7 赤い鳥
フォークのことあれこれ


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目次
 ●音楽性と叙情性
 ●グループの特徴
 ●子守唄雑考
 ●竹田の子守唄
 ●河と旅
 ●黒田三郎の紙風船


(1)音楽性と抒情性

 ある時期に熱中したものはちょっとやそっとで忘れてしまえるものではない。それが人格の形成期であれば、引き返せない口惜しさや懐かしさも加わり、よけい印象深くなるのではなかろうか。僕がフォークにこだわるのも、青春期のことゆえのはずだ。赤い鳥というグループには僕の色々な思い出がからんでいる。

 
最初で最後に接したコンサートが赤い鳥だった。大学祭の外部行事でわざわざ神田の共立講堂まで出かけ、社会に出て1年目に彼らの解散コンサートの切符まで手に入れたものの残業のために参加できなかったことも思い出深い。今は「紙風船」と「ハイファイセット」の2つのグループに別れて活動している赤い鳥のメンバーは、対極的な音楽活動をしているのだが、あの当時にもそういう2面性があったと思う。そのいずれのグループの現在の活動を耳にするたび、頑張っているんだななんて僕は懐かしむ。

 赤い鳥は、フォークを若者や学生だけの唄とさせず、もっと広い客層(?)まで受け入れさせる音楽性を備えていたように僕は今も感じる。マイナーでなければフォークではない、そういう風潮やうぬぼれが当時の僕らにあったものである。フォークやロックが日本ではいつも「若者の音楽」とレッテルづけされるのもこんなところに起因するのかもしれない。ジャズやクラッシックが愛好者に長く受け継がれるに対して、
フォークやロックが年を取るとすぐに忘れられてしまうのも、そこに若者の特権意識やいきがりが含まれているのではなかろうか。(僕は25歳過ぎてから外国のロックに興味を持つようになったのだが、僕の周りの同世代で若い頃にロックの愛好者だった者は演歌を口ずさむようになり、もうロックに見向きもしない。)
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グループの特徴

 いずれにせよ、赤い鳥はプロをめざして結成され、そのとおりに活動した実績を持つ、開放性のあるグループだった。フォークというジャンルを超えた音楽性と抒情性のある歌詞をもっていたと思う。グループの特徴としては次のようなものである。

 第1に女性2人の
ボーカルが飛びぬけて優れた歌い手だった。美女と並女の2人だったけれど、そして人気は美女のほうだったけれど歌い手としては並女の方が上だったと僕は思う。

 第2は当時としては珍しく
ハーモニーの整った、そして音の学臭さをただよわせぬさわやかな歌い方であった。関西フォークの歌い手はたいてい自作自演し、ギター1本で歌っていたから赤い鳥は異色のグループだった。ハーモニーだけならダークダックスやデュークエイセスなどのコーラスグループもいたが、彼らは音の学臭さをただよわせ、奇麗事めいたよそよそしさを感じさせたからその点で赤い鳥は異色だった。

 第3に、赤い鳥は
グループなりの主張を持っていたことである。このグループの名の元になった「赤い鳥」は大正時代の童話文学運動から得たものだという。初期のヒット曲『竹田の子守唄』は日本の民謡だし、そこには彼らの社会や日常に対する視座があったと思う。

 第4は、先ほどから繰り返しているように、若者だけに固執しない開放性をもって活動していたことやフォークにこだわらぬ音楽性を有していたことだ。

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(2)子守唄雑考

 彼らのヒット曲で僕が気に入っているのは4つある。わけても気に入っているのは『紙風船』(黒田三郎作詞・後藤悦治郎作曲)だが、そしてこの詩は僕を「荒地」の詩人である黒田三郎へ向かわせたのだが、これについては別に書く【この章の(4)を参照】。あとの3つは、『竹田の子守唄』、『河』それに『旅』である。 

 僕は民謡というものを好まない。民謡歌手と呼ばれる歌い手が歌うといやな響きを感ずる。声楽家が歌うともっとつまらなく響く。民謡は地域と密着したもののはずである。それを標準語で歌おうとする自体が無理なのにあえてそうしたがるのも不自然ではないか。それなのに僕は赤い鳥の『竹田の子守唄』になんとなくひかれる。民謡のすべてではなく、子守唄なら赤い鳥に限らず僕は興味を持つ。五木寛之のエッセイで知った松永伍一という詩人の子守唄の解説なども気に入っている。
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●竹田の子守唄

 それはともかく、親元から離れ、同年齢の社会人に囲まれて学生生活を過ごした(親戚の家の社宅に居候をしていた)僕は、仲間のいない寂しさも加わって次のフレーズを口ずさんだものだった。

       はよもゆきたや この在所こえて
       向こうに見えるは 親のうち 


 大学の図書館から夕陽に赤く染まる、顔だけかすかに出した富士山を眺めるたびにふるさとを思い出したものだった。なかばゴリ押しで東京へ出てきたものの、その点で子守の環境とはズレがあるが、このフレーズにある心情は似ていた。「竹田の子守唄」の詩のベースは次のフレーズにあるのだが、僕はやはり上記の部分に思い出が多い。

       盆がきたとて なにうれしかろ
       かたびらはなし おびはなし
 ♪

 学生時代には住井すゑの小説『橋のない川』をきっかけにして「部落問題」などを知ったのだが、この『竹田の子守唄』はそれとからみあって印象づいているのかもしれない。子守唄には庶民の悲哀が伴うものの、そこには人間としての心情があふれていて僕は無視できないのだ。

【追記】『竹田の子守唄』は、民放連が1959年に発足させた「要注意歌謡曲指定制度」により自主的な放送規制の対象となっていたそうです。「在所」という言葉が被差別部落を想定させるというのが理由であったようです。この点についての詳しいことは森達也著『放送禁止歌』(解放出版社・2000年、光文社知識の森文庫・2003年)を読むようおすすめします。ちなみに、第5章であげた関西フォークの歌い手の曲はほとんどこの規制に該当しています。

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(3)河と旅

 次に、『河』は新井奎子作詞・山本俊彦作曲である。作曲は赤い鳥のメンバーだった。

       河よ 私を流しておくれ
       河よ 満つることのない海へ
       おまえは流してくれる
       罪もけがれも
       おまえは洗ってくれるだろう
       生きることのせつなさを
           (中略)
       おまえは聞いてくれる
       この世のはかなさも
       おまえは知っているだろう
       海は神のもんなるを 


 川と河の区分を僕は詳しくは知らない。だが、狩野川の河口の町で育った僕は、海と結びつき、船も行き交う幅の広い部分を河と呼ぶのだと思う。つまり、川の一部が河なのだろう。ちょっとの間、山歩きをした僕はそう思う。河川の汚れが社会問題にされだしたのも僕が高校から大学のころであった。それはともかく、河という1本の大きな流れと、「満つることのない海」とを結びつけ、
人生に対する絶対性への願望を唄ったものとだと僕は感ずる。詩の内容はともかく、この唄は赤い鳥のハーモニーのずば抜けたものだった。

 第3の『旅』は、学生のころよりも
社会人になってから多く口ずさんだものである。この唄は、僕の自己弁護や自己欺瞞(ぎまん)の道具となり、僕らのコマーシャルソングだった。掟に反して、社会人になってから好き勝手なことにのめり始めた僕の意気がりも反映していたはずである。

       旅に出よか あてのないまま
       キラキラ光る 夕陽を目指し
       旅にでよか きままな旅に
       僕のお供は古ぼけたギター
       今では遠く心のかなたで
       今にも消えてなくなりそうな
       夢をさがして ♪


 作詞・作曲の瀬尾一三は赤い鳥のメンバーではなかったが、今でもアレンジャーとして活動している。「夢をさがす」ために旅をするわけではないものの、「今にも消えてなくなりそうな」何かを大切にしたいからだ。もっとも、次第に疲れを感じているのだが・・・。
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(4)黒田三郎の「紙風船」

 学生時代に僕が気に入っていたフォークグループに赤い鳥がいた。大ヒットしたのは『竹田の子守唄』だった。それに劣らずヒットし、僕がたびたび口ずさんだのは『紙風船』だった。赤い鳥はもとの詩を一部変更していたが、ここではもとの詩について印象を残したい(全文引用)。

        落ちて来たら
        今度は
        もっと高く
        もっともっと高く
        何度でも
        打ち上げよう

        美しい
        願いごとのように

            (黒田三郎「紙風船」・詩集『もっと高く』所収)

 この詩は黒田三郎の作品である。最後のフレーズを想い出すたびに僕はいつも戸惑う。いったい「美しい願いごと」なんて僕にあったのだろうかとか、現実に立ち向かうには「美しい願いごと」の1つも持たなきゃならんのかとそのたびに考えてしまうのである。が、そんなものを持ち合わせていないのに気づくたび、やけっぱちになって「どうとでもなれ!」と叫ぶ始末だ。自分がのめっていることを言葉にできないもどかしさとそれを言葉にして笑われる虚しさの混じった感情がつきまとう。

 最後のフレーズを欠いていたら、この詩は教訓だらけである。七転び八起きを唄うだけになる。「落ちる」ことに慣れきってしまっても、やはり「打ち上げ」たくなるときが僕にある。いつもは忘れているが、気の滅入ったときの浄化剤めいたものを僕はこの詩に感じる。

【追記】黒田三郎の詩についてはこのノートに限らず多くの印象を私は記録しています。昔作った『閉め忘れた窓』という詩の真似事もこの詩人のパクリです。親しんだために似てしまうのも怖いものです。

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