たかがクルマのことだけど

期待はずれをたのしむ


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 ポスターにひかれて海や山へ向い、小説の場面を確めるためにクルマを走らせ、近所の神社では心もとなくて出雲へ願かけに出向いた。出かけてみればどういうこともない。だまされたと怒るより写真家や作家の表現力に感心するだけだ。有り金をはたいで馬券や宝くじを買い、はずれてどうやって暮らすか悩やむよりマシである。

 簡単さを売り物にしたマニュアルがあふれているもののそのとおりになったことはない。砂糖や塩のかげんだってあやふやである。そこに辛子やスパイスを活かした工夫がある。つまり、期待はずれもそれなりの楽しさがある。少なくともそこへ出かけてつまらないことを確め、それをきっかけにして楽しんだだけマシだろう。

 じきに飽きる決め込んで始めた道楽が続くのも意外である。自分には合わないと思い込んでいた仕事になじむのも不思議だ。煙むたかった上司や同僚と打ち解けるのも考えられなかった。それほど期待していなかった妻だって、けっこう働き者でひまつぶしの話し相手になる。出来の悪い子どもだって似た者どうしの共感を共有できる。思い入れが少ないぶん期待はずれを逆恨みしないですむ。

 ああすべきだとかこうすべきだと勝手な理屈や期待を並べるのは勝手である。そのためには他人に求めるのでなく自らを律するのも辛い。「山道を歩きながら考えた・・・とかくこの世は住みづらい」という漱石の『草枕』を想い出す【知らない方はホームぺージの「本の紹介」を読んでください】。ならば、流れに身をまかすのもいいだろう。無責任で自堕落な自分を認めてその時々を楽しめばいい。期待はずれを生んだのは自分にあると認めればすむことである。他人や社会を逆恨みしても不毛だろう。

 あきらめをすすめるつもりはない。前向きに処するだけである。期待は料理でいえば素材にすぎないだろう。まずい素材だろうと工夫次第で味わえるものもある。(2007/09/19)