思うこと 第224話           2007年6月21日 記
                       2007年6月23日 追記---『二人のウイリス先生』にリンク(本文の末尾)

慈愛会・研修医・指導医研修会に思うこと
−その4(最終回)−“大リーガー医”とウイリアム・ウイリス

 第221話で紹介した今回の講師の松村先生は、講演の翌朝空港へ向かわれる途中、鹿児島大学医学部キャンパス内の鶴陵会館に野村院長と一緒に立ち寄られ、私が案内役を務めた。先生が『ぜひともウイリアム・ウイリスにまつわる記念の物をみたい』と言われたからである。ウイリアム・ウイリスは鹿児島大学医学部の誇りであるので、その見学を希望されたことは、私達にとってとても嬉しい出来事であった。

上写真の胸像は鶴陵会館建立時に作られたもので、また下写真の記念碑は、

高木兼寛らウイリアム・ウイりスの弟子達により明治26年に建立されたものである。

折角の機会であるので、ここでウイリアム・ウイりス( Dr. William Willis、北アイルランド生まれ、1837〜1894 )の紹介を少しだけさせてほしい。ウイリスは幕末から明治初期にかけて、多くの鹿児島の医師たちに西洋医術を指導し、後世、門下生の中から著名な医人たちが輩出した。ウイリスの生きざまは、我々薩摩人の心意気に共通する進取の気性を感じさせ、私の好きな人物の1人である。ウイリスが日本に来たのは彼がエジンバラ大学を卒業して医師になってわずか2年後、25歳の時で、その若さでこれほどの影響を日本に残したことは、まさに驚嘆に値する。来日時の身分は、江戸駐在英国公使館の補助官兼医官で、1863年の鹿児島湾での薩英戦争の際は英国軍艦「アーチス号」に乗って参加した。この戦争では、薩摩側は城下町の大半を砲撃で焼き尽くされたが、一方、英国側も思わぬ後方からの奇襲砲撃に碇を切って逃げるという大英帝国軍艦としてはあるまじき屈辱を受けている(この碇は薩英戦争を象徴する記念の品として薩摩で誇らしく飾られていたが、後に、英国に引き渡された)。薩摩藩はこの戦争で、西欧の武力の威力を知り、即座に英国と和睦協定を結び、薩摩藩と英国の間には密接な関係が築き上げられた。間をおかず、16人の薩摩藩の若者を英国軍艦に乗せ英国留学に旅立たせたのであったが、この若者達が帰国後、明治新政府に大きく貢献した。また、英国の兵器で武装した薩長軍は、フランス兵器で武装した幕府軍を圧倒したが、薩長軍勝利の背景に英国兵器の優位性があったこともその一つの因子としてあげられる。1868年(慶応4年)1月、京都郊外鳥羽伏見において幕府の軍隊と薩長軍とが衝突した時、多数の負傷兵の治療のための医師派遣を薩摩藩は英国公使パークスに依頼した。当時、神戸港に停泊中の英国軍艦に乗り込んでいたウイリスがその任に指名され、ウイリスは薩摩藩医達を指導しながら、外科処置に没頭し、その手術手技は薩摩藩医達を魅了した。薩長軍を主体とする新政府軍は、江戸、東北・越後へと進軍したが、ウイリスは薩摩藩の負傷者に限らず、他藩の負傷者、幕府脱走兵、会津藩の兵士たちも差別なく治療した。越後戦線におけるウイリスの手記によると、「私自身は600名の治療に当たり、他の1,000名の負傷者の処置法については、前線病院の医師達を指導した。負傷者中900名は政府軍の将兵、700名は会津藩兵たちであった。指から上、下肢の切断手術を38回もやった」と記している。当初、新政府はウイリスを重用したが、明治2年、ドイツ医学を日本の医学の中核に据えることに決定したため、ウイリスの処遇に政府は困り、西郷に相談、西郷の決断により薩摩に高給で迎えられることになり、明治3年からレンガ造りの赤倉病院(下写真)での鹿児島医学校兼病院(明治4年の廃藩置県により鹿児島県医学校・付属病院と改名)が開始された。この医学校が、現在の鹿児島大学医学部の前身である。

ここでウイリスは、多くの若者に西洋医学を教え、それらの若者達は鹿児島の医学を引き上げただけではなく、東京慈恵医科大学の前身を創立した高木兼寛で代表されるように日本の医学の発展に大きく寄与し、その功績は測り知れないほど大きなものであった。さて、明治4年、ウイリス(35歳)は薩摩藩士江夏十郎の娘八重(21歳)と結婚、明治6年に八重との間に男の子が誕生、アルバートとなずけた。明治9年には、ウイリスがかって英国でもうけた男児であるジョージ(アルバート誕生時に8歳で、明治9年12歳)を横浜から呼び寄せ、一家4人で短くも幸せな暮らしをしている。しかし、明治10年、西南の役が勃発、これが、鹿児島にとっても、ウイリスにとっても残念な歴史の転換点となった。
(今回ここでは詳しくは述べないがないが、私は、この西南の役を止めれず、『おいどんの命はおはんたっにあげもんそ(私の命はあなたがたあげましょう)』と言った西郷に、公人でなければならない人が、私人として生きてしまった、その西郷の行動が、いかに多くの若者の命をうばったかと、残念な思いを持ち続けてきている。)ウイリスはイギリス長崎領事から鹿児島からの退去勧告が出され、家族で東京に移動、精神的打撃と痛風発作のなかで悶々たる生活をして、同年、単身アイルランドに帰国。明治14年再び来日したが就職先が見つからず、アルバートだけをつれて再びアイルランドに帰国。結局、再び日本の地を踏むことなく、明治27年アイルランドで、兄ジェームスの家で57歳の生涯を終えている(アイルランドの周囲の人々たちは、ウイリスが日本でどれほど大きな足跡を残したかについては、知らなかったようである)。死因は閉塞性黄疸とのことで、6日間肝性昏睡状態であったという。遺言書では、財産のかなりの部分を当時オーストラリアに留学中の息子のアルバートと日本に残してきた妻の八重に届けるようにと書かれており、この2人への思いを募らせながらの淋しい最後であった。この遺言は、託された友人が実行してくれなかったようで、2人へは何も届けられなかったとのこと。しかし、アルバートのその後の生き様は、我々の胸を打つ。母・八重が日本で健在と知り、明治39年、瞼の母を訪ねて来日し、横浜で劇的な再会を果たている。その後日本に定住、関西大学はじめ数校の英語教師で身を立て、日本人女性と結婚、日本に帰化して宇利有平となのり、2男1女の子宝に恵まれ、昭和18年、69歳で死亡している。なお、ウイリスの妻・八重は昭和8年、東京の麻生で81歳の長寿を全うして亡くなっている。アルバートの孫にあたる河内浩志氏(国立石川工業高等専門学校建築学科教授)は、鹿児島大学医学部同窓会鶴陵会会報 第35号(2006年12月号)に「ウイリアム・ウイリスと故・佐藤八郎先生」というエッセイを寄稿されている(下写真)。
 
この寄稿文の次の2つの箇所を読んで、しんみりした気持ちになった;
『私達子孫にとって、曽祖父の墓石のある北アイルランドのエニスキレン・ファーマナーよりも、遺徳を大切に継承して頂いている心の故郷とも言える場所、そこが薩摩である。』、『ウイリアムの孫である母マリー・ウイリス(帰化名:宇治マリー、現在:河内まり代;82歳)は、平成8年以来、糖尿病に心筋梗塞と不安の日々であった。最後の肉親でもあり、何時も優しかった実弟のジョージ・ウイリス(帰化名:宇利丞示)が他界していらいーーーー』
 さて、ウイリスに感動している私ゆえに、つい前置きが長くなったが、いよいよ本日の私の本論に入る。私が鶴陵会館に松村先生をお迎えしての第一声は
『何故先生は、ウイリアム・ウイリスに興味を持たれたのですか?』で、松村先生のお答えは、『私に臨床医学の目を開かせてくれた恩師のジョージ・クリストファー・ウイリス先生は、日本に来られて、実に多くの若い医師に本物の臨床に開眼させ、とても大きな影響を与えてくれました。一人の人間がかくも多くの人に影響を与える事が出来るというもう一つの見本が、ウイリアム・ウイリス先生だと思ったのです。私は、どちらのウイリス先生もアイルランド出身なので、血縁があるかもしれないと考え調べてみたのですが、血の繋がりはないことがわかりました。私は、ウイリス先生のゆかりのものを鹿児島で直接見て、遺徳を偲びたかったのです。』であった。このもう1人のウイリス先生こと、ジョージ・クリストファー・ウイリス先生(以下、G.C. Willis先生と呼ぶ)は、松村先生が奔走されて1986年から4年3ヶ月間、カナダのモントリオール総合病院から市立舞鶴市民病院に招聘した医師である。このような招聘が、何故に、わずか236床しかない地域病院で可能となったのであろうか。一言で言うと、この実現のためにわざわざカナダのモントリオール総合病院に足を運んだ松村先生の情熱こそが全てである。これを経済的側面から支える決断と実行力を持っておられた当時の病院長、瀬戸山元一先生の存在が大きかったと松村先生は謙虚に述べておられるが、松村先生の情熱は、いかなる人をも動かすであろうと、私は松村先生のお会いして思った。さて、この、G.C. Willis先生のあと、松村先生たちは、ひきつづき欧米の一流の臨床医を指導医として招聘することを計画、3ヶ月単位で、つぎつぎとひっきりなしに招聘することに成功してきている。この経緯は、下に示す先生の著書『“大リーガー医”に学ぶ』(医学書院、2002年)の、23ページから32ページまでの『“大リーガー医”招聘の沿革と将来』に詳述してあるので、参照されたい。

なお、数日前に先生から下の写真に示すA4版5枚のコピーが送ってきた。

これは、先生が、20年前に、G.C. Willis先生招聘の感動の物語を綴られ、かつそれをウイリアム・ウイリス先生と結びつけて『二人のウイリス先生』のタイトルで書かれた寄稿文である。私は、このエッセイに先生のロマンを感じ、感動した。私は、今、中国に出張中なので、帰国後、先生のお許しがいただけたら、この私のホームページでこの全文を紹介したいと思う。

2007年6月23日 追記

今朝、松村先生からご快諾のメールをいただけたので、北京のホテルでワープロたたき終わったので、早速以下に全文にリンクして紹介する。
『二人のウイリス先生』