思うこと 第186話 2007年2月4日 記
『硫黄島からの手紙』を観て−その4−
何故、この戦争を止めれなかったのか?
『思うこと第185話「硫黄島からの手紙を観てーその3−』で、「なぜ、このような悲惨な戦争を止めれなかったのか、という問題は、そう簡単に答えはないと思うが、極めて重要な問題なので、また時間のあるとき改めて述べたい」、の予告どおり、このことについてここで皆さんと一緒に考えれたらと思う。
太平洋戦争の開戦をはじめその全てを取り仕切った大本営とはどのような組織であったのか? 太平洋戦争当時は、大本営は天皇直属の機関として、政府から全く独立した組織として機能し、大本営の参謀たちは、作戦決定にあたっては総理大臣や国務大臣さえ口をはさめない強い権限を持つようになってしまった。 何故そうなったのか。 憲法でそのような権限が与えられていたのか? そうではなかったのである。 では、何故? この答えこそが、第185話で論じた「声の大きいものが、良識あるサイレントマジョリティをいつのまにか押さえ込んでしまう」という流れの結果ではなかったか? 司馬遼太郎氏は、氏の著書「この国のかたち 一」(文芸春秋)のなかで、次のように述べている;『明治憲法は今の憲法同様、明快に三権(立法、行政、司法)分立の憲法だったのに、昭和になってから変質した。統帥権が次第に独立しはじめ、ついには三権の上に立ち、一種の万能性を帯びはじめた。統帥権の番人は参謀本部で、事実上かれら参謀たち(天皇の幕僚)はそれを自分たちが“所有”していると信じた。ついでながら憲法上、天皇に国政や統帥の執行責任はない。となれば、参謀本部の機能は無限に近くなり、どういう“愛国的な”対外行動でもやれることになる。』 驚くほど明快な分析を司馬遼太郎氏は述べているのである。このなかの、『ついでながら憲法上、天皇に国政や統帥の執行責任はない。』には、驚かれた方も多いかもしれないが、昨年夏発見報道された昭和天皇メモの天皇の次の言葉と符合する(今手元に資料がないので、記憶がやや曖昧であるが、おおよそ次のような内容のことを述べておられたと思うーー);『私はこれまでに、2回だけ自分の領分を越えたことをした。その一つが、五一五事件(二二六事件だったかも知れないーー納注ー)の時、決起将校を処罰するようにと発言したこと、ならびに、太平洋戦争の無条件降伏を“受諾するよう命じた”ことである。』 記憶に頼ったため、実際のメモのお言葉とはことなる点もあるかも知れないが、おおよそこのように述べておられたように記憶している。このメモのお言葉から推察するに、昭和天皇は“国政に口出しする立場にない”という憲法上の規定を忠実に守ろうとしておられたことがわかる。そして、上記の2回だけは、立場(権限)を超えて、発言せずにはおれなかった、というように陛下は回想されたと私は理解したのであった。
さて、話を大本営にもどす。 大本営は陸軍によって取り仕切られていた。 従って、大本営とは大本営陸軍部と実質的には同義である。 大本営陸軍部は当初永田町に設けられていたが、昭和16年12月に市ヶ谷の陸軍士官学校だった建物に移転した。 この大本営陸軍部の建物、すなわち世に言う“奥の院”には、大本営の参謀でもごく限られた人物しかいることが許されない密室であった。 この部屋にいた約12人の参謀は、全て陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校と、当時の軍人の純粋培養教育を受け、その中でも最優秀と目された人物ばかりであった。 この、わずか約12人の参謀が何十万、何百万という兵士たちの生死と国の存亡をかけた作戦・戦略を立案・実行したのである。 開戦前からこれら参謀たちを統率してきたのが作戦部長の田中新一中将と作戦課長の服部卓四郎大佐であった。 田中新一中将は日中戦争勃発当時、陸軍内部が戦線を拡大するかどうかをめぐって真っぷたつに割れた時、先頭に立って拡大を唱えた人物である。また太平洋戦争前夜にも、戦争回避の動きを抑え積極的に開戦を推し進めた。前章第185話で論じたように、声の大きな、好戦的な人間が他を圧していったのである。 田中新一中将や服部卓四郎大佐から重用された参謀が好戦派の筆頭ともいえる辻政信中佐であった。 辻参謀は他の参謀と異なり、常に前線に出て指揮をとり、多くの逸話を残している。辻参謀が“作戦の神様”と呼ばれるようになったのは、緒戦のマレー、シンガポール作戦の成功であった。辻参謀は信条どおり最前線で指導にあたり、果敢な攻撃でシンガポールを陥落させたとして喧伝された。しかし、その時の司令官山本奉文(ともゆき)中将は作戦中の日記に「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり」と記している。良識的な者からは小人と評されても、大本営の参謀の持つ意味は大きく、辻参謀は各地で独断専行を繰り返している。 もっとも、硫黄島の最前線に辻政信中佐を作戦指導に送り込むことを参謀本部が栗林忠道兵団長に持ちかけた時、栗林兵団長はこれを断っている。良識ある指揮官には、辻参謀の小人ぶりは見透かされていたのであろう。私は昨年、「思うこと 第158話 パプアニューギニア・ソロモン巡回診療報告−その11−」においてオーエンスタンレー山脈越えのポートモレスビー攻略の無謀な大本営作戦の顛末記を記したが、あの計画・実行の張本人も実は辻参謀であった。大本営はあの時点では、この作戦の妥当性を研究するようにという指示を出しただけで、実行するとは決めていなかった。しかし、第17軍司令部を訪れた辻参謀は独断で事実を曲げ、「ポートモレスビー陸路攻略をすぐ実行に移すように、陛下も特別に心にとどめておられる。研究成果を待たずに命令は下った」として攻略を命じたのである。これは辻参謀の独断専行であったことがのちに判明したが、なんら問題にされなかったばかりか、大本営はあとで陸路攻略の正式命令を出し、辻参謀の独断を追認したのである。田中新一中将や服部卓四郎大佐からみたら“大事な仲間”の辻参謀をかばったものと思われる。辻少佐と服部卓四郎大佐の連帯関係は昭和14年のノモハン事件にさかのぼることができる。 ノモハン事件は昭和14年(1939年)5月、満州国と外モンゴルとの国境付近で、敵が越境したと見なして発砲する小競り合いから始まり、日本とソ連の本格的な武力衝突に発展した事件である。 当時関東軍司令部の作戦参謀をしていたのが辻政信小佐(当時は小佐)で、その上司の作戦主任参謀が服部卓四郎中佐(当時)であった。5月末、第23師団は砲兵部隊も戦車部隊もともなわず一個連隊ほどの兵力で、ソ連・モンゴル軍を包囲攻撃した。しかしソ連軍は戦車部隊や火砲などの威力にものをいわせ、わずか一日でそれを撃退した。この事態にどう対処すべきか、関東軍指導部の意見は分かれた。この時、「傍若無人なソ連は初動の時期に痛撃を加える以外に良策なし」と強硬論をはいて他の意見を制したのが辻参謀、それを強く支持したのが服部参謀であったという。ここでもまた、威勢のいい強硬論が冷静な慎重論を抑えることになったのである。そして、本土の大本営の了承なしに関東軍司令部は航空部隊による大規模な国境外爆撃を行った。これを知った大本営は関東軍参謀長に「局地戦の枠をこえた航空機爆撃などは関東軍の権限で行ってはならない、直ちに中止せよ」という命令電報を送った。これに対し、辻参謀は、関東軍参謀長名で、参謀長の許可も受けずに、「現状の認識と手段とにおいては貴殿といささか其の見解を異にしあるが如きも、北辺の些事は当軍に依頼して安心されたし」という返電を打ったのである。そして、虎の子の戦車部隊も投入して一個師団半の兵力で攻撃した。結果は燦々たるもので、機甲師団を中心としたソ連軍に惨敗を喫した。幸いソ連軍がヨーロッパ情勢に備えて停戦を急いだため9月中旬に幕を閉じたが、この戦いにおける日本軍の死傷者は2万人にのぼった。とくに主力となった第23師団は、死傷率70パーセント以上に達する壊滅的打撃を受けた。それにもかかわらず、このことの責任の処理にはあまりにも問題があった。一番責任があった、大本営の命にそむいた2人、辻政信小佐と服部卓四郎中佐への処分は甘く、服部卓四郎中佐は千葉歩兵学校付けに、辻政信小佐は中国の第11軍司令部に転出されただけであった。しかも、これは、単に一時的で、太平洋戦争前には2人とも大本営営要職に再び抜擢されているのである。一方、第一線の現場指揮官たちは責任を取る形で自決を強要されている。NHKのドキュメンタリー的に言うなら、「その時歴史が動いた」ともいえ、歴史のターニングポイントであったように思う。あの時真の責任者の辻政信小佐と服部卓四郎中佐への処分を明確に行い、ノモハン事件の冷徹な分析が行われていたなら、歴史はもっと異なる歩みをしたであろう。この時大本営は、形だけは参謀総長のもとに「ノモハン事件研究委員会」を設置したが、この委員会に与えた権限は限られたもので、辻政信小佐と服部卓四郎中佐に面会することさえ許されなかった。そして、小池委員長(現在ご存命でお元気とのこと)の証言では、この報告書を沢田茂参謀次長に提出したさい「よく分かっとる、そんなことは分かっている」と言われただけでお終いであったとのこと。 このことは大本営の本質を雄弁に物語っていると思う。では、誰がこの流れを阻止できたであろうか。答えは、あの時点では何人(なんびと)にも出来なかった、である。すでに流れは出来上がった後だったのである。では、どの時点だったら可能だったのか? ここで、私も悩んでしまう。 いつ流れが出来たのか? この答えは私にとって簡単ではなく、今後、時間をかけて、ゆっくり勉強してみたいと思う。 恐らく、極めて多くの複合要因の積み重ねで、徐々に徐々に出来上がったものであろう。さかのぼれば、教育勅語なども、多くの要因のなかの一つなのかもしれない。五一五事件や二二六事件も決起将校は処分されたが、軍に逆らうと殺される可能性を見せ付けたことで、その後の軍の発言力は増大したので、これも多くの複合要因の一つに数えられよう。この「極めて多くの複合要因の積み重ね」の分析は、恐らく多くの歴史専門家により完成されているはずであるから、「この本を読めばいいですよ」という本をご存知の方は、ぜひ、このHPに設置してあるメールで私に教えてほしい。なぜ、このことが大事なのか? それは、2度と戦争の悲劇を繰り返さないために、我々がどう考え、どう行動すべきかを知るために、極めて重要なことだと思うからである。今、教育改革や憲法改正が声高に叫ばれているが、これが、ある意図のもとに、間違った方向に進められた場合に、将来に向けての複合要因の一つにならないかどうかも、気になるところであり、そのような判断のためにも、この勉強はする必要があると思うのである。