ニつの『津軽』
2008年06月17日


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これは読書録です。
出向いてはいませんのでご注意ください。


 出かけたことはないけれど気になる場所がいくつかある。30年近く前に友人2人と太平洋岸から北上して下北半島を一周し、青森から奥入瀬、十和田湖を経て八幡平へ抜けたドライブのあとに行きそびれたままの津軽半島もそんな場所のひとつだ。最近、アラン・ブースさんの『津軽−失われゆく風景を探して−』(柴田京子訳、平成七年、新潮社)を古本屋で見つけ、太宰治の『津軽』(岩波文庫、2004年)を初めて読んだ。ブースさんは太宰の『津軽』を歩いてたどるが、太宰が出向かずに済ませた場所まで範囲を広げている。そこでひとまず太宰の作品に戻ろう。


●太宰治の「津軽」

 太宰の『津軽』は旅行案内や紀行文ではない。友人や知人宅を巡り酔った話ばかりで風景になると国防の秘密に触れると逃げる。書かれた時期が1944(昭和19)年だからというより、酔っぱらって景色を見る機会が欠けたのだろう。シラフでは景色さえまともに表現できなかったのかもしれない。太宰は5度に渡る自殺だけでなく、自ら演技し語る作家であった。江戸時代の京の医師・橘南渓〔たちばななんけい〕の『東遊記』の描写を非難したり、『日本百科大辞典』を長々と引用するのも酔った後始末かもしれない。また文壇の大御所だった志賀直哉の批判にしても文壇に受け入れられないあがきもある。そして最後に持ち出される乳母との再会場面は完全なフィクションとされる。それでも飽きないのは太宰の読者に対するサービス精神と生家にどこかとけとめないつぶやきが語られるからだろう。

 太宰は『津軽』の序論で、ある雑誌社から「故郷に贈る言葉」を求められて《汝を愛し、汝を憎む》と返答したと書く。「私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であった。謂わば純血種の津軽人である。だから少しも遠慮なく、このように悪口を言うのである。他国の人が、もし私のこのような悪口を聞いて、そうして安易に津軽を見くびったら、私はやっぱり不愉快に思うだろう。なんと言っても、私は津軽を愛しているのだから」(同文庫28−29頁)。この独断こそわたしが故郷の沼津を冷やかに語りながら、それでも愛着を捨てきれないのと通じるものがある。むろん太宰には祖父が金貸しにより財をなし、父は貴族院議員、兄は町長から県知事になった津軽きっての大地主である津島家のできそこないの《オズカズ(三男坊や四男坊をいやしめた言葉)》である負い目がつきまとう。太宰の『斜陽』に描かれる貴族は学習院出の志賀直哉や三島由紀夫に批判されたというが、暗いだけでなくユーモアにも富んでいたといえ、彼はオズカズでありつつも津島という家柄に助けられ甘えた作家のようにわたしには思えてならない。というわけで彼の『津軽』はフイクションに富む自伝ないし、母を訪ねて三千里の世界というしかない。


●ブースさんの「津軽」

 アラン・ブースさんは1946年にロンドンで生れ、古典劇の演出に腕を振い、能に興味を持って1970年に来日して曰本全国を巡り歩き、1993年に47歳で亡くなったという(新潮文庫の作者紹介よリ)。下北半島は恐山のイタコに「前世の悪行のために今世こそ外人として生まれてきたが、三百年ほど昔には弘前(ひろさき)に住んでいた」と言われたほどの曰本びいきで、家には神棚も飾ったという。自分の足で歩き、土地の人と酒を酌み交わして感じたものを取り上げる語り口にひかれる。先日から読み流している1930年代の英国を描くプリーストリーの『イングランド紀行』やエドウィン・ミュアの『スコットランド紀行』(いずれも岩波文庫)と違い、わたしも通りすぎた1980年代の日本であることに親しみがわく。

 ブースさんの『津軽』には太宰の文章が引用される。太宰は読者に「梅、桃、桜、林檎、梨、すもも、一度に花が咲く」春に津軽へ出向くようすすめる。でも太宰が語らなかったこともブースさんは加える。津軽の位置を太宰が言うとおりとしたら下北半島へ行ってしまうし、外ケ浜がなぜ日本海でないのかも皆目不明である。江戸時代の交易が日本海中心としても陸奥湾に面し、青森市のある津軽半島東部がなぜ《外》なのか。それは弘前(ひろさき)、木造(きづくり)、五所川原、金木(かねぎ)といった津軽平野から見ての《奥》や《外》をさす。太宰は津軽潘の城下町でありながら、新参の青森市に県庁を持っていかれた弘前をののしるだけで触れない。わたしも太宰の本を読み出してこの外ヶ浜の位置に戸惑った。津軽半島の中央に位置する金木生れの太宰には山の彼方の青森市、蟹田町、三厩(みんまや)それに竜飛岬など僻地にすぎなかったのだろう。

 太宰が回った場所は知人や縁故がいる場所に限られ、鰺ヶ沢・深浦などの五能線沿いは付け足しである。でもブースさんは岩木山近くの岳温泉、あるいは大鰐(おおわに)の先にある青荷まで足をのばす。だから津軽平野の観光案内として充実している。といってもそれは観光スポットの結介ではない。彼は《失われた風景》を探すのでもない。それは決して物見遊山ではなく、そこに暮らす人々との触れ合いを通じて感じる《失われゆく風景》である。これは岩波文庫の『イングランド紀行』や『スコツ卜ランド紀行』に通じるものだ。ゴルフ場の開発、温泉ブ一ムあるいは中途半端に取り残された工場団地を語るのも忘れない。それは決して異国の話ではない。

 ともあれブ一スさんの観察は鋭い。日本人の島の感じ方は《監獄》であってそこから海へ乗り出すのは危険と感じるのに対し、英国は島を《要塞》とみなし世界の海へ乗り出したというのも驚いた。津軽の祭りである《ねぶた》も、太宰は征夷大将軍の坂上田村磨〔さかのうえのたむらまろ〕を持ち出すだけだが、青森市の《ねぶたnebuta》は凱旋(がいせん)してきた軍隊を迎えるの太鼓で掛け声が「らっせ!らっせ!らっせ!らああ!」と勇壮で、弘前市の《ねぷたneputa》はこれから出て行く軍隊を見送る太鼓で「や一やど一、や一やど一」の物寂しい掛け声となるそうだ(ブとプの違いに注意)。これは弘前で知り合った酒屋のマツオカさんから教ったようだ。今はどうか知らないが、弘前駅のアナウンスは「ヒロセキイイイ」となるそうだ。人形《こけし》にしても間引きと関わらせるのも一考である。

●終りの言葉を比べる

 あれこれ並べてきたが、太宰の小説は次のようなやけに空元気な文句で締められる。
私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。
これも演技者の太宰らしさのだろう。

 対するブ一スさんの終りは次のとおりだ。
雨の早朝、木造(きづくり)にいたのは、望んでも手に入らない月を求めて吠えている、ひどく孤独な男だった。
これは太宰を暗示させるが余計な詮索はよそう。ともあれ太宰の生家のある金木町の「斜陽館」に泊ったあとに、木造の旅館で早朝のシジミ売りの声を「スズム貝」と教えられ、小泊(こどまり)の乳母の嫁ぎ先へ向う太宰を回想するブ一スさんがそこにいた。

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