ユーレイの妻


 ドンドンとドアが強く叩かれる音で目が覚めました。居間、といってもふた部屋しかないアパートの六畳間なのですが、その真ん中に置かれたちゃぶ台の上に、いつしか突っ伏して寝ていたようです。普段は暗く感じられる蛍光灯をやけに眩しく思いました。目の前にはまだ手のつけられていない料理が寂しそうに並び、周囲の空気が冷えているのを感じて、テレビの上の壁に掛けられた時計を見ると、もう十一時近くを指しています。少し前までは暑かったのに、季節は行きつ戻りつしながらも確実に進んでいることを思いました。

 ドンドンとまたドアを叩く音がしました。「武」と私はドアの外にいる人間に声をかけました。しかし、応えはなく、再びドンドンとドアは叩かれました。私はちょっと声を荒げてまた「武」とドアの外にいる人間に呼びかけました。しかし、応えはありません。いやな胸騒ぎがしました。夫に何かあったのではないかと思いました。
 「どちら様でしょうか?」私はドア越しに声をかけました。しかし、応えはなく、またドンドン。さらに声を大きくして
 「どちら様ですか?」と言うと
 「夜分にすいません。小谷野さんのお宅はこちらでしょうか?」夫とは全く違う、聞き取りづらい低くて太い声でした。
 「そうですが」と私が返しますと
 「奥さん?奥さんですよね。私、ご主人が勤めているA新聞販売店の所長をやっている川上というものですが、ご主人いますか?」と慌てているような調子の声が戻って来ました。
 「いいえ、夫はまだ帰って来ていませんが…」私の胸には不安が夏の積乱雲のようにもくもくと湧き上がっていました。夫がこの時間まで家に帰ってきていないということは、彼が今の仕事に就いて初めてのことでした。それに勤め先の所長さんがこんな遅い時間に訪ねてくるなんて、それも、かなり慌てた様子で…。心臓の鼓動が速く、そして強くなりました。

 「奥さん?奥さんですよね?ドアを開けてくれませんか?これじゃー話ができない」
ドアを開けると、そこには五十代半ばくらいの小太りで頭髪の薄くなった男性が厳つい顔をしていました。ウグイス色のジャンパーに灰色のスラックスが背景の闇に溶け込んで、大きな顔と広い額が室内からの蛍光灯を受けて浮かんでいるように存在していました。
 「先ほど申しましたが、こういう者です」と男性は名刺を私の方に差し出しました。そこには、A新聞E販売店所長川上源一と書かれていました。
 「いつも、小谷野がお世話になっています」と挨拶をすると、所長さんの顔はさらに厳しくなりました。
 「奥さん、疑うわけじゃないけど、本当に小谷野君、帰っていませんか?」と部屋の奥を覗き込むような仕草を見せました。
 「本当に、まだ、帰っていませんが…。何か会社の方であったんですか?」
 「連絡もありませんか?」所長さんは私の質問に答えず、私を睨み、疑り深い目をして言いました。
 「ありません。何かあったのですか?」再度、私は訊きましたが、所長さんはそれにも答えず、
 「もうこんな時間ですが、上にあげてもらっていいですか?ちょっと話をさせてもらわないといけないと思いますのでね」と靴を脱ぎかかりました。
 「ちょっと、待ってください。一体何があったんですか?」
 「奥さん、本当に何も知らないんですか?」
 「私が何を知っているというんですか?なぜ、夫はまだ帰って来ないんですか?まさか事故にでも…」そこまで言うと、私は自分の言葉で気が遠くなりかかりました。
 「ふん、事故の方がまだましだったかもしれませんね。奥さん、本当に何も知りませんか?あなたのお主人は新聞の集金を持ち逃げしたんですよ」所長さんは吐き捨てるように言いました。
 「集金を持ち逃げ?そんなバカな。嘘です。絶対、何かの間違いです」私は大声をあげてしまいました。私の金切り声に所長さんは少し慌てたようでした。
 「まあ、まあ、そんな声を出して。ご近所に丸聞こえですよ。落ち着いて、奥さん」
 「落ち着いてって言われても、落ち着いてなんていられませんよ。夫が集金を持ち逃げしたなんて…。そんなこと信じられますか」
 「落ち着いて話しましょう。ちょっと上げてください」

 「部屋を片付けますのでちょっと待ってください」
 私はちゃぶ台の上に取り残された脂肪分が白く固まってしまった生姜焼きや元気のなくなったサラダ、空のままで寂しいお椀などを台所に片づけてから所長さんを玄関に入れました。所長さんは靴を脱ぐと、台所に上がりました。そして、流し台の横に置かれた手付かずの夕食を見つけると
 「どうやら、本当に帰っていないようですね」とため息をひとつつきました。私は彼を居間に通しました。
 「一体、どういうことなんですか?」詰問調で私は言いました。
 「これから、話をさせてもらいます。その前にお茶をもらえますか?あちこちと動き回っていたのでね。のどが渇いて、ひっついてしまいそうですよ」
 私は所長さんに温めのお茶を出しました。彼はそれを一気に飲み干すと
 「奥さん、温めのお茶を出すなんて気が利きますね」と初めて笑いました。
 「昔、何かで読んだことがあったものですから」
 「太閤記じゃないですか?石田三成の話でしょ。のどの渇いた豊臣秀吉に初めは温いお茶を大きな茶碗いっぱいに入れ、二杯目はふつうの熱さで、三杯目は喉の焼けるような熱いお茶を少量出したという逸話でしょ」
 「はあ、そんなことより、夫の話を」夫が集金を持ち逃げしたなどと、とんでもないことを言っているわりには、のん気な態度の所長さんに私はいらいらしてしまい、強い調子で言いました。 「すいません。歴史が好きなもので、ついね。それじゃー、話をさせてもらいます」所長さんは緩んだ表情を引き締めました。
 「ご主人から聞いて知っているかもしれないけど、うちは二十五日過ぎから、その月の新聞代の集金を始めるんです。夕刊の配達後、パソコンで証券を打ち出して、それを持って顧客を周るわけだけど、え?、証券っていうのは金額とか顧客の住所、氏名などが印刷されていて、領収書とその控えにあたる半券が一体になっているものですけど、今日はちょっとがんばりますからって多目に打ち出して六時半くらいに店を出たまま、どろんですよ。携帯も電源を切っているようで繋がりゃしない」
 「ちょっと待ってください。それだけで夫がそのお金を持ち逃げしたとは言えないでしょ」私はカッとなり、強い口調で所長さんに詰め寄りました。
 「奥さん、あなた見かけに寄らず、気が強いね。まあ、そんなことはどうでもいい。いいですか、奥さん。私だって子供じゃないんだ。ちゃんとやるべきことはやってますよ。確かに集金で遅くなるということはあります。金払いのいい客ばかりじゃないもんでね。夜討ち朝駆け、当たり前ですよ。だけど、奴がパソコンから打ち出した顧客は比較的高級な住宅街でね、そんな面倒臭いのはいないところなんだ。それに、金払いが悪い客にだっていきなり夜討ち朝駆けはしませんよ。電話連絡で一応アポを取ろうとしますよ。それさえできない場合は仕方ないけどね。すいません、またお茶もらえますか?」
 私はまた所長さんにまた温いお茶を出しました。

 「石田三成は二杯目には普通の熱さのお茶を出したもんだけどね」
 「長いお話でのどが渇いたのじゃないかと思ったものですから」皮肉っぽく、私は言いました。
 「やっぱり奥さん、気強いね。いや、そんなことはどうでもいいんだ。普通なら八時くらい、遅くても十時までには戻ってくるもんだけど、いつまで待っても帰って来ないし、携帯も繋がらないし、私も心配になりましてね。いえ、事故にでもあったのじゃないかとね。それで管内の警察に問い合わせてみたりしたんだけど、今夜はそういった年頃の男性の事故の報告は入っていないっていうし、他の従業員と手分けしてご主人が周った区域を探したんです。そしたら、集金に使ったオートバイが四丁目のめぐみ教会のわきに乗り捨ててあったのを店の者が見つけたというわけです。これは、やられたと思いましたよ」
 私は腹が立って来ました。それと同時に居ても立っていられないような不安に襲われました。その黒い塊は目の前にいるこの初老で小太りの男性に向いました。
 「それだけで夫が集金を持ち逃げしたとおっしゃるんですか?他にいろいろな可能性があるんじゃないですか?」
 「間違いないでしょ」自信満々の表情で断定され、私は頭に血が上りました。
 「呆れました。オートバイが乗り捨ててあったといいますけど、本当にそうでしょうか。夫はそこにオートバイを止めて近くを集金しているとき事故に遭い、怖くなった加害者が連れ去ったとか、金目当ての強盗に襲われて拉致されたとか…」そこまで言うと、今度は顔から血の気が引いていくのが自分でもわかりました。寒気に襲われ、私は体を震わせました。所長さんは心配そうな表情をして、私を見ていました。
 「まあ、まあ、奥さん、ちょっと大丈夫かい?よく考えてみてくださいよ。ご主人は体重何キロあります。八十キロはゆうにあるんじゃないですか?彼を車に運び入れるなんて、普通の男の力だったら、ひとりじゃ無理でしょ。ふたりでもきついかもしれない。まして、あの辺りは住宅街だ。車もほとんど走っていないし、もし事故があったとしても物音で付近の住民の誰かは気がつきますよ。まあ、明日、明るくなったら念のため付近を調べてみますがね。強盗も同じじゃないですか。あんな住宅街の真ん中で強盗があったら、周りはもう大騒ぎでしょうよ。それに、強盗が拉致したなんて。金目当ての強盗が、何で襲った相手を拉致するんです。そもそも、あんな大男、拉致できますか?」
 「でも、夫には集金を持ち逃げする動機がありません」
 「それは奥さんが知らないだけですよ。まあ、こういう場合だいたい相場は決まっていてね、酒か、女か、ギャンブルで借金というパターンでしょ。ご主人は酒はやらなかったから、女か、ギャンブルでしょう。奥さん、何か心当たりあるんじゃない?」
 「そんなものありません」と断言したものの、だんだんと迷路に落ち込んでいくような気がしました。私の知らない夫の別の顔、そんなものが存在するとは思えませんでした。しかし、そう思う一方、私は何所まで夫のことを知っていたのだろうと自信が揺らぎ始めたのです。

 「ご主人は競馬が好きでしたね」
 「競馬はやっていましたけど、それはあくまでも小遣いの範囲です」
 「それは奥さんがそう思っているだけじゃないの?実はのめり込んでいて、闇金から借りていたかもしれませんよ。闇金なんていうのはね、奥さん、五万円借りただけで破滅ですよ。奴ら、金利で飯食ってますから。できれば返してほしくないんですよ。長々と借りさせて、その間に金利で稼ごうとするんだ。その金利も酷いですからね。気づいたときには、もう首が回らなくなっているっていうわけです」
 「それで持ち逃げですか?」
 「たぶん、彼も奥さんには迷惑をかけたくなかったんじゃないですかね。持ち逃げした金で借金をチャラにして、トンズラというわけでしょ」
 「そんなの嘘です」私にはどうしても夫がそのようなことをするとは思えませんでした。悩んでいる様子なども全くなかったのですし、だいいち夫に闇金融から借金してまでギャンブルにつぎ込むだけの度胸があるとは思えません。それに最近は機嫌がいいというか、何処か浮き立っているような様子さえありました。
 「もちろん、あくまでも仮定の話ですよ。実際はどうかわかりません。まあ、ここにこうしていても仕方ない。もう十二時近いし、今日のところは帰ります。もし、ご主人から連絡があったら知らせてくださいよ。そう、そう、私は警察に被害届を出すつもりはありません。それほど大した額でもなさそうだし、ご主人もまだ若いからね。前科者になったら後々大変だからね」

 厳つい顔をしたこの所長さんは、それほど悪い人…、いえ、いえ、意外といい人なのかもしれないと思いました。考えてみれば、大手の電気会社を辞めてしまい再就職もままならなかった夫を拾ってくれた人なのですから。だけど、彼の言葉はどうしても信じることができませんでした。
「私は夫を信じています。もし、今夜中に連絡がつかなかったときは、捜索願を警察に出すつもりです」
 「そうだね、それがいいかもしれないね。捜索願を出す時には顔写真が必要になりますから、最近のご主人に一番近いものを予め用意されていた方がいいでしょう。それじゃー、私は帰りますよ」と所長さんはすっかり冷えてしまったお茶の残りをぐいっと飲みました。

 所長さんが帰ってから、まず夫の携帯にかけてみましたが、所長さんの言われたように電源が切られているようで繋がりません。何か手掛かりでもと思い、夫の机や箪笥などを調べてみました。
机の引き出しにあった預金通帳には、キャッシュカードを使って記帳していない可能性はありますが、ここ数日中にお金を下した記録はありませんでした。しかし、夫の下着やTシャツなど衣類で見当たらない物が数枚、それに一番のお気に入りだったダークグレーのスーツの上下がなくなっているのに気がつきました。一体いつ持ち出したのか、いえ、何の目的で…。目の前が暗くなっていくようでした。やっぱり夫は…。

 しかし、どうしても夫が集金を持ち逃げしたとは思えないのです。持ち逃げする理由がありません。大きな外見とは違い小心なあの人がそんな大それたことをするとはどうしても考えられません。だけど…、いや、いや、きっと何かの間違い、明日になれば笑い話で済むはず。でも、事故にでもあっていたなら…。結局、その夜は一睡もできず、朝になっていました。(2007.6.24)


―つづく―

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