津軽旅行記


4

 弘前9時24分発の五能線に乗った。五能線は今回の旅の一番の愉しみであった。列車に乗り込むと、やはり人気の路線だけに、それほど人数は多くはないのだけど、どのボックス席も誰かが座っているという状態だった。僕たちは中年の女性が座っている真向かいの席に座った。僕たちの真横のボックス席には、若い男女が座り、ガイドを見ながら旅の計画を立てていた。

 川辺駅で、団体客が乗って来て、列車内はほぼ満員の状態になってしまった。彼らは当然一所に固まって座れるはずもなく、空いている席に分散したのだが、それがいけなかった。席を越えて、声が飛び交い、旅情も何もない。団体客は正に暴力である。

 僕たちの座っていたボックス席は3つが埋まっていたため、空いていた通路側に席にひとり初老の女性が座ったが、幸いにして大人しい人だった。災難だったのは、隣のアベックである。その前に座った中年の女性は打って変わって話好きの人らしく、青森のねぶた、弘前のねぷた、秋田の竿灯祭りなどの話を彼らにしていた。彼女の話からすると、団体客ではなく、個人で旅行している人のようだった。

 それぞれの祭の掛け声の違いなどを話しているうちは、まだよかったが、そのうち自身の家族などの話を始め、アベックが明らかに退屈しているのがわかった。男の方はそれでも話を合わせ、所々で笑い、相槌を打ったりしていたが、女の方は車窓の方に顔を向けたまま、ぼんやりと風景を観ていた。

 彼女が五所川原で降りた時、ほっとする雰囲気が感じられた。旅先で見知らぬ人と言葉を交わすのは、楽しいことである。しかし、話題には気をつけないといけない。見知らぬ身内の話をされても、‘はあ’とか‘そうですか’くらいしか返す言葉はなく、途方に暮れるばかりになってしまう。まして、‘困っちゃうわ’などと言いながら、そういった話は往々にして息子や娘の自慢話であるのだから、どうしようもない。

 アベックは鯵ケ沢で降りたが、団体客はどうも深浦まで行く雰囲気である。景勝地である千畳敷を過ぎ、列車は海沿いを走る。奇岩、絶景のポイントでは車内アナウンスが入り、列車は幾分か速度を落とす。団体客は一斉に海沿いの車窓側に移動し、僕たちも遠慮がちにその背後から車窓を覗くと、青く透き通った海と茶褐色をした岩との対比の美しい風景が見えた。

 深浦で次の列車まで1時間40分の時間があったので、昼食をとり、付近を散策することにした。駅近くには回転すしの店と焼肉屋があったので、焼肉の方に入った。ちょうどランチをやっていたので、妻とそれを注文した。カルビ丼は安くて、美味しかった。その店にはアイスがあり、妻はまた食べたがったが、また帰りにでもということで、店を出て大岩海岸に向かった。

 国道を少し歩くと、正に名前の通り、海から大岩が付き出ており、遊歩道で歩けるようになっていた。国道から海岸に降りると、神社があり、大岩に繋がる遊歩道では、親子連れが海に入って、貝などを獲っていた。遊歩道は大岩まで続いていて、岩はくり抜かれ、階段でその上に登ることができるようになっていた。それにしても、何という海の美しさだろう。コバルトブルーとでもいうのだろうか、透明感があり、あるところでは緑がかっていたり、またあるころでは深いブルーだったりと、所々で微妙に色合いに差があり、いつまで観ていても飽きない。

 大岩の上で海を見つめたり、写真を撮ったりしているうちに、列車の発車時刻が迫り、僕と妻は国道を早足で駅まで戻ることになってしまい、結局、アイスはまたお預けとなってしまった。

 ウェスパ椿山、十二湖、白神岳登山口と過ぎて行く中で、僕は五能線に関して、思い違いをしていたのかもしれないと思った。僕の五能線に対するイメージはつげ義春の‘ボロ宿考’の中に出てくる空前絶後の八森のボロ宿が強く残っていたためか、貧しくしみじみとした雰囲気だったが、実際に来てみると、海は碧く澄んで美しく、大きな施設があるところもあり、リゾート地に近いものだった。むしろ津軽半島の東海岸の方が、旅情があり、しみじみとした気分になった。ただ、太宰治の‘津軽’には西海岸はせいぜい深浦くらいまでと書かれていたような気がするから、もうこの辺りまでくると津軽とはいわないのかもしれない。

 団体客は、白神岳登山口で降りたため、車内はにわかに空席が増え、やっとしみじみとした気分になることができた。車窓から外を観ると、広場のような場所に運動会で使うようなテントが張られており、何かイベントがあるようだった。

 団体客がいなくなると、1人の女性に目がいくようになった。彼女はまだ20代前半くらいで、一人旅をしているようだった。深浦までも僕たちと同じ列車に乗り、街を歩いている姿を目にした。彼女に目がいくようになったのは、あまりに彼女が個性的だったからである。

 色は白いが、かなり太っていて大きな赤いリュックを背負っていた。下はスカートをはいていて、団体客がいなくなると前のボックス席に足を投げ出したものだから、スカートがめくれ上がって太ももが露わになった。男には全く縁のなさそうな感じだったが、清楚というのではなく、何処か崩れている雰囲気があった。

 終点の東能代に着き、秋田行きの列車まで約1時間の待ち時間があったので、喫茶店でも入って時間を潰そうと思い、街中を歩いたが、喫茶店はおろか飲食店さえ全くなかった。赤いリュックの女性も含めて、僕たちと同じように考え、街中を歩いている乗客を何人か見たが、みんな何も見つけることができず、結局はすごすごと駅の待合室まで戻ることになった。

 僕たちはスーパーに入り、アイスを買ってから、駅まで戻った。そうしたら、他にも数人、アイスを食べている人がいた。16時28分の奥羽本線に乗った。東能代は始発ではなかったため、座ることができなかった。今日は秋田で泊り、竿灯祭りを観るつもりだったが、時刻表を見ていた妻が、それでは明日、家の帰るのが遅くなるからもっと先まで行きたいと言い出した。

 妻から時刻表を受け取り、僕も目で追った。すると、家の最寄駅のある路線の終電に間に合わない可能性がある。終電に間に合わなければ、何駅か歩くか、タクシーを使わなければならなくなる。一昨年観たとはいっても、秋田の竿灯祭りも捨てがたい気がする。いろいろと考えて、結局、秋田では泊らず、もっと先まで行くことにした。

 しかし、秋田を過ぎてしまうと、適当なところがなかなかない。大曲、横手、新庄くらいである。大曲では秋田に近すぎるため、あまり意味はないし、横手は1日目に宿泊したから、どうも気が乗らない。遅くはなるが、新庄まで行くことにした。

 新庄は一昨年に宿泊したので、ホテルとかもだいたいわかっているし、観光地ではないから、週末のビジネスホテルなら、まず大丈夫だろうと思った。秋田から新庄までは2時間40分かかる。ただ、移動のためだけのこの行程は、今回の旅行でもっとも辛いものになった。秋田を出た頃は、それなりに人も乗っていたが、大曲、横手と過ぎて行くうちに、乗客はほとんどいなくなった。座り続けているため、尻と腰が痛くなり、尿意もないのに、トイレまでいって強張った筋肉をほぐそうとしたが、あまり効果はなかった。

 新庄に着いたときは、時計は8時40分を回っていた。観光案内所で宿泊施設の電話番号の載った観光案内図をもらおうと思ったが、すでに閉まっていた。駅舎の外に出て、そういったものが載っている地図を探したが、それもなかった。こうなれば直接行くしかないと思い、以前泊ったことのあるホテルの方向に歩きだしたとき、その広告があるのを見つけた。

 そこにすぐに電話をすると「シングルは満室です」と言われた。二人なんですがといったのだが、仕事関係で来ているものと思われたらしい。「いや、ダブルかツインがいいのですが」というと、部屋は空いているようでどちらにしますというので、料金を訊いたら、ダブルの方が安かったので、そちらにした。

 ホテルでチェックインを済ませ、すぐに食事をしに外に出た。すでに9時近くなっているため、店が開いているか心配だったが、5分ほど歩いたところにラーメン屋があったので入った。店内に客は誰もおらず、僕たちだけで、水槽あり、その中にスッポンが泳いでいた。何故、ラーメン屋にスッポンが?と思ったが、メニューの中にスッポンラーメンというのを見つけて納得した。スッポンラーメンを注文したら、水槽の中のスッポンはどうなるのだろうか?

 僕も妻もスッポンラーメンを注文することはなく、五目ラーメンと広東麺にした。芸能人の色紙も何枚かあるところから、名物店なのかもしれない。実際に、ラーメンは美味しく、あっさりしたスープは、栄養が体に染み渡る感じがして、飲み干してしまった。

 不思議なことに、客がいないにもかかわらず、店の主人はずっと料理を作り続けていた。店を出て、その理由がわかった。近くにある飲み屋のホステスが、裏口から肉野菜炒め定食などを取りに来ていたのである。夜食を注文していたのだ。恐らく、いつものことなのだろう。新庄の夜は、静かに更けて行く。(2010.10.3)

―つづく―


TOP INDEX BACK NEXT