たかがクルマのことだけど

あうんの呼吸は通じない


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 別れ唄を唄って自己満足に浸るのは愉しい。振られ慣れてしまうとそういう自己保身が身につく。でも、去った相手に責任をなすりつけるのは卑怯である。折角の出会いを責任のなすりつけで終らせたくない。クルマの運転にもそういう面があふれている。

 良い子ぶっていては腹を割った付き合いは望めない。キレイゴトばかり並べれば裏で足を引っ張りあう。でも、ホンネばかり並べればまとまりがつかない。ワガママの押し付け合いも憂鬱だ。

 クルマの運転に阿吽(あうん)の呼吸を求めるのは無駄である。当たり前のことやわかっていることを互いに確かめあうのが運転だ。わかるはずだは勝手な思い込みだし、わからせるいとなみを放棄するに等しい。

 顔見知りでさえ通用しないことをアカの他人に求めるのは思い上がりである。守る気がないのに法律を持ち出すのもナンセンスだ。自分がミスするように知合いもアカの他人もヘマをするとなぜ考えないのだろう。

 一緒に行動してるから、あわせていれば間違いはないと思い込むのは誤りである。誰にも思い込みや錯覚はつきまとう。それを互いがチェックしあうのも欠かせない。まかせきりにするにでなく、ときには交替して互いのミスを減らすしかない。

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