思うこと 第258話   2007年10月1日 記

上海「スペシャルオリンピクス」に招待されて−その1−
−20年前に見た上海の姿はどこにもなかった!−


 20年ぶりに訪れた上海の激変ぶりはものすごく、20年前の面影は残っていなかった。かって、『思うこと 第53話』で20年前の上海を訪問した時の姿を紹介したものを、以下に再掲する。
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 1987年、私は上海で行われたWHOの会議に招聘され、私達が発見した新しい疾患であるHAMについて講演した。左の写真は当時の未だ髪も黒い若いころの私の姿で、私にとってははじめての中国訪問であった。 この時にお会いした中国の先生方のご人徳とお人柄に感銘をうけ、それ以来、私は中国が大好きになり今日に至っている。 (その後さらに4回中国を訪問したが、そのうちの2回はすでに、思うこと第24話 と 思うこと第43話 で紹介させてもらったので参照していただければ幸いである。)

 さて、1987年の5月、上海で私が経験したものは、全て驚きの連続であった。 左の写真は当時の上海の繁華街の賑わいを撮ったものであるが、人々は礼儀正しく、そしてまた、当時の日本に比べて服装は派手でなく、赤や黄色などの色彩の強い服装にはあまり出会わなかったことが、強烈な印象として残った。また、夜に繁華街の横の公園を散歩したところ、真っ暗闇のなかで、全てのベンチがカップルの男女で占められていて、皆、全く動かず、じっと静かに抱き合っている姿にびっくりして(右上の写真)、案内してくださった先生にお尋ねしたところ、「若いカップルの方々は、住む部屋は、政府に申請して順番待ちで、それまでの数年から10年間は、このような形で、愛を確かめ合いながら、じっと順番を待ちながら過ごしているのです。」とのことであった。 
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さて、20年後の今日、上海のホテルの前の通りを歩く人々には当時の面影はひとかけらもなかった。

ホテルからの市街を展望したところ、そこには東京もかなわないほどに整備された街の姿があった。

ホテルのすぐ前に明日から始まる「スペシャルオリンピクス」の会場があったので、写真に納めた。

逆に会場から見たホテルの写真を示す。

ホテルの中は、歓迎ムード一色で、

各国の選手団で華やかににぎわっていた。

「スペシャルオリンピクス」の会場周辺を散策したが、

とってもかわいいマスコット人形が立っていた。これこそは、今回大会のマスコットの「陽光三毛」である。 「三毛(サンマオ)」は、中国で人気のあるアニメの主人公で、髪の毛が3本しか生えていないことから「三毛」と呼ばれている。組織委員会は、親指を立てて微笑んでいるい「三毛」は、「太陽の下で喜びを分かち合おう」という願いを表しているとして、マスコットに決定したとのこと。


市内いたるところでこのマスコットならびにその隣のロゴマークを目にした。

今日が建国記念日にあたり、その祝賀と「スペシャルオリンピクス」祝賀の垂れ幕が並んでさがっていた。

夜の歓迎夕食会も楽しい会であったが、

何より感銘を受けたのが、出席者にたいする徹底した気遣いであった(下写真)。

ではここで、、何故、中国では障害者に対する気配りが徹底しているかについて一言ふれたあと、「スペシャルオリンピクス」について簡単に説明する。
 かって文化大革命の際、ケ小平は実権派ナンバー・ツーとして、文革の闘争対象とされ、苦難を味わった。長男樸方が紅衛兵によって半身付随の身体障害者にさせられたことはよく知られていることである。ケ小平氏が実権を握ったあと、ケ樸方氏は中国障害者連合会主席となり、中国の障害者の福祉向上に尽力して今日に至っている。日本政府も「中国障害者リハビリセンター」の建設及び中国障害者連合会への人材養成面で大きく貢献し、この方面での日中の友好関係は強固なものがある。故ケ小平氏が上海の出身であったこともあり、上海市は特にこの方面の活動が活発で、バリアフリーもかなり徹底している。「スペシャルオリンピクス」が北京でなく上海で行われたのもこのような背景があるものと推察している。さて、財団法人慈愛会との繋がりは、上海障害者連合会の視察団が鹿児島市の財団法人慈愛会谷山病院を視察し、そのハード・ソフトの両面に感動し、このような施設をぜひとも上海に作りたいとの希望に今村英仁理事長が、ノウハウを惜しげもなく提供して全面バックアップしたことから友好関係が深まり、今回の上海「スペシャルオリンピクス」に理事長が招待され、そして私までもが招待の栄を受けたものである。私が財団法人慈愛会の会長としての仕事始め日にこの財団法人慈愛会谷山病院を訪問し、ハード・ソフトの両面に感動し、ひょっとしたら日本でこれ以上の施設はないのでは、とさえ思ったのであったが、恐らく、上海障害者連合会の視察団の方々も同じ印象をもたれたものと思われる。
 さて、最後に、「スペシャルオリンピクス」についてフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を紹介する。
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スペシャルオリンピックス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スペシャルオリンピックス(Special Olympics:SO)は、知的発達障害のある人の自立や社会参加を目的として、日常的なスポーツプログラムや、成果の発表の場としての競技会を提供する国際的なスポーツ組織。いつもどこかで活動しているということから、Special Olympics と複数形になっている。
スペシャルオリンピックスの歴史
1962年6月にジョン・F・ケネディの妹のユニス・メリー・ケネディ・シュライバーが自宅の庭を開放して35人の知的発達障害のある人たちを招いてデイキャンプを行ったのが始まり。その後、Joseph P. Kennedy, Jr. Foundationによって全米に活動が広げられ、トロント出身のカナダ人フランク・ヘイドンらが関わり、1968年7月20日に第1回の夏季国際大会がアメリカのイリノイ州シカゴのソルジャー競技場で開催される。1968年12月にはSpecial Olympics, Inc.が設立される。1988年に、国際オリンピック委員会(IOC)とオリンピックの名称使用について認める議定書を交わす。現在、ユニスの子息、ティモシー・P・シュライバーが会長を務める。
活動状況
現在、スペシャルオリンピックスの競技は夏冬合わせて26種類あり、約170万人の知的発達障害のある人と50万人のボランティアが150を超える国と地域で、この活動に参加している。2003年にアイルランド共和国の首都ダブリンで行われた2003年スペシャルオリンピックス夏季世界大会は、その年行われたスポーツイベントの中で、もっとも盛大なものとなった。
また、スペシャルオリンピックスにはディビジョニングと呼ばれる特殊なルールがあり、これによってアスリートは性別や競技能力によって、競技技能が同程度になるよう組み分けされる。また、スペシャルオリンピックスでは他の人に勝つ事を目標としておらず、アスリートが自己の最善を尽くす事を目的としている。これはアスリート宣誓のLet me win. But if I cannot win, let me be brave in the attempt.という言葉にも込められている。
日本の歴史
日本では、1980年4月に聖ミカエル学院の山本貞彰により、神奈川県鎌倉市にジャパンスペシャルオリンピック委員会(JSOC)が設立され5月にスペシャルオリンピックスの本部から42番目の組織として認可された。1983年には第6回夏季国際大会(米国ルイジアナ州バトンルージュ)に初めて日本として選手団を送った。その後JSOCは1992年に解散することとなる。現在のスペシャルオリンピックス日本のはじまりは、JSOC解散後、熊本の有志により、新たにスペシャルオリンピックス・熊本が1993年に設立(細川佳代子理事長)され、その後スペシャルオリンピックス日本(SON)が国内本部として1994年にSO国際本部の認証を受け発足、SONは2001年に特定非営利活動法人(NPO法人)の認可を受け、2006年には認定特定非営利活動法人として認定を受け活動中。(現在の理事長は三井嬉子)
スペシャルオリンピックスの宣誓
スペシャルオリンピックスでは世界大会などではアスリートの代表がアスリート宣誓を行う。これは1968年にアメリカで第1回の国際大会が行われた際に、創設者のユニスが、古代ローマで剣闘士が闘技場に入る時に口にしたというLet me win. But if I cannot win, let me be brave in the attempt.(2002年スペシャルオリンピックス日本夏季ナショナルゲームで使用されたアスリート委員長訳:わたくしたちは、精一杯力を出して勝利をめざします。たとえ勝てなくても、がんばる勇気を与えてください。)という言葉を用いたのが始まり。
スポーツトレーニングプログラムと競技会
スペシャルオリンピックスでは、日常のスポーツトレーニングプログラムを大切にしています。週に1回以上で8週間の期間(ターム)を区切りとして練習会を実施している。実施後は日頃の練習の成果の発表の場である競技会を開催し、アスリートの努力と勇気をたたえる。スペシャルオリンピックスでは、スポーツトレーニングプログラムと競技会はどちらも大切な活動であり、これらの活動はアスリートの成長にとって大変重要な役割をはたしている。
ディビジョニング
ディビジョニングはスペシャルオリンピックスの競技会で行われる組み分けである。これは性別・年齢・競技能力といったものを基準に組み分けを行い、最終的に競技能力が同程度の競技者同士が競い合うためのスペシャルオリンピックス独自のルールである。スペシャルオリンピックスの競技会では通常、予選での成績に応じて、個人競技では3名から8名のディビジョンに組み分けをし、各ディビジョン毎に決勝を行う。その為スペシャルオリンピックスでは、棄権ないし失格にならない限り、予選に参加した競技者全員が決勝に進むこととなる。つまりスペシャルオリンピックスの予選は、トップレベルのアスリートを選抜するものではない。
全員表彰
各ディビジョン毎に1位〜8位があり、全員が表彰台に上がって1位〜3位には金銀銅メダル、4位以下にはリボンが贈られる。また、失格となった競技者も参加賞のリボンが贈られる。これは、競技会は日常のスポーツトレーニングプログラムの成果の発表の場であり、「参加することに意義がある」というオリンピック精神に基づき、成績の如何に関わらず、すべての競技者が賞賛され、表彰されるという特徴がある。また、スペシャルオリンピックスの表彰式は、最下位の順位から表彰され、最後まで拍手がなりやまないように工夫されているのも特徴である。
オネスト・エフォート
 直訳すると正直・努力、である。これは競技者が常に全力で競技を行うことを目的に考えられたルールです。スペシャルオリンピックスでは、競技者が最後まで競いあうことができるようにディビジョニングというルールで組み分けを行いますが、予選でわざと悪い成績を出し、競技能力の低い組で決勝に進むと、容易に1位になることができてしまいます。そこで、スペシャルオリンピックスでは、予選と決勝で15%以上の差がある場合は失格になるオネスト・エフォート等のルールが存在します。
組織
Special Olympics Inc,
スペシャルオリンピックス日本等の公式プログラム
スペシャルオリンピックス日本・東京等の地区組織
世界大会毎の世界大会実行委員会
スペシャルオリンピックス国際本部の本部はワシントンD.C.にあり、その傘下にスペシャルオリンピックス日本等、世界中の国や地域に公式プログラムと呼ばれる組織が存在する。それぞれの公式プログラムは通常、国ごとに存在しているが、アメリカは組織発足時の名残で州毎に公式プログラムがある。この為、世界大会に参加する場合、アメリカの各公式プログラムはTeam USAとして参加するが通例となっている。また台湾もChinese Taipeiで、Special Olympics Chinaとは別組織であるといったように、それぞれの地理的・政治的要因によって公式プログラムが存在するため、参加国数が150なのに対し、公式プログラムの数は200を超える。
また世界大会が開催される際には、現地でその大会の実行委員会が発足される。それぞれの実行委員会はスペシャルオリンピックス国際本部の直属であり、その国の公式プログラムとは相互協力体制となる。ただし、日本で行われた2005年スペシャルオリンピックス冬季世界大会・長野の場合、大会実行委員会の資金調達が困難となり、国、長野県、長野市等の公的資金の注入等が行われた後、大会実行委員会は資金調達に徹し、契約を結んだ長野県の現地法人である特定非営利活動法人2005年スペシャルオリンピックス冬季世界大会・長野が実務を行うという特殊な状況が生じた。
なおスペシャルオリンピックス日本始め、多くの公式プログラムには地区組織と呼ばれる、地域密着型の組織がある。日本の場合、いくつかの地区組織はNPOとなる等、独立した組織運営体制が取られており、それぞれの組織はスペシャルオリンピックス日本からの認定を受けている。2006年10月26日現在、32の都道府県に地区組織が、13の県に設立準備委員会が組織されているが、秋田県と滋賀県は組織が未設立となっている。
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以上がフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用である。
中国は上海スペシャルオリンピックスの開催を重視しているので、明日の開会式とそれに引き続く大会を観ることが楽しみである。もちろん、明日以降毎日このHPで連載報告する。