思うこと第35話   2005年5月10日 記す

教え子、中川正法教授の書いたエッセイ「納 光弘先生」に感激

“教え子”と言っても、本人が自分の努力と能力で伸びていってくれただけで、私は同君を教えれる能力はなく、ただ同君が伸びることの邪魔をしなかっただけのことではあるが、中川正法君(左の写真)は、京都大学より設立が早く伝統のある名門医学部として名高い京都府立医大の神経内科教授に抜擢され、平成14年10月1日付けで赴任した(当時同君は鹿児島大学病院第三内科講師であった)。その“教え子”が、MEDICAL NEUROSCIENCEという医学雑誌からの依頼で「納 光弘先生」(本文にリンク)のタイトルで、私のことを書いてくれた。先週その雑誌が届き、その文をよみ、いささか照れてしまった。明らかに過分に褒められていると思ったが、同時に、これほどまでに好意的に私を分析してもらえたことに、感動してしまった。 このような目でみてくれる“教え子”を持った私は、本当に幸せ者であると思う。教師冥利に尽きる、とはまさにこのようなことであろうと思う。 中川君は、私が教授になって以来教室から教授に就任した丁度10人目にあたる(ちなみにその後11人目として誕生したのが以前紹介したちょんまげ教授こと中島君である)。
中川君達の学年の学生は印象に残る学生が多かったが、昭和 53年に鹿児島大学医学部卒業と同時に、その中でもずば抜けて優れた11人が大挙して井形先生の第三内科に入局してきた。彼らが卒業する直前に私はメイヨークリニックへ留学したが、空港へは中川君が自分の車で私を送ってくれ、11人のかなりのメンバーが空港で我々家族を見送ってくれた。11人は入局と同時に、それぞれの熱いメッセージに添えて顔写真を留学先に届けてくれ、私はそれに感動し、その11人の写真とメッセージを一枚のパネルにして、机の前にかざり、毎日それを見ながら、彼達から情熱をもらいながら、熱く燃えながら留学時代を過ごしたのであった。留学から帰ってから、その11人の activity の高さに心底驚いた。というのも、彼らの多くは深夜の1時から2時ごろまで仕事して家に帰る生活であったが、一人だけは朝方の若者がいて、毎日午前2時から朝まで仕事をするので、一晩中仕事場の火が消えることがなかったからである。その後11人は、それぞれ大きく羽ばたき、現在日本各地で活躍しているが、その中の一人が中川君である。私が日本に帰ってきたのは昭和55年だったが、その翌年、米国コロンビア大学のローランド先生が日本に講演にこられた時、中川君を紹介したところ、とっても気に入ってくださって、とんとん拍子に留学の話がまとまり、中川君は28歳の若さで昭和 57年からコロンビア大学医学部神経学教室研究員として3年間留学したのであった。この留学先は神経学の世界では最も優れた教室であったが、ここで中川君は頭角をあらわし、素晴らしい仕事を完成させ、ローランド先生からも最高の評価を得、紹介した私まで感謝されたのであった。帰国後、教室の研究室で、次々とすばらしい研究を積み重ねていったが、いつもその基本に、難病の患者さんを治すのだ、という熱い思いに満ちていた。その思いを胸に、昭和 62年〜平成2年、国立療養所沖縄病院の神経内科の神経内科医長兼筋ジストロフィー病棟医長として赴任し、ここを沖縄県の神経内科の中心病院に育て上げ、多くの神経難病の患者さん達から神様のようにあがめられたのであった。沖縄から大学に帰ってきてからも、いろいろの神経難病の原因の解明と治療法の確立のために心血を注ぎ、後輩を育てながら、つぎつぎと大きな研究を成し遂げていったが、その実績が評価され平成 14年10月 京都府立医科大学附属脳・血管系老化研究センター神経内科学部門教授として招かれたのであった。赴任早々、学生の投票によりベスト ティチャーに選ばれてたのを皮切りに、学内で信望をあつめ、そして、 今、 同君は、京都の地から日本の神経学の若きホープとして、まさに素晴らしいばかりの“存在感”を示しているのである。 その学内外における“存在感”は強大であり、“教え子”のそのような姿を見させてもらえたことは、私にとって最高の喜びである。