翌朝、8時58分の列車で秋田へ向けて出発した。前日、どうしようかといろいろと迷ったが、弘前まで行き、そこで宿をとり、日中は市内観光、夜は青森まで行ってねぶた祭を見ようということになった。次のことを考えると、青森に泊った方が都合はいいのだが、ねぶた祭の最中だし、宿のとれない可能性もあり、弘前泊ということにしたのである。 秋田から奥羽本線に乗り、大館に着いたのは12時少し前だった。大館から弘前行きの列車が出るまでは一時間あり、ちょうど昼時ということもあり、大館市街で昼食をとることにした。確か2年前の旅行の時も同じ状況になり、駅前にある比内地鶏を使った鶏飯屋に入ったのであるが、今回もそうしようと店に行くと、団体客が入るので…ということで断られてしまった。旅先で出くわす団体客というのは、台風である。こちらの旅情や予定などを、一気に吹き飛ばしてしまう。 他にこれといった食事処もあるわけではなく、併設されている弁当屋で鶏飯弁当を買い、駅の待合室で食べていたら、同じ列車に乗っていた若い女性の2人組も僕たちと同じ目にあったようで、同じ弁当を下げてやってきた。 彼女たちはいっしょに旅行しているというのに、それぞれipodのイヤホンを耳に入れたままで、携帯やゲームに熱中し、車内で全く会話をしていなかった。待合室に入ってきてからも同様で、一人は耳にipodのイヤホンを入ったまま携帯を見つめているし、もう一人もipodのイヤホンを耳につけたまま、ベンチに腰を下ろすと車内でもやっていたゲームを始めた。これで楽しいのだろうかと他人事ながら心配になった。 弁当を食べ終えた後、まだ時間が30分ほどあったので、街を歩くことにした。前に来た時は、歩かなかった表通りから一本奥に入った裏道に行くと、まるで昭和30〜40年代にタイムスリップしたような街並みがあった。古色蒼然とした看板に、古い家並み、そういったものを見ていると、何ともいえない安堵感を覚え、懐かしい気持ちになった。 大館発13時9分の奥羽本線で、弘前に着いたのは2時少し前だった。迂闊なことに、弘前に着いてから、弘前でもねぷた祭の最中であることを知った。というのも、会社で青森県出身の人が、僕たちの大まかな旅行計画を聞いて「その時期には弘前のねぷたは終わっている」といったのを、真に受けてしまったのである。 これは、弘前でも厳しいなと思ったが、青森よりはましなはずである。駅で外人観光客用に作られた市内観光図をもらい駅前の静かな場所でホテルに電話をしたが、東横インなどの安くて内容のいいところは満室ということで断られてしまった。それに反して料金が一万円を超えるところは、だいたい空いている。 部屋はあまり期待できないが、どうせ寝るだけだしと思い、料金の安そうな屋号のホテルに電話すると大丈夫ということだった。まだ時間は早いが、チェックインできるということだったので、荷物だけ置いて市内を歩くことにした。ホテルは栄えている西口とは反対の東口から、徒歩10分くらいのところにあった。ここもやはり個人経営らしく、玄関で靴を脱いで、館内に入る形式だった。ただ、昨日とは違い、部屋にトイレと浴室が付いていた。 部屋に荷物を置き、とりあえず弘前公園に向かうことにした。夜になったら青森のねぶたを観に行くつもりだったが、弘前でねぷたをやっているのなら、今夜はそれを観て、青森のねぶたは明日の夜にすることにした。 昨日の夜のような湿気はないが、青森までくれば多少は涼しいだろうという期待は見事に裏切られるほどの暑さで、宿の主人も「昨日ほどではありませんが…」と恐縮して僕たちを見送った。 閑散としている東口から、人でいっぱいの西口に行き、弘前公園へ向かった。弘前駅前は昨日の横手とはうって変り、高いビルで埋め尽くされ、都会的だった。青森県では一番都会的な街なのかもしれないと思った。市内観光図を見ると、弘前駅近くだけでも、ホテル、旅館の数は30を超える。 弘前公園のお堀までくると、ねぷた祭の山車が、もうすでにいくつか待機していた。テレビなどで観る青森のねぶたの山車とは違い、平面に貼られた和紙に絵を描いたもので、迫力ではだいぶ見劣りがするようだった。それを横目に見ながら、外濠沿いの道を歩いた。外濠沿いの道にも、いくつもの山車が待機していて、その引き手の人たちがシートに座って、ビールを飲んだり、食事をしたりしていた。暗くなってからが本番なのだろうから、それまで英気を養っているのだろうと思った。 堀沿いの道をぐるっと歩いて追手門から弘前公園に入った。ここは桜の名所としては、日本随一だと思われるが、今、それは葉桜である。公園内は緑が多くて、人も少なく、涼しく感じられた。追手門をくぐるとすぐ左手に木々が植えられ芝生で覆われた広場があったので、そこのベンチに腰かけ、しばらく休憩した。先程までの街の喧騒が嘘のような静けさで、市街地から十数分歩いただけで、このような場所のある弘前市民が羨ましくなった。 さらに公園の奥に歩いて行くと、朱塗りの橋があり、その袂で麦わら帽子をかぶり藍染めの浴衣を着た若い男性が、アイスクリームの屋台の準備をしていた。隣を通り過ぎると「こんにちは!どうですか?」と訊かれたので、軽く会釈をして通り過ぎた。実は弘前公園にくる道すがら、妻がサーティワンを見つけ、帰りに買おうということになっていたのである。 橋を渡って門をくぐると弘前城の天守が見えてきた。再び朱色の橋を渡ると券売所があった。ここから先は有料というわけである。せっかく来たのだからと思い、券を買い、資料館にもなっている天守に入った。すれ違う人はほとんどが中国語を話していた。天守は3階になっていて、武具や古い道具や書状などが展示されていた。中の階段は急で、手すりに捕まらないと怖いくらいである。ここのところ史跡に落書きをする不心得者が多いせいか、各階に警備員が配置されていた。 天守から出て、本丸を歩いた。この本丸からの眺めは見事である。市街を一望でき、遠くには岩木山の雄大なシルエットを観望することができる。下を見下ろせば、大きな池に蓮の花がいっぱい咲いていた。北のはずれにある東屋でしばらくぼんやりとしていた。 本丸を後にし、橋を渡って北の郭を散策した後、弘前公園を後にした。公園の外に出ると、通りは山車でいっぱいになっていた。暗くなってから本番だろうから、それまでに食事をすませておいた方がいいだろうと思い、妻にそれを言おうと後を振り返ると、誰もいない。いつの間にか妻が消えていた。辺りを見回しても、姿は見えない。来た道を戻りながら、妻を探しているうちにポツポツと雨が落ち始め、それはだんだんと激しくなっていった。 慌てて公園の門のところまで戻り、そこに雨宿りをしていると、同じように雨を避けようと2人、3人と人が集まってきた。通り雨のようで、しばらく待っていれば止みそうだが、かなり強く降っている。携帯を取り出し、妻にかけると「どこにいるの?」というから、「門のところにいる」というと、「わたしもその近くにいるけど、見えない」という応えが返ってきた。弘前公園には、いくつも門があるから、違うところにいるのだろうと思いながらも、ちょっと首を伸ばしてみると、雨の中を妻がこちらに向かって歩いてくる。 話を訊くと、ねぷたの山車を近くで見ようと、道路を反対側に渡って見ているうちに、僕が見えなくなってしまったという。どうしても見つからないときは、タクシーでホテルに帰るつもりだったそうだが、ホテルの名前はわかっているのと訊くと、あまりよく覚えていないらしい。ペルー国籍の妻にとっては、確かに覚えにくい名前である。 雨は20分ほどであがり、僕は先程の計画を妻に話した。門を出て歩きはじめると、弘前公園で会った麦わら帽子のアイスクリーム屋さんにまた会った。ねぷた祭に集まる人々が標的のようだ。奇遇なことで、お互い笑みがこぼれた。「どうですか?」とまたアイスを勧められたが、これから夕食だから、その前にアイスを食べるのもどうかと思い、また軽く会釈しただけで通り過ぎてしまった。しかし、通り過ぎると心残りで、「ご飯、食べ終わったら、サーティワンじゃなくて、あの人からアイス買おうよ」というと妻もそれを考えていたらしく、すぐに了承してくれた。 弘前駅近くのイタリア料理の店に入った頃には、辺りはすっかりと暮れていた。祭が始まるのは7時過ぎだろうし、9時くらいまでやっているのだろうから、ゆっくりと食事をしていても間に合う。注文した料理を食べ終えようというとき、ふと、窓から外を見ると、暗い空に嫌な感じの雲が広がっているのが見え、それから5分もしないうちに激しく雨が落ち始めた。 先程と同じ通り雨だろうと思い、食後に出てきたアイスコーヒーをゆっくりと飲んでいたが、雨は一向に止まない。雨の場合、山車にビニール等で被い、祭は決行されるのだろうけど、僕たちには傘がない。一時間近く待ったが雨は止まず、祭は諦めることにした。麦わら帽子のアイスクリーム屋さんのことが心に残る。 雨が小やみになるのを、待って店を出た。ポツポツをいう感じだが、またいつ何時ザーっと来るかわからないので、ホテルに急いで帰った。 ホテルの部屋で明日のことを考えた。まず、龍飛崎まで行ってから青森に戻り、ねぶたを観る予定だが、列車やバスの時間を調べると、青森着は19時52分になってしまう。そうなると、宿をとるのはかなり難しいかもしれない。もっと早く龍飛を立てばいいのだろうが、あまり急ぎたくはなかった。すると妻が「ここにもう一泊すればいいんじゃない?」という。 なるほど、青森でねぶたを観た後、弘前まで戻ってくればいいのだ。青森から弘前は45分くらいである。時刻表を調べると青森発20時26分、それに間に合わなければ21時34分もある。ねぶたを観た後、青森で宿を探すより、よっぽどいい。何より、宿が決まっていれば安心だ。明日の朝にでも訊いてみるかというと、妻は今すぐの方がいいと、フロントまで降りて行った。2年前くらいまででは、考えられない行動力である。 妻は人当たりがよく、誰とでも気さくに話をするが、こと初対面の日本人だけに関しては人見知りをすることがある。それは、本人がうまく日本語を話せないと思っていることで、ついつい遠慮がちになってしまうようだが、最近は言葉に関してまあ何とかなるといった感触を得たようで、積極的になってきた。 しばらくして部屋に戻ってきた妻は「部屋は変わるけど、大丈夫だって」といった。部屋が変わるというのは、どういうことなのだろうと思ったが、よく見るとベッドのひとつは、よく病院なんかで見かける付き添い用の簡易ベッドのような感じで、実際に寝てみると背中にベッドの骨が当たり違和感を覚えた。もともとこの部屋はシングル用なのかもしれず、部屋が変わるということは、正規のツインかダブルの部屋になるのではないかと勝手に思った。(2010.9.5) ―つづく― |