１

　朝が来た。寝床から起きて窓を開けたら、雨が降っていた。そんなに強くないけど、小雨だけど降っていた。窓を閉めてまたふとんをかぶったけど、今日は出掛けないといけないんだった。このまま少なくても午前中はトロトロと眠っていたい。ふとんの中で覚醒と睡眠の境をさ迷っている状態は快感以外の何物でもない。だけど…、やっぱり出掛けよう、一応仕事みたいなもんだから。

　出掛ける先は職業安定所、通称職安だ。失業保険をもらっている者は四週間に二回以上の求職活動の実績というのが必要になる。求職活動の実績はいろいろと定義されているけど、その中で一番楽なのが職安の求職用の検索機で求人情報を閲覧することだ。それを四週間の間に二日職安に通ってすればいい。そうすればとりあえず一ヶ月何とか暮らせるくらいの金がもらえる。僕の場合は日給六千七百五十九円、だから月三十日として二十万二千七百七十円になる。日曜でも祭日でも関係なく出るところがうれしい。

　僕の失業の認定日は明後日。だけどまだ一回しか求職活動をしていない。明日でも大丈夫だけど、急病にでもなったら困るし、今日のうちに済ましておこうと昨日の夜に思った。だけど、朝起きたら雨だし、何か体はだるいしで気分が乗らない。まあ、それはいつものことだけど。

　高校生の時に肺炎になりかかって入院したことがる。病院に入院なんて自由はないし、閉じ込められているわけだから早く退院したいと普通だったら思うだろう。だけど、その時僕はずっと一生このままベッドに寝ていたいと思った。親切でまあまあ可愛い看護婦さん達に囲まれて、そんなにおいしくはないけど食事の心配もないし。一日中マンガを読んでいてもいいし、ラジオを聴いていてもいい。外のくだらない世界と訣別できるし、天国のようなところだと思った。今の僕の精神状態もそれに近いかもしれない。

　とにかく明日何かあったら困る。僕はのそのそとふとんから這い出た。雨が降っているから職安までは徒歩で行かないといけない。電車を使えばいいんだろうけど、電車賃がもったいないような気がするし、職安はそれほど駅に近い場所にあるわけでもないのであまり便利でもない。普段は自転車を使っていて、それだと十五分くらいで行ってしまうけど、歩きだと三十分はゆうにかかる。あまり食欲はないけど、とりあえず何か食べていかないと行き倒れになるかもしれない。カップにティーバッグとお湯を注いで紅茶を入れ、昨日安売りしていたグレープフルーツを半分に切り、それを朝食にした。

　四週間で二回職安の検索機を使うだけで一ヶ月分のお金がもらえるなんて、いい身分だなんて思う人がいるかもしれない。確かにそれはそうなんだけど、いつまでももらえるわけじゃない。僕の場合は百五十日間。十年も会社員をやっていた恩賞というわけだ。それもあと五十日を切ってしまった。その間に何か仕事を見つけないと完全に無収入になってしまうわけだ。そろそろ本気になって仕事を探す仕事をしないといけない。

　朝食をとり終え、顔を洗ってから職安に向かった。雨は起きたときに比べると強くなったようで傘を叩く音が結構激しい。部屋に戻って、またふとんに包まりたくなったけど、そんなことではいけないと自分で自分に言い聞かせ、雨の中を黙々と歩いた。履き潰れたスニーカーは雨に弱く、すぐに水が入ってきて、靴下を濡らしてしまい、ほんとに不快な気分にさせる。このままだと職安に着くまでに、足の裏全部に水が周るだろうなと思いながら歩いた。

　途中いろいろな光景が見られる。おかあさんが子供を自転車に乗せて保育園に向かっている姿が多かった。この雨の中、カッパを着て、そして子供にもカッパを着せて自転車で疾走する姿は逞しいと感心してしまう。サラリーマンやOLが黙々と会社に向かって歩いている。通勤の風景を見ると寒気がしてしまう。背広にネクタイ、どうでもいいような会話…　みんなうんざりだ。

　職安に着くと受付に雇用保険受給者証を出し、その裏面にハンコを押してもらう。確かに検索機で閲覧しましたという証明のためだ。この時にいつも僕は小学校の夏休みに通った学校のプールのことを思い出してしまう。

　小学生の時、夏休みの課題として学校のプールに決められた回数通わないといけないことになっていた。プールが好きなら何でもない課題なんだろうけど、僕は泳げないのでプールが大嫌いだった。だから、そんなものに通いたくもなかった。だけど、課題だから仕方ない。僕は一計を考えた。プールに通ったという証明としてカードにハンコを押してもらうのだけど、それはプールに入る前に行なわれていた。だから、カードにハンコを押してもらった後、プールに入らず、人知れず姿を消して帰ってしまおうと思ったのだ。カードにハンコを押すのは後々の効率を考えてか着替える前に行なわれていたので、僕はハンコを押してもらうとトイレに行くふりをしてそのまま家に帰った。そして、それはうまくいった。そのことを思い出して、ちょっと甘酸っぱい気分になってしまう。

　ハンコを押してもらうと、閲覧する検索機の番号をもらう。この日は二番だった。今まで月曜日の朝は空いていることが多かったけど、何故か今日は混んでいて検索機が空くまで十分近く待たされた。待たされている間、小学生の夏に通ったプールの時のように帰ってしまおうかとも思ったが、さすがにそれは止めた。

　二番の検索機に座り、年齢、性別、希望する職種などを指定してそれにあった求人を閲覧したが、十分も経たない間にイヤになってきてしまった。やっぱり今日は気分が乗らないようだ。いつもは気分が乗らなくても検索機で閲覧している間に結構夢中になっていたりするんだけど、今日はダメだ。帰ろうと思った。

　天気がいい日は帰りちょっと遠回りをする。今日は雨だけど、ついその癖が出てしまい、気づいたら遠回りコースを歩いていた。引き返そうかと思ったけど、それも面倒臭いし、このまま歩くことにした。梅雨のこの時期当たり前の光景だけど、ずっと雨が降り続いている。今日一日、こうなんだろうか？靴の中の浸水は酷くなってきた。靴下が濡れると水分によって生地が固くなって、足がすれたり、まめができたりする。

　このまま家まで歩き続けるのは、ちょっと大変だなと思った。あまり電車は使いたくないけど仕方ない。僕は近くを走っている私鉄の駅に向かった。この駅からうちの最寄駅までは二区間しかない。もったいないなぁ〜と思ったけど、考えてみれば電車賃百十円だ。そんな小額のお金でも使うのが気が引けるとは、無職が板についてきているのかな。僕もせこい男になってしまった。

　家に帰って来て時計を見るとまだ十時半だ。何のために職安に行ったんだろう？失業手当をもらうため、確かに求職活動をしましたという証明になるハンコを押してもらうだけだったんだ。何かすべてが演技のような気がしてくる。ほんとのことは何もない。だけど必要な演技もあると自分に言い訳した。そうしないと自分で自分がイヤになってくる。 どうしようか？またふとんに包まってお昼くらいまでウダウダしていようかと濡れて気持ち悪くなった靴下を脱ぎながら考えた。ちょっとは有意義なことをしようと思い、久しぶりにふとんを押入れにしまい、部屋に掃除機をかけることにした。

　部屋に掃除機をかけて、床に散らかっているものを整理したら、とても気持ちよくなった。もし、今日が晴れていて窓でも開けたら僕はとてもさわやかな気分になっていただろう。あまりに気持ちがよかったので、きれいになった床の上に大の字になって寝転んだ。天井がいつもより高く感じる。それにしても気持ちいい…。