思うこと 第158話           2006年10月27日 記            
       
              2006年10月28日 ブナの地図追記

パプア・ニューギニア、ソロモン巡回診療報告ーその11ー
いよいよパプア・ニューギニアへ移動

今日午後、ついにパプア・ニューギニアのポートモレスビーに移動した。空路の地図を示す。

ポートモレスビーは山岳戦闘を得意とする四国出身の精鋭南海支隊が、ブナの基地を出発し約3000メートルのオーエンスタンレー山脈を越えてポートモレスビー攻略を敢行したことで戦史に残っている街である。結果は、この作戦の情報は事前にマッカーサーのもとに届いており、米豪連合軍は南海支隊の出現を空陸一体となって砲口を並べて待っていた。南海支隊がブナを出発したのが伯父豊島文雄がブナ近くで負傷した直後の昭和17年8月、道なきジャングルを切り開き、オーエンスタンレー山脈を越えてポートモレスビーにたどり着くのに50日を要し、着いた時には全将兵極度に疲弊し、食料弾薬の補給もないなか、待ち構えていた空陸一体の猛烈な攻撃をうけ、再びブナへ退却を余儀なくされたのであった。退却の途中も多くの将兵が飢餓とマラリアで死んでいった。11,000人で出発した部隊であったが、骨と皮になってようようブナにたどり着くことが出来たのは7,000人であり、4,000人の尊い命が密林の露と消えた。ガダルカナルで犯したと同じ過ちを、軍の中枢はここでもまた犯したのである。そして、さらに、同様の過ちをその後もくりかえし、終戦の時までパプア・ニューギニアの兵士の地獄図が続いていったのである。
10月28日追記: 10月28日に買った地図でブナの正確な位置が判明したのでその地図を追加アップする。

ブナ
ココダポート・モレスビーのルートが南海支隊の進撃・退却路。オーストラリアにとっては日本軍をはじめて打ち破った栄光のルートとして、ポート・モレスビーココダを結ぶルートは人気のトレッキングルートとなっている。)

私は飛行機の窓から、日本軍のこの痛ましい歴史を刻んだオーエンスタンレー山脈を撮影したいと思いカメラをかまえて待った。

パプア・ニューギニアにさしかかったとたん、眼下に美しい珊瑚礁の島々が現れた。


ポートモスレビーに近づくにつれ平らな陸地が増え

反対側の窓から、ついに、雲の上に顔を出しているオーエンスタンレー山脈の山頂の撮影に成功した(下写真)。

着陸前の空港越しにポートモスレビーが見えた。

着陸後、オーエンスタンレー山脈をさがしたが、かすんでいたからか、雲の性か、あるいは遠方にありすぎるからか、はっきりとは観察できなかった。

明日は、激戦地マダンに移動の予定である。