換している従兄弟(69歳)から、先日次のようなメールをいただいた。
『光弘さん
政治的な問題を話すのは避けるべきですが、一昨日の首相の靖国参拝を私は非常に困ったものだと思っています。
日本の世論は賛否相半ばですが、中韓の政府の反発は予想通り強硬です。 欧米のクオリティー・ペーパーも反対論を載せています。 ニューヨーク・タイムズもワシントン・ポストもルモンドも皆反対です。 閣僚の中にも、実は反対者がいらっしゃいます。
「百害あって一理無し」と私は考えますが、国民の半分は賛成です。
光弘さんのお立場上、ご返事、ご感想はご無用とお考えください。』
私の『全く同感です』の返事に、次のメールをいただいた。
『光弘さん
光弘さんは国立大学の有名教授です。 無名浪人の私は何を言っても、何をしても誰も文句を言いませんが、教授のお立場だと大変です。 日本も段々と自由な言論が難しい国になって行きそうで心配です。
小泉さんは5年前に知覧へ行って初めて特攻隊の悲劇を知った。 そこで靖国参拝すべきと思い始めた。 そして総理になってからすでに4度も参拝した。 彼は、多くの人々の反対を押し切って、高裁の違憲判決を無視して、中韓の反対を考慮せず、参拝を続け、大きな外交問題になっています。 自民党の中核で活躍しておられた、私が親しくしている方々も首相の靖国参拝には反対だと言っていました。
首相は、日本軍から被害を受けた人々の苦しみや悲しみを理解できないようです。 私は戦時中軍人が中国人の首をいくつも並べてその後ろに立って撮った写真を何枚も見せられました。 写真の軍人にとっては自慢だったのです。 日本軍が中国人を沢山殺したのは間違いない事実です。 首を斬った人から直接話を聞いたこともありました。
殺された人達の家族や友人知人は一生忘れません。 そして語り続けます。 日本人、特に若い世代は戦争があったことも知らない人が多いようです。 数年前日本人学生が中国で中国人にアンケート用紙を渡した。 そこには、「中国と日本が戦争していたことを知っていますか?」とあり、中国人の憤激をかいました。 これも自民党政権が意識的に戦争の事実を子供達に教えないようにしてきた結果です。
小泉さんの手法は、意識的に敵を作り、その敵を悪ものにして自分の立場を有利にする、ということだと私は思っています。 郵政民営化ではこの手法を徹底的に使いました。 靖国問題でも、余り考えない国民が、中韓が文句を言うのはおかしいと思うように誘導しています。 これが裁判だと弁護士が誘導尋問だと問題提起して、裁判官が検事に注意すべき場面です。
人の苦しみを理解できない人が首相になっているのは問題です。 彼の妻子を想い出しました。 離婚した妻と子が祖母の葬儀に来たのを追い返したと聞いています。 元妻と喧嘩していても実子は祖母の孫です。 実の孫の葬儀参列を拒否しました。 これが事実ならまともな人と思えません。
何とかしたいです。 
ではまた。』

 この、私の尊敬する従兄弟が推定しているように、まぎれもなく私は政治音痴である。 そしてまた、私は“左派”でもなく“右派”でもない、思想色のない一介の教師・医師・研究者にすぎない。 おおよそ政治とは無縁で、また、世界情勢に関しては、従兄弟には遠く及ばない。会社の経営者であり、国際的視野を持ち、東京で活躍している従兄弟のこの意見は、恐らく、今の日本で、国際的に活躍しておられる経営者の方々の共通した認識なのだろうと漠然と推定したのであった。

 私はこのメールを読みながら、最近読んだ単行本「憤青」と、約20年に上海で、そしてまた、今年の夏、北京で見た光景の体験との3つの事柄を思い出すことであった。 

単行本「憤青(フェンチン、ふんせい)」(下の写真)は、

16年前に、天安門事件で戦車と軍隊が占拠する騒乱の北京を後に、日本に渡り、その後日本人男性と結婚し、両国の状況を熟知し、かつまた、両国を愛している、ジャーナリスト沙柚(しゃ ゆう)女史が、今年の4〜5月と8月に中国で人々の生の声を取材し、本年10月15日に新潮社から出版したものである。
日本のジャーナリストには取材不可能な、まさに“中国庶民の生の声”のルポである。ぜひ、読むことをお薦めしたい本で、内容は要約するとおおよそつぎのようなものと私は理解した。

 今、中国では、憤怒する青年を略して「憤青(フェンチン、ふんせい)」と呼ぶ。 数年前から流行している言葉で、多くの若者は自らを憤青と称し、もしくは周囲から憤青と称される。今、多くの中国の若者達は怒っている。若者だけではない、多くの中年も怒っている(著者はこの人たちを憤中と呼んでいる)。 そして、この不満は中国全土に広がっている。不満の一番手は“、不公平、不平等”に対する不満である。 中国全土のいたるところで支配階級の権力の乱用(腐敗)と富の蓄積が常軌を逸したレベルに達していること。 不満の2番手は、上記の一番手とも一部重複するが、富の格差、特に農村部と都会部の富の著しい格差、あるいは、ごく一握りのお金持ち(この中には支配階級と繋がった成金族も存在するとのこと)が富のかなりの部分を占めるに至っていること、 そして、なによりも大きな不満は、この不満を支配階級が聞く耳を持たず、抑えこむ方向で一貫していることである。 毛沢東による文化大革命で、多くの罪なき人々が殺され、当時の知識人の大半は辛酸をなめさせられ、自殺者も多く出たが、20年後にケ小平達によって名誉回復はなされたものの、すでに失った経済的、身分的な回復は不十分で、憤懣をかかえながら、それをぶつける場所がない。 著者は、さまざまの立場の人たちが、さまざまな憤懣を抱えているようすをルポしてくれている。 このような状況のもとで、小泉首相の靖国参拝が、殆どすべての中国の人たちの憤懣に火をつけてしまった。  反日デモにも、多くの人々が自発的に参加した。 この本を読むと、反日デモは政府が指導して起こったものではなく、憤青と憤中が自発的に参加したものであることがよくわかる。 当初、当局は、反日デモを放置していたが、やがて、支配体制に対する民衆の不満の巨大なエネルギーがこの反日デモと癒合することの可能性を現実のものとして、心配しはじめた。 著者は、4月20日のルポのなかで、中国共産党宣伝部が、その前日の4月19日に、党、政府、軍の幹部ら3千500人を集めた日中関係の報告会を開催したというニュースが、テレビで流されたことを紹介している。 報告会で、李肇星外相は、「今の経済発展は中国にとって歴史的チャンスである。 愛国的情熱を仕事や学習の実際行動へと転化させ、中華民国の偉大な復興に貢献しなければならない。不認可のデモなどに参加すべきではない。」と語ったという。 このころを境に、当局は反日デモを含めたあらゆるデモの規制に大きく舵を切った。 デモは鎮静化へ向かったが、その後も、日本製品の不買運動は大きなうねりとなっているという。この不買運動は憤青と憤中が自発的に参加しているもので、今のところ、当局がこれを制止する動きはないようである。
著者はまた、現在都市部で活躍している40代の実業家幹部の次のような声も紹介している、「今は天安門事件の時と違って、普通の人でも、不正だろうが何だろうが、やればお金が手に入って豊かになる可能性があるので、社会的にバランスが取れていて、人々、特に若い人たちは、天安門事件のような行動を起こして、お金を稼ぐ時間とチャンスを失いたくないんだ」と。 
ここでは、私はこの本のごく一部の概略しか紹介できなかったが、私にとって、“中国庶民の生の声”のルポ、として、中国の現状を理解するうえで、この本はとても役立ったのである。

先に、従兄弟からのメールを読みながら、最近読んだ単行本「憤青」と、約20年に上海で、そしてまた、今年の夏、北京で見た光景の体験との3つの事柄を思い出すことであった、と述べたが、その後者の2つは次のようなことである。

 1987年、私は上海で行われたWHOの会議に招聘され、私達が発見した新しい疾患であるHAMについて講演した。左の写真は当時の未だ髪も黒い若いころの私の姿で、私にとってははじめての中国訪問であった。 この時にお会いした中国の先生方のご人徳とお人柄に感銘をうけ、それ以来、私は中国が大好きになり今日に至っている。 (その後さらに4回中国を訪問したが、そのうちの2回はすでに、思うこと第24話 と 思うこと第43話 で紹介させてもらったので参照していただければ幸いです。)

 さて、1987年の5月、上海で私が経験したものは、全て驚きの連続でした。 左の写真は当時の上海の繁華街の賑わいを撮ったものですが、人々は礼儀正しく、そしてまた、当時の日本に比べて服装は派手でなく、赤や黄色などの色彩の強い服装にはあまり出会わなかったことが、強烈な印象として残りました。また、夜に繁華街の横の公園を散歩したところ、真っ暗闇のなかで、全てのベンチがカップルの男女で占められていて、皆、全く動かず、じっと静かに抱き合っている姿にびっくりして(右上の写真)、案内してくださった先生にお尋ねしたところ、「若いカップルの方々は、住む部屋は、政府に申請して順番待ちで、それまでの数年から10年間は、このような形で、愛を確かめ合いながら、じっと順番を待ちながら過ごしているのです。」とのことであった。 

これに比べ、その18年後に訪れた中国は、まるで、様相を一変していた。 それは、今年の夏の8月中旬のこと、日本へ帰国の前日、北京に泊まった時のことである。 夕方、天安門近くの歩行者天国は多くの人々で溢れていた。 東京の銀座の歩行者天国よりも人出が多く、にぎやかだと思った(左写真)。 また、北京市内の湖畔の屋外レストラン街(ビアホールが中心)は、すばらしい雰囲気で、日本にもこれほど完成度の高い場所はないのでは、と思った(右上の写真)。 
そしてまた、この湖畔のレストラン街の入り口の広場では、スピーカーから流れる音楽にあわせて、人々が社交ダンスに興じていた。それは、とっても素敵な雰囲気であった。

私は、これらの雰囲気に感動し、そして、豊かになった中国の都会の様子を実感させてもらったのであったが、私自身は、中国では、ただの一度も憤青や憤中を直接実感することはなかったが、ただ、ハッとさせられたことが2件あった。
その一つは、上記の天安門近くの歩行者天国でのことで、道の中央に並べてあった銅像群にハッとしたのである。 

丁度、抗日戦に中国が勝利して60周年になるため、それを祝ってのもので、上の写真が抗日戦の様子を描いた青銅の像である。
抗日戦に関連した多くの建造物が並べられていたが、私の胸を打ったのは左の写真の像で、戦争中に日本軍に殺された民衆の苦しみを象徴的に表現したものと思われた。そしてまた、右の写真の像は、抗日戦での勝利に決定的な役割を果たしてくれたマッカーサー元帥を称えた銅像で、これも私にとって印象的であった。 マッカーサー元帥が日本を敗戦に追い込んでくれたからこそ、中国は独立を勝ち取れたわけで、中国独立の功労者としての感謝の気持ちを表したもののようであった。 これらの銅像群をとおして、中国の方々の思いが、私にも伝わってきたのであった。

もう一つ私がハッとしたことがある。それは、私は、これらの像にこめられた中国の方々の思いを心に受けとめながら、神妙な思いを胸に、この大通りに面した大きな書店(左の写真)に入った時のことである。その書店では、入り口の正面の最も目立つ場所に、抗日戦勝利60周年記念の本を並べた大きなブーツがあった。私はその中から、右写真に示す「抗戦」という、やや分厚い本を購入した。 日本への帰りの飛行機の中で読んだが、写真が主の本だったので、漢字をたよりに意味を推測しながら読んだのであった。 私は、読み進むうちに、身震いを禁じえなかった。 写真は、日本軍の行った筆舌に尽くしがたい行為が数多く掲載されていた。
その、ごく一部を下に紹介する。



この本を、震える心で読み終わって、私は思った。 今日の日本は民主主義が国民の全てにゆきわったっているので、そしてまた、報道の自由も確保されているので、太平洋戦争で我々が犯した過ちを2度と繰り返すようなことは考えられないようにも思うけれども、しかしながら、万が一でもこのような理不尽な戦争を日本が2度とすることがないようにするには、どうしたらいいか、今、国民一人一人が真摯に考え、そのための道筋を確立することも重要な課題であると思えてしかたがない。