10年目の旅(飛騨から能登へ向かう)
1981年8月15日
ー20日

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まえがき】

  この記録は懸賞応募のために書き始めたものの締切までに規定枚数に足らず断念した残り滓を補筆したものです。読みやすくするために会話を多くし、Yをずいぶんコケにしていますが、硬くならないよう面白くするためのことです。Yと私との旅がどんなものだったかをまとめていますが、彼にはいつも世話になっていました。この点を理解して読んでいただくようお願いします。(一九八一年九月一五日)

        

10年間に利用したクルマ  
秋の八ヶ岳 Yの愛車 3台目の愛車
最初の愛車
日産サニー
Yの愛車
ホンダアコード
3台目の愛車
トヨタスプリンター

 

 

【一九八一年八月一五日(土)一日目】

 諏訪湖周辺図

 

 湖面を見下ろす二階のベランダに設けられた席は満員だった。吹き晒す冷たい風が秋の気配をただよわせた。相棒のYは、湖面に浮かぶイカダを指して、あそこから打ち上げるのだと言って譲らなかった。我々は、中央自動車道の諏訪湖サービスエリア直下、茅野(ちの)と岡谷を結ぶ県道が湖面に接する場所にあるドライブインに、午後五時を過ぎて到着していた。

  次第に湖面が暗くなり、対岸の上諏訪の街明かりが灯り始めた。なだらかな丘陵に大文字を崩したような灯が燈ると、茅野寄りの河口に満月が大きく浮上った。湖面の埋め立て地にクルマを入れ、花火大会を待つ我々は冷たい風に吹き晒されるのに閉口していた。到着してから一時間半も待っている我々はしびれを切らしていた。

  火の玉がスルスルと上がり、パッと丸く広がる。風の影響でやや楕円形だった。火の粉が落下しきった頃ようやくドンと音が伝わる。同じ型の花火が続いて打ち上げられ、間延びした音が続いた。

「花火はやっぱり近くで見るものだな。こんなに間延びした花火なんて最低だよ」

「ずいぶんしみったれていやがる。二年前はもっと景気がよかったのに・・・・」

矢継ぎ早にYが呟く。

「省エネルギーばやりだから仕方ないさ」
 私はそう言い返すしかなかった。

 丁度二年前は、我々が山歩きを計画半ばで断念した日である。扇沢から針ノ木岳を経て鹿島槍ヶ岳に縦走する計画を、互いが腹痛と胃痛に襲われて、種池山荘から下山したのだった。悔しさと疲労で互いが黙りこくってクルマを走らせていた帰途に見た印象が強いため、今回の花火大会は物足りなかった。この花火大会に合わせて計画を組み、慌ただしく出発してきた我々には物足りない花火大会に映った。

 

 

   

 

平湯周辺図  上高地との分岐点である中ノ湯に向かい、トンネルを何度も通り抜けると次第に道幅が狭くなる。「無茶するな!」とYが時折呟く。直角に曲がってトンネルに入ることが多くなった。

「上高地にはそのうちトンネルづたいに行くしかなくなるんだな」と、ガラに合わぬ呟きをYが漏らした。梓川づたいに山にへばりついて走っている崩れやすい山道もいずれ廃道になるだろう。何度もこの道を使い、ときには暗い夜道を一人でクルマを走らせ、上高地に出かけた私には寂しいことだ。

  安房(あぼう)峠に向かうとカーブが一層きつくなった。高山方向から下ってくるクルマが多かった。我々は、バスを除いて、初めて走ることもあって慎重をきした。

  ところどころ工事中ですれ違い困難な場所もあったものの対向車も無くホッとした直後に、左側を崖にする登り坂で大型トレーラーとすれ違うハメになった。互いに相手の出方を探り合う。下手に後退して崖に落ちたくないし、山道は登りが優先だ。しかし、相手は居座る気配だった。Yをクルマから出して誘導させ、ゆっくり後退する。スタートするとまたトレーラーがやってくる。勝ち目の無いことは分かっているが、私は腹が立った。

「こんな狭い道を大型車なんて走らせるべきじゃない」

 外に出され、誘導を強いられたYが息巻く。

「これでも国道なんだし、しょうがないさ」

「絶対に大型なんて通らせるべきじゃない」

 Yは得意の〝べき〟を並べ、語気を荒げた。道がある限りクルマは通るのだ。どちらかが譲らなければ渋滞し、事故が発生する。〝べき〟だけでクルマを走らすこと自体に無理がある。そう説明してもYは納得しなかった。

 

 

  安房峠にさしかかると薄い霧がかかった。諏訪湖からノンストップで走ってきた我々は小屋の前にクルマを停めた。月明かりで周囲が薄ぼんやり照らされた。クルマが途絶えたせいか、静かすぎるほどだった。我々は底冷えする外に長居は出来なかった。

「どこまで走らせたらいいんだ」

「お前はさっき、平湯の先にキャンプ場があるって言ってただろう」

 Yの答えに私はたじろいた。確かにキャンプ場案内に掲載されていたものの、平湯(ひらゆ)のどの辺りにあるかは分からないのだ。

「無かったらどうするんだ」

「どこでもいいさ。でも山の中は寒いぞ」

 Yは平然としていた。

「このままじゃ、高山まで行くかも知れんぞ。お前、ちゃんと地図をみててくれよ!」

「地図なんて当てになるものか。行ってみれば分かるさ」

 私の苛立ちを無視して、Yが開き直っている。

 

  我々の旅はいつも行き当たりばったりだ。今度もそうだった。テント持参、費用は各自四万円、目的地は奥能登の狼煙(のろし)、五泊六日、私の車を使用・・・・これが決まったのも昨日だった。

  今年こそ静かにしていよう。父母を連れて二泊くらいのドライブでもするか。・・・と思っていた矢先にYから誘いがかかったのは十日ほど前のことだった。

「いつもならとっくに夏休みを取ってるのに今年はどうしたんだって周りがうるさくて」  バツが悪そうにYが言い出した。

  私は気乗りがしなかった。はしゃぎまわった後の虚しさにこの頃耐えられなくなっていた。同い年はYを除いて身を固めていた。祖母も昨年死亡し、一人で遊びまわるのも気が引けていた。

「親と一緒にドライブだって!親孝行なんてガラかよ」

「どうせオンナに相手にされないんだろう。行こうぜ!」

 Yは執拗に誘った

 

 

 

  Yと旅に出るようになって九年目になる。キャンプ旅行で始まった我々の旅は、五年ほど山歩きにのめり、北アルプスには冬期を除き丸三年ほぼ隔月出向いた。四年前から再び私がクルマを走らせるようになってから主導権が変化したものの、いつもYに引っ張られて私の旅は始まる。

 

  どうせYのことだから計画など立てるはずもないと私がタカを食っていると、彼はしっかり計画書を持参していた。ルート図だけでなく予算まで積算してあるのには私は驚いてしまった。こんなことは嫌って、今まで私に担当させてきたヤツが本気になっているのだ。意外だったのは、諏訪湖で花火見物をしてからそのまま飛騨高山まで行くことだった。白川郷から白山に登るというのにも驚かされた。

  十日前に、白川郷を経由して金沢から能登半島に入ることが決まったものの、こんな欲張った計画ではなかった。私はてっきり東名・名神高速道路を使って岐阜から北上すると思っていた。八年前に電車とバスを乗り継いで出向いたルートを使うと信じていた私は唖然とした。

  目的地を絞り、一個所を集中的に楽しむのが私の旅の持論である。ところが、Yは欲張りの大風呂敷で何もかもを組み込みたがる。こんな我々は計画段階でいつももめる。今度は、花火見物はするが白山に登るのを中止することでもめた。そして、Yは楽天家である。彼の計画にはいつも泊まる宿が欠けている。「テントを持って行くのだから宿の心配なんていらない。雨が降ったらクルマに寝ればいい」と言う。どのルートを使い、どこで休憩し、このくらいの時間で、何キロ走り、どこで泊まると決めないと安心できない私には思い付かない発想もあるので拒めない。

 

「俺のクルマだったらこんな所も楽だよ! ミッション車は面倒だな」

 坂道に応じてギヤチェンジする私にYが話し掛ける。

「面倒臭い操作を好むヤツの気が分からないよ」

 黙ってハンドルを握る私に饒舌になったYが話し掛ける。

平湯キャンプ場  安房峠から平湯への下り坂は、さきほどの登りとうって変わってカーブの緩やかな快適な道だった。道幅も広くなっていた。私はスピードをコントロールして愛車を走らせる。

 

 

 

「こんな道だったら俺だって大丈夫さ」

Yがそうほざくと、私はムッとした。山道に入ると何やかや理由をつけ、私にハンドルを握らせる男が勝手なことを言い出すのが許せなかった。疲れも溜まり、神経を集中しているだけに腹が立った。

「ちゃんと地図を見てろよ! お客さんじゃないんだよ、お前は」

「地図なんて当てになるか。一本道なんだから、いいじゃんか」

「助手席はお客様用じゃないぞ。全く役に立たないヤツだ。余計なことを並べ立てられると気が散るだけだ。何ならここからお前が運転するか」

 私がムキになっている気配を察したYは黙った。

 

  平湯には午前一時頃着いた。温泉町なのにひっそり静まりかえっていた。我々はクルマを駐車場に入れて町の中を歩いた。神岡方面からやってくるクルマも多かった。どこも開いておらず、足音さえ忽ち闇の中に吸い込まれていった。目指すキャンプ場がどこにあるか分からなかった。

  駐車場に戻り、私が「クルマの中で寝るか」と言うとYがうなずいた。しかし、私はその気にならなかった。クルマの中で寝るのは慣れているものの、疲れが溜まることが不安だった。

「あと一時間走ってもキャンプ場が見つからなかったら山の中だってテントを張るぞ」

私が言うと無口になったYがうなずいた。

  平湯峠に向かい、五分もしないうちに道路の左側にキャンプ場が見えた。国民休暇村だった。我々はテントを張ると忽ち眠りにおちた。

 

 [ルート]

 

  14:00府中IC→17:20~22:00諏訪湖→塩尻→23:00松本市村井→0:20安房(あぼう)峠→0:40平湯・・・平湯国民休暇村でキャンプ

【八月十六日(日)二日目】

 

  上高地から安房峠を経て飛騨高山にバスで通り抜けたことが、我々には一度だけある。我々が初めて北アルプスを訪れたときだった。七年前に、大糸線の有明駅から燕岳・大天井岳・槍ヶ岳・北穂高岳を縦走し、上高地に抜けた帰路であった。飛騨高山をわざわざ周って帰ったときだ。

  平湯峠から高山に向かう緩やかな下り坂をクルマを走らせる私は、七年前のバスガイドを思い出していた。その若い男は、高山がいかに由緒がある町であるかを並べ立て、ダケカンバと白樺の違いを得々と説明した。山歩きをする者が理屈屋なのも、きっとこんな人間と接するせいかなとか、山がそうさせるのかなと思案したものだった。どうでもいいことをくどくど説明してもアカの他人には面白くも無いのに、客にかまい無しにこだわることが可笑しかった。

 

 

 

  飛騨高山は日曜日のせいか賑やかだった。朝市の開かれる宮川の橋のたもとには観光客の若い女性がたむろしていた。「寄ってみるか」とYに話し掛けると、「この町には嫌な思い出があるからな」と呟いた。

  宮川の橋はいずれも朱に塗られ、小京都ともてはやされるだけの風格のある町並みだった。どこにも立ち寄りたがるYが拒むのは不思議だった。

  七年前は、名前は忘れてしまったが、上三之町の民宿で一泊した。大雨直後の土砂崩れで、我々は上高地には一泊余計に留まるほかなかった。そのせいで手持ちの現金は底をついていた。帰りの切符、土産の地酒、それに宿泊代を除くと二千円しかなかった。たった百円の入場料さえ払えず、町の中を何回も歩きまわったものだ。

  「キャッシュカードなら便利だ」とYが珍しく預金してきたのが我々のつまずきの元であった。アテにしていた銀行が高山には無かったのだ。「店の数は日本一だし、高山は大きな町だ。それにオンナの子も集まるし・・・」とYはあのとき胸を張ったものだ。わざわざ飛騨高山に向かったのもYのささやきが魅力だった。

  名古屋でようやく目当ての銀行を見つけたものの、今度は暗証番号を忘れるおまけもついた。昼食にもありつけず、一本のコーラを二人で飲み、パンを分け合ってようやく帰った悔しさが今もYに残っているようだった。

 

  高山市内を抜け清見村の手前で運転をYと代わる。オートマチック車に乗っている彼は発進が苦手だった。私は発進のたびに足を踏ん張った。その度に、「俺のクルマだったら楽なのに」とバツが悪そうに呟いた。私の不安は、そんなことより、車間距離を取らないことだった。自分のクルマよりブレーキが甘いと言いつつ、前のクルマに接近して走るのが不安だった。

  クルマの通りも少ない広い道路で、警察官に停止の指示を受ける。違反もしてないのにといぶかって停車すると、若い女性が愛想を振り撒いて近づき、「お茶はいかがですか、チューインガムもあります、休んでいきませんか」と呼びかける。

「用も無いのに停めやがって!  こちとらは坂道発進が苦手なんだ」とYが不満を漏らした。

 

 

 

  今まで左側に川を見て走っていたが、橋を渡って右側に川を見る。御母衣(みほろ)ダムづたいに走っていると気がついた。牧戸からこんなに近いとは思わなかった。湖面を見下ろすドライブインに入ると、名古屋と岐阜のクルマばかりだった。我々は異郷にいる心細さを感じた。正午を回ったばかりだった。予想より早いペースだ。

  御母衣ダムは静寂だった。濃いグリーンの水面に陽光が照り付けていた。ウインドサーフィンをしている若者が一人いたが無風状態では寂しすぎた。キャンプ場まであるのに我々は驚いた。「八年前は観光地じゃなかったのに」と互いに呟く。

  ダムの取水口で再び停車し、我々は川下を眺めた。庄川づたいに陽光が射しかけ、真新しい屋根が光っていた。私には家がずいぶん増えたように映った。白川郷に向かう国道は左岸の山の中腹を大きくカーブさせて川沿いに続いていた。

  私は、御母衣ダムに立ち寄ったとき、初めて《ロックフィルダム》という様式を知った。大きな石を固めて川を堰きとめただけのダムに不安を感じたものだ。ダムと言えばアーチ型の華麗なものだと決め付けていたのでグロテスクとしか感じなかった。その後山歩きを続けるうちに、ロックフィルダムが何個所か作られていて違和感を持たなくなったが、やっぱり黒四のようなアーチ型のダムに親しみを感じてしまう。

 

 

  白川郷の思い出


 白川郷は今度の旅の第一目的地だった。大垣行きの夜行鈍行で岐阜まで行き、郡上八幡(ぐじょうはちまん)を経て美濃白鳥(みのしらとり)までヂーゼルカーに揺られ、バスで白川郷の平瀬へたどり着いたのは八年前の夏だった。

  あのときの我々は、庄川沿いのキャンプ場で旅の初日を飾ろうと意気込んでいた。その前年に十日間のキャンプ旅行をYと始め、休日のたびにキャンプを楽しんでいた。が、その目論見は忽ち崩れ去った。時折鳴り響く雷の音に耐え切れず、私はYに民宿に泊まろうと泣き言を並べ立てる始末だった。

  私が今度の旅で白川郷に立ち寄ることに固執したのは、八年前の旅をクルマで再現することより、ここに好印象が残っているからだった。平瀬から荻町(いずれも白川郷の地名)へ向かうときのことだった。

飛騨白川郷  あの頃はバスの本数も少なく、二時間くらい待たなければ次のバスは来なかった。今からでは民宿も満室かもしれないと諦めていたときだった。暇つぶしに立ち寄ったタクシーの案内所で何と無く雑談していると、中年のおじさんが知り合いの民宿を手配してくれたのだった。

  それも合掌作りの民宿だったから余計嬉しかった。テントを持参して旅をする、当時の我々はどこに行っても胡散(うさん)臭そうに扱われたから、見ず知らずの汚い身なりの我々に親切な扱いをしてくれた喜びを私は今も忘れられない。

 

  御母衣ダムから荻町に向かう道は八年前と随分変わっていた。以前はもっと狭くて曲がりくねり、どこか物寂しく映った道もどことなく華やいでいるような気がした。それはYも同様のようだった。

「バスのときと座席の高さが違うせいかな。ずいぶん変わってしまったぞ」

外を眺めていたYが、ハンドルを握る私に話し掛けた。

 

  荻町の名古屋寄りの入口にある、八年前に泊まった民宿『十衛門』は予約客で満員だった。予約もしていないのだからアテにするのも甘いものの、出来ることならここに泊まりたかった。我々は、ここまでずっと、「あの家のおばあちゃんは今も元気だろうか」と話してきたのだ。息子が学校の先生をしていて、孫と一緒に暮らしているというおばあちゃんは話の好きな人だった。我々も息子と似た職業と知ると彼女は余計に親切にしてくれ、「ドブロク祭りにはまた来なさいよ」と言ってくれたのだった。こんなことを覚えているのも我々の旅は、地元の人たちとの触れ合いが少ないからかもしれない。今回は案内所で、『伊三郎』という合掌作りの民宿を紹介されて泊まった。

 

  合掌作りの民家は、ブルーノ・タウトというドイツの建築家が、桂離宮とともに『日本美の再発見』(岩波新書)という本でもてはやしたそうだ。彼は、建物の美学の面で取り上げたものの、生活とのかかわりには触れていないようだ。

  八年前は合掌作りのものめずらしさで白川郷に向かったが、そして、今も壮大な建物に魅力を感ずるものの、文化財扱いされ保存される死んだ建物に興味が沸かない。『財産』として公開されるものには生気が欠けているからだ。どんな立派な建物であろうと、生活とのかかわりを断ったときから『財産』的価値しか残らないのであろう。・・・合掌村を再び訪れて私が感じたのはこんなことだ。

  建物と別に感じたのは、荻町の合掌村に歩いて行く旅行者が少ないのに驚いた。貸自転車に乗る人もわずかだった。我々を含めて誰もがクルマでそのまま目的地へ行ってしまうものの、白川郷は歩きながら自然と建物の調和に触れたほうがいいように私は感じた。我々はクルマを使わず町の中を歩いた。

 

  朝露がクルマにべっとり着いていた。我々の泊まった『伊三郎』は、荻町から天生(あもう)峠に向かう坂道に建てられた、こじんまりした合掌作りの民宿で、町外れの農家だった。私は外に出てぼんやり風景を眺めた。山から流れてくる豊富な水の音が朝靄の静けさをやぶった。なだらかな斜面を利用した畑の中に点在する合掌作りの農家が自然に溶け込んでいた。あでやかな黄色の花に私はしばらく目を奪われていた。

  白川郷は、八年前と随分変わった。クルマも多く出入りしていた。それは仕方ないことだし、観光客より地元の人々の生活が優先されて当然のことだ。いくら貴重な『財産』と言っても、それが建築美であろうと、歴史的価値であろうと、国民的遺産であろうと住民の生活を犠牲にして元のままにしておくべきだとも思わない。朽ちるもの、滅ぶものはあって当然だし、無理に残そうとすればグロテスクな遺物になってしまうに違いない。合掌作りの農家もいずれ不便さゆえ、あるいは、維持費用の困難さで壊され、その一部が合掌村に保存されることだろう。それは寂しいことだが、いつまでも残しておけるわけでもない。畑の中の農家を眺めながら私はふとそんなことを感じた。

  

  [ルート]

 

  9:00平湯→10:30飛騨高山→牧戸→12:00~12:40御母衣ダム→13:30白川郷・・・・民宿に泊まる

 

 

 

【八月十七日(月)三日目】

 

  能登には金沢から入った。

  八年前は七尾線で羽咋(はくい)まで行き、黒埼・輪島・木浦に泊まって、禄剛崎(ろっこうざき)灯台がある《狼煙(のろし)》で四日間キャンプした後、輪島市の旧友宅に押しかけて泊めてもらい、米原経由で東京に戻った。あの頃は、金沢市郊外の内灘町に米軍の弾薬庫跡もまだ残っていて、我々はわざわざ頂上にテントを張ったものだ。内灘は、四年前に訪れたとき、随分民家が増えていて、古い面影は無くなっていた。今回の旅は、八年前の半分の日程である。

 

  能登に向かう

 

能登半島全図  私が能登に向かうのは、同い年のMと出向いたドライブがきっかけになっている。もし、彼と能登に出向かなかったなら私の旅は無かったはずである。能登は私にとって最初の旅先である。きっかけはともかく、なぜ能登に向かうのかは上手く説明できない。同じ土地であっても四季折々の変化に応じて接する度に、以前見落していたものを発見する楽しさを感ずるからかもしれない。

  相棒のYは、私と反対で、同じ場所を訪れる気が起こらないと言う。新鮮さが欠けるからとか、同じ場所には妥協が生まれて最初のとき以上の印象を感じないそうだ。こんな我々も能登には2回訪れている。それは、Yにとって妥協の産物なのかもしれない。今回の旅は、私には4回目の訪問となる。

 

  津幡町で、八号線と別れ、左側の一五九号線を走るようYが指示した。氷見(ひみ)から内海づたいに狼煙(禄剛崎)に向かうと思っていた私には意外だった。七尾線を右に見て走り続けると左折の指示である。

「どこに行かせるつもりなんだ」

「有料道路を使って羽咋(はくい)に行くに決まってるんだろ」

 きょとんとしてYが答えた。

  私は不安になって地図に目を通す。一五九号線で七尾まで行くようだ。どうやら、Yは最短距離で狼煙に行くつもりらしい。私はこんな中途半端なルートを走るのは嫌だった。半島は一方の付け根から、もう一方の付け根まで走らすべきだという持論がある私には納得できなかった。

 

  羽咋市から一五九号線をそれて厳門(がんもん)に向かうと、今度はYが、「どうするつもりだ」と言い出す。

「せっかく能登に来たのに海沿いに走らずに帰るつもりか」

「どうせ何度も来てるんだ。狼煙に早く着けばいいのに・・・」

Yの不満を無視して私は厳門を目指した。

  《厳門》は観光地化していて私にはなじめなかった。松本清張の『ゼロの焦点』のフィナーレを思い浮かべることも出来なかった。荒波の打ち寄せる冬にならないと無理なように思えた。

  富来(とぎ)町と門前町の中間にある《黒崎》に立ち寄り、松林の先端まで歩くと、エメラルドグリーンの海が広がり、やっと能登に来たのだと感じた。遠くから砕石機の音が時折響くものの、静寂である。Yも私もしばし海を眺め、疲れを癒した。八年前にキャンプしたときとあまり変わっていないのが懐かしかった。

  輪島の街は相変わらず混雑していた。いつもと同じように渋滞に巻き込まれた。意外だったのは、輪島が金沢市に近いことだった。地図を開くと約一三〇kmあるものの、四時間で着いた。寄り道をしなければ三時間もかからないはずだ。

  《曽々木海岸》を走るとようやく奥能登に来た感じがした。なだらかだが細くて曲がりくねった海沿いの道が続いた。

「これでも国道なんだからな」

 退屈そうにYが話し掛けた。

 とっくに国道からそれたと思っている私は驚いて、彼に聞き返した。行き交うクルマも減っているし、国道ならもっと広いと思った。

「田舎に行けば、国道なんてこんなものさ。二車線もないところなんてザラにある」

 首をかしげる私をYが冷やかす。

  何回も訪れている場所でも距離感は薄れるようだ。私は、輪島市街と狼煙の間がこれほど離れていると気がつかなかった。クルマで一時間半もかかるとは意外だった。

 

  狼煙(禄剛崎)に向け

 

  カーブだらけの道になると私の心が弾む。真っ直ぐな道より、こんな道の方がクルマを走らせている充実感がある。

「お前は、こんな道になるとムキになるな。ガキの真似をして・・・」

「お前みたいに、クルマに走ってもらうのとは違うさ」

「いい年をして、暴走族気取りか・・・」

  Yは呆れ顔をしていた。彼は真っ直ぐの道しかクルマを走らせないから、私がムキになっているとしか理解できないのだ。私にとって、クルマは道具であるとともに、人間より厳格な相棒である。一つ一つの操作に率直な反応があるのも楽しいが、面倒な人間相手より簡単だからに過ぎない。もっとも、最初の能登訪問では、山道に慣れず、相棒だったMを不安にさせていたのだ。Mとのドライブは、山道を走ることが多かったから、それゆえの慣れかもしれない。

 

  四年ぶりの《狼煙》は静まり返っていた。以前より広くなった港のコンクリートの白さが違和感を一層増した。八年前に四日間キャンプした浜辺に向かうと余計寂しさを味わされた。砂浜が汚れきり、グロテスクなコンクリートポットが海になげ込まれていた。時折やってくるクルマも素通りしていった。我々は、禄剛崎灯台へ寄らず、《折戸(おりと)》へ引き返した。

 

 私のこだわり

 
私が狼煙(のろし)に固執するものがあるとしたら、やはり、その土地の人とのかかわりにある。四日間もいるとその土地の人たちと無意識に繋がりが生まれる。「あんたたち、まだここにいたのか」とか、「買わなくてもいいよ。貸してやるよ」とか、「また来なさい」と声をかけてもらえるようになるからだ。一つの場所との触れ合いは時間をかけねばならないことも多い。名所や旧跡を訪れるだけならば、土地の人とのかかわりなど不要かもしれないが、私の旅はそういうものとは区別したい。

 

  能登には設備の整ったキャンプ場が多くある。岬や浜辺にほどよく設けられている。とりわけ木浦から狼煙に至る岬自然歩道ぞいには野営場が多く、選ぶのに苦労するくらいだ。今回は、《川浦》と《木ノ浦》に一泊づつテントを張った。浜辺と岬のキャンプにした。

  八年前に泊まった民宿は木ノ浦だった。あの時は、旧の七夕の日で、子供たちが燈篭御輿(とうろうみこし)をかついで社に集まってきたのが印象に残っている。キャンプの食料は二日とも《折戸》の農協で仕入れた。我々が奥能登で最も苦労したのは食料の調達だった。海に近いせいか、また、畑もあるせいか奥能登で魚や野菜を手に入れるのは簡単ではない。今ではそんなに不便はなくなったものの相変わらず品数の少ないのには驚かされた。

 

  【ルート】

   9:00白川郷→《白山スーパー林道》→10:00~10:30一里野温泉(尾口村)→11:00金沢市→12:20羽咋市→12:40~13:30厳門→14:00~14:40黒崎→15:20輪島市街→16:40狼煙→川浦野営場でキャンプ

 

 

【八月十八日(火)四日目】

 

 

奥能登  昨夜のキャンプはいささかシラケ気味だった。久しぶりに多摩ナンバーが三台集まったというのに互いが知らん顔をしていた。酒が切れたのも一つの原因だった。我々は静寂を求めてキャンプをするわけではない。気の合う仲間と焚き火を囲み、酒を酌み交わし、フォークソングを口ずさんだり、互いのこだわりを晒し合うのが楽しい。こんな我々の振舞いに同郷人は不快感や不安を感じたのかもしれない。挨拶しても無視するのは東京人の特徴で、我々もその一員なのだがやはり寂しかった。

 

  昼食は狼煙に出かけてとった。昨日とうって変わり、観光客が溢れていた。彼らはバスを降りると一様に禄剛崎灯台に向かう。次に、土産物屋に駆け込む。そして、次のバスで立ち去る。クルマで来る人たちも同様だった。奥能登は、道が整備されるに連れて、ただの通りすがりの場所になっていくようである。

  禄剛崎は日没前後に立ったほうがいい場所である。波の絶えた海原に、真一文字の陽光を伸ばして沈む、紅いの太陽を眺めるたびに私は自然の荘厳さを感じ、「また来るぞ!」なんてふと呟いてしまうのだ。

  灯台にさしかかると珠洲市寄りの岬の先に何かが反射している。「岬の先に鉱泉があるので、反射してるのはクルマであろう」と土産物屋のオバサンから聞くと、暇を持て余している我々は早速クルマで向かう。三回目のドライブのとき使った山伏山野営場の少し先だった。

  須々神社奥社入口を海に向かい、下ると目的の鉱泉の駐車場に着く。鉱泉はそこから歩かねばならなかった。岬の入り江にポツンとひなびた漁師小屋めいた建物が一軒あるだけだった。禄剛崎からは山陰になっていて、今まで気がつかなかったはずだ。葭ケ浦(よしがうら)鉱泉という名前より、土産物屋のオバサンの言った《ランプの宿》という呼び方がこの宿には似合っていた。

 

 

 

《木ノ浦野営場》は、岬の斜面に設置されている。我々は階段状の坂を下って、海中公園に出た。両側を断崖に囲まれた狭い入り江だった。大阪のクルマばかり集まり、国民宿舎の白亜の建物が濃いグリーンの海と程よく調和していた。

  広々としたキャンプ場には我々のほかにもう一組しかいなかった。コンクリートの設備が何となく違和感を与え、孤独感をつのらせた。Yは、早朝に買ってきたアワビをさも大事そうに焼いた。川浦から狼煙まで歩いて出向き、手に入れた手柄話を吹聴する彼のもったいぶりが可笑しかった。私はそれに閉口して、高屋までクルマで出向いて買ってきた花火を打ち上げた。盛り上がりの欠けた昨日の夜に懲りて、互いが準備し合ったので酒や薪や花火はたっぷりあった。

  恐れていた雨で花火は中止するしかなかった。私が木の間にビニール風呂敷きをぶらさげて即席の宴席を作ると、テントの中で飲んでいたYがぬけぬけと入ってくる。我々は好みの音楽をかけ、酒の勢いも加わって互いが好きな唄を口ずさんだ。

 

   男なら夢のひとつ

   くつがえすこともできるし

   夢からさめたら

   また新しい夢を見ればいい 

   (作詩・作曲  伊勢正三『男は明日はくためだけの靴を磨く』)

 

  この曲はかつて我々のテーマソングだったが、今は私だけの唄になってしまった。当分一人で口ずさむしかない。Yはおどけて、『おまえだけが』のフレーズを何度も繰り返した。いずれも、三年前に解散した《風》というグループの曲だ。

 

  お前だけが

  お前だけがいてくれたらそれでいい

  お前のやさしい笑顔があれば

  それでいいのさ   

   (作詩・作曲  伊勢正三『お前だけが』)

 

  相手がいない私はこの唄を口ずさむことができなかった。

 

 

「東京から見えられたんですか」

 我々に向かって、隣のグループの学生が話し掛けた。

「久しぶりに標準語を聞けて安心しました。僕らは北海道から来たのですが、ここ一週間標準語を聞いてなかったので、ホッとしました」

 私にはその学生の〝標準語〟と言うのが可笑しかった。

「オマエラずいぶん関西のヤツラにいじめられてきたんだなー」

 酒も回り、気も大きくなったYが口を開く。

「フェリーで来て敦賀から能登に入ったんですが、行く先々関西弁でしょう。恐くてしょうがなかったんです」

 学生もおおげさに答える。

「関西のヤツラはすばしっこいからなー」

 関西人に遺恨を持つYは、学生に仲間を連れてくるようにすすめた。

 ビニールシート一枚を屋根にして五人で酒を酌み交わす始末だ。

 

  互いがお国自慢をしているうちに雨が強くなり、雷光が時折舞い始めたので私はテントに避難した。

  私は、風の音が気になってたびたび目覚めた。雨量が増して、足元に水がしみ込むのも不快だった。いつものとおり、寝息を立てているYのふてぶてしさが羨ましかった。

 

 

  【ルート】

 

   本日は、川浦・狼煙・木ノ浦をうろついていただけ。木ノ浦野営場に泊まる。

 

 

 

【八月十九日(水)五日目】


我々はかっての自分たちを思い出し、彼らを見送った。

 

 

  海岸は茶褐色に濁り、昨夜の雨量の多さをまざまざと映していた。Yは、別れがたそうに移り行く景色に見入り、
「一昨日はここまでマラソンをしたんだ」とハンドルを握る私に話し掛けた。川浦と狼煙の間の畑づたいの直線路だった。

「もう、あとは帰るだけだ」とYが寂しげに呟いた。

  我々は出来るだけ海岸べりに沿ってクルマを走らせ、珠洲(すず)市街に向かった。蛸島に至る細い道は十年前とさして変わっていなかった。見付島(軍艦島)、恋路海岸を抜け、宇出津(うしつ)への山道を走った。時間が無いので、内海づたいに走ることを断念し、九十九湾に立ち寄らず、宇出津から、能登丘陵に作られたばかりの大規模農道に向かうことにした。

 

 

  親不知(おやしらず)に差し掛かる頃は、夕暮れに包まれていた。滑川(なめりかわ)市から黒部市にかけての、勤め帰りの渋滞が嘘だったかのように感じるほどクルマの流れは少なくなっていた。日没がずいぶん早まっているのを感じさせられた。

  私が親不知を通るときはいつも夕暮れ時だ。初めてMと能登に出向いた十年前も、そして、Yと彼の後輩とともに能登に出かけた四年前も、夕暮れ時だった。今度の旅は、初めて帰路に使ったので、日没には間に合わなかった。静まり返った砂浜に真っ赤な太陽が沈むときの美しさとか、太平洋岸と反対側に日が沈む驚きは今も私の思い出に残っている。

  糸魚川に着く前に、辺りは全て闇に覆われていた。我々は互いに疲労と空腹に襲われていた。木ノ浦野営場を発って以来、能登海岸道路の《芝垣》で昼食をとったほかは、七時間ずっと走り続けていた。些細なミス(ほとんどが指示の遅れだった)や言葉の行き違いで言い争いをする始末であった。

 

 

 

  姫川温泉に着いたものの、宿のアテはなかった。土産物屋で宿の状況を確かめると、「今日はどこでも空いているでしょう。シーズンオフになっているし、平日なんだから」とのことだ。我々はホッと胸をなで下ろした。実のところ、私はこれ以上先に進む自信が無かった。どこの宿にしようかと我々が思案していると、「この下のホテルなら空いてるはず。何なら聞いてみますか」と店の主人が言った。我々はホテルでもやむをえないと覚悟を決めた。

  温泉に浸かると、今までの疲れがどっと襲ってきた。Yは忽ち寝入ってしまった。私はなかなか寝付けなかった。しかたないので、対岸を走る国道をぼんやり眺めた。クルマの流れはほとんど途切れていたが、時折、大型トレーラーがあえぎあえぎ登ってきて、忽ち闇に吸い込まれていった。糸魚川からやってくるクルマが多かった。クルマが去ると、生の息吹が全く消えたように静まり返った。

  慌ただしく通り過ぎた今日の行程を思い返すと、ずいぶんもったいないことをしたような気がした。キャンプに固執せず能登半島を一周するんだったとか、大規模農道を利用せずに内海づたいに走るんだったとか、ここまで無理をしないで親不知辺りで泊まった方がよかったとか・・・悔やみ事が次から次に浮かんだ。時間ばかり気にして、最も魅力的で思い出も多い場所を訪れなかったのが悔しかった。

 

  【ルート】

   11:30木ノ浦→12:30見付島(軍艦島)→宇出津→《能登大規模農道》→穴水→徳田大津→15:00羽咋市→16:30金沢市→《国道八号》→17:20滑川市→18:30親不知→19:00糸魚川→19:40姫川温泉・・・ホテルに泊まる

 

 

 

【 八月二十日(木)六日目 】

 

   姫川温泉から白馬までの道路は十年前とずいぶん変わっていた。十年前は対向車とすれ違うことも出来ない箇所も多かったものだが、今ではそんな場所は僅かだった。今でも改良工事が所々行われているが、いずれ大型車もスムーズに走れる見通しの良い道となるはずだ。Mとの苦い思い出が残る私は、あまりのあっけなさに驚かされた。小谷(おたり)から姫川温泉に向かった十年前は、慣れぬ山道の運転を強いられて、スピードをコントロールできずに対向車線にはみ出たり、エンジンをノッキングさせたり、対向車が来るたびに脅えたものだ。深く切れ込んだ渓沿いの崖道に冷や汗を流し、Mにずいぶん罵られたものだ。もっとも、あの旅があったからこそ私の旅は始まり、能登に四度も出向いているのだ。

 

 

 

  白馬に着くと旅の終りを感じた。東京まであと約三〇〇km・七時間を要するものの、私には走り慣れた道のりだった。白馬の駅前は華やかだった。観光客が土産物屋にたむろし、下山してきた登山者が狭い駅舎に群れていた。駅前の駐車場は東京方面のクルマがうんざりするほど停まっていた。

  八方尾根の上部は積乱雲が覆っているものの、照り付ける陽光は眩かった。日本海側の陰気な空を見てきた私は、ちょとの距離でこれほど気象が変わることに、改めて驚いた。

「八方尾根まで行ってみるか。黒菱平までクルマで登れるぞ」とYに話し掛けたが、彼は乗り気ではなかった。白川郷では、大白川のキャンプ場をベースにして白山往復をすると言い張ったYが静かだった。

白馬全体図「第二ケルンまで行ってみようぜ。三十分も歩けばいいんだから」と促すと、

「クルマで山に登るもんじゃないよ」

と、Yがボソッと呟いた。

  私は呆気に取られた。四年前からクルマを旅に使うようになって、最も多く出向いたのが山だったからだ。丹沢、奥多摩、八ヶ岳それに北アルプスの麓へ毎月出向いてきたからだった。舗装が途切れても出来る限り山の奥に入り、キャンプもしてきたのにだ。三台目の私の愛車(トヨタ・スプリンター)だって、購入して一週間もしないうちに、「このクルマは山も強そうだぜ」と私をおだてて、入笠山のダートコースを走る災難に遭っている。十ヶ月前の私は、小石の跳ねる音に脅え、ぬかるみに入るたびに汚れを気にし、深い轍(わだち)でクルマの腹をこすらないかと気を揉んだものだ。初めて新車を手に入れ、林道なんて絶対走るものかと決めた私をそそのかしたのもYだった。

  Yは昨日のいさかいに根を持っているようだった。地図を見ることもせず、後手後手に指示をする彼の態度に業を煮やし、姫川温泉では私の我慢が爆発したのが気に入らなかったのだ。小さなことにはいちいち感情をむき出しにしない私には、我慢の限界に達すると爆発する欠点があって、Yはそれでずいぶん頭に来たようだった。

 

  私は毎年四回ぐらい北アルプスの麓に向かう。今年は六月にYと別々のクルマで上高地に出向いた。最近は、八ヶ岳のほうが近いせいか多く出向くものの、七年前から北アルプスの麓には毎年でかける。

  どうして向かうのかを私は上手く説明できない。ただなんとなく出向かねば落ち着かないのである。海で育った私は、食事にしても山国になじめないものの、山の麓でぼんやりするのが心地よいのだ。

  五年ほど山歩きをし、北アルプスには丸三年出向いたものの、私は山男になれなかった。雪で数度スリップしたことも、凍傷になりかけたことも、雨で散々な目に遭ったこともある私には、山歩きがそれほど魅力的には思えないのだ。下山してきた直後に、「もう金輪際山など行くものか」と公言したことは何度もあった。そして、口も乾かぬうちに次の山に向かったことも多い。

  他人に積極的にすすめる気はないものの、山歩きも旅もしたことの無い人が、美化したり、けなすとムッとする。どんなものでも、言葉でなく、行動によって判断すればいいと思う。キザな詩人であるが、気に入っているフレーズを紹介しておこう。分からないが感じるものは誰にもあるのではないか。

  どうしてそうなのかわたしには分からない

  ただどうしてそうなのかをわたしは感じる

    (田村隆一 『幻を見る人』より部分引用) 

 

 

「明日からまた出かけるんだな、お前は」

 先ほどまで北アルプスの峰々に見とれていたYが呟いた。

「ヤキがまわったもんだ。家族のお守りまでするようになったんだから」

 ハンドルを握る私にYが話し掛ける。

「お前だって、そうしてるくせに・・・」

母だ、妹だを昔から連れ歩いているのはお互い様だ。今年の六月には上高地にまとめて連れ歩いたばかりだ。

  私は明日から父母を連れてドライブに出かける。それは我々が旅に出向く前から決めてあったことだ。だが、Yの呟きには、それさえなければもっとゆっくり旅が出来たのにという響きを感じた。

  Yも私も家族のことを気にする歳になったようである。互いにわがままを通してきたのだが、そうも勝手なことばかり続けていられなくなったこの頃だ。

 

 

  我々は南豊科から、松本市内を大きく迂回する県道に向かう。「このペースなら日没前に東京に着くだろう」と互いに口にしながら、陽光が眩しい畑の中の道を走った。

 

 

 【ルート】

 

   9:00姫川温泉→9:30~10:30白馬→松本→13:00~14:00茅野→15:30勝沼→16:


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