旅行最終日、8時56分の奥羽本線で帰路についた。この日は、ふたりの無賃乗車の若者を見た。ふたりとも男性で、ひとりはひとつ前のボックス席、もうひとりは僕たちの目の前に座った人だった。 新庄を出発して3つ、4つ駅を過ぎた辺りで、車掌がやってきて、僕たちのひとつ前のボックス席に座っていた若い男性に、乗車券を見せてほしいといった。年は十代後半から、せいぜい二十一、二くらいで、長髪の人だった。彼の声は小さく、何を言っているのか僕には聞こえなかったが、車掌が大声で決めつけていたので、だいたいの様子がわかったのである。 乗車券を見せてほしいと言われた男性は、切符は捨てたと言ったようだった。それを聞いて車掌は「切符を捨てるなんて、おかしいじゃないか。何度も行ったり、来たりして、前から見ていて、気になっていたんだよ。どういうつもりなんだ?え!ちょっと君、おかしいんじゃないか?」と声を荒げていった。二回目の‘おかしいんじゃないか’という言葉は、彼の行為に対してではなく、彼自身に対してのものだった。最早、客に対する言葉遣いではなかった。どうも、どういう意図があったのかはわからないが、その若者は、列車に乗って何度も新庄−山形間を行ったり来たりしていたらしい。 「とりあえず新庄−山形の料金を払ってもらうからな。もっと厳しくしたっていいんだけど、まだ若いし、可哀想だからな」と車掌はいい、新庄−山形間の料金を告げたが、彼は金がないといったようで、「おい、ほんとか?財布、見せてもらうぞ」といい、財布を開けさせて中身を確認したが、ほんとにお金はなかったようで、「おい、君、ほんとにおかしいんじゃないか?どうするつもりだったんだ?」とさらに語気を強めて彼にいった。結局、彼は途中の駅で下ろされ、駅員に引き渡された。 二人目は、山形発、米沢行きの奥羽線で僕たちの真向かいに座った若い男性だった。やはり10代後半くらいで、荷物はボストンバッグひとつだけだった。どの辺りかはよく覚えていないが、車掌の検札があり、それで見つかったのだ。「切符を拝見します」と車掌に言われ、彼は180円切符を出した。当然、乗り越しになるので、車掌は「何処まで行きますか?」と彼に訊くと、「横浜まで」と意外な答えが返ってきた。 どうも横浜までの清算は車内ではできないようで、とりあえず米沢までの清算をすることになったが、その金額を告げると、彼はそんなお金は持っていないといった。車掌は、財布を見せてもらっていいかと訊き、彼が財布を出し中身を見せると、確かに千円札が一枚しか入っていない。 「これではとても横浜までは行けませんよ。どうするつもりだったの?」と訊くと、「横浜に親が住んでいるから、駅に着いたら電話をかけて、お金を持って来てもらうつもりでした。‘ツケ’で電車に乗ってはいけないんですか?」と言い出した。さすがに車掌もこれには呆れたようで、「‘ツケ’では電車は乗れないんですよ。まずお金を払ってから乗るものなのです」などと懇々と説教をしていたが、今ひとつ彼には通じていないようだった。 どう決着をつけるのだろうと思っていたら、車掌は彼の財布の中に銀行のキャッシュカードの入っているのを見つけ、「これで現金を引き出して、お支払いいただいてもいいですか?」と訊き、彼は了承した。そうこうしているうちに列車は米沢に近づき、車掌は電車を降りたら、ドアのところで待っていてくださいと言い残し、車掌室に戻って行った。僕は彼が逃げてしまうのではないかと思ったが、ただものを知らないだけで悪い人間ではなかったらしく、自分から車掌の方へ歩いて行った。 ここで意外だったのは妻の態度だった。妻は僕以上に、彼の逃げるのを心配していたようで、彼が車掌のところに行きつくまで、その場に立ち止まって目で追っていた。実は先日、岐阜県に住む妻の知り合いのペルー人が、祭の会場にいたスリを捕まえ、警察から感謝状をもらった。妻が言うには、ペルーは泥棒ばかりだから、そういったことは日常茶飯事で、怪しい人を見分けるのに慣れているという。妻の知り合いのペルー人は、怪しい動きをしている人間を見つけ、その周囲にいた人たちに何かなくなった物はないかと訊いて周り、財布のなくなった若者がいたので、スリを追いかけ捕まえたそうである。泥棒に会わない日本人より、泥棒の被害を受けているペルー人の方が、犯罪には遥かに敏感で、妻も周囲の人間に対する警戒感というか、関心は僕よりもよっぽど高いようだ。 米沢にはちょうど昼時に着いた。福島行きの列車の発車時刻まで、約1時間あったので、昼食をとりに街を歩いた。米沢といえばやはりラーメンである。以前に食べたところではなく別の店にしようと、適当に入ってみたら満員で、結局、以前に入った店でワンタンメンを食べた。その後、時間まで街中を散策し、お土産を買ったりした。 米沢発福島行の列車の本数は少なく、一日六本しかない。そのうちの13時10分発に乗り、米沢を後にした。もうこれ以降、何処も立ち寄るところはない。列車が東京に近づいて行くにつれ、建物が増え、人が増え、緑が少なくなり、空が小さくなり、息苦しくなっていくと同時に、安堵感が広がる。子供のときから、ずっとそうだった。なんだかんだいっても、東京は僕の生まれた街である。(2010.10.14)
―終わり― |