2007 ペルー旅行記


7.クスコそしてマチュピチュ その3

 アルマス広場に着いたときには、辺りは暗くなりかかっていた。Jさんはお土産を見に行きたいというので、僕はひとりベンチに座って待った。しばらく経つと、ひとりの少年が寄って来た。写真を見せて買ってくれないかという。「No」と僕は冷たくいう。すると、また次の写真を出す。僕はまた「No」という。

 日本でいえば小学校5〜6年生というところだろうか。普通だと一回「No」といえば、それで離れていくのだけど、脈があると感じているのか、なかなかしぶとい。あまり邪険にするのも気が引けるし、途方に暮れかかった時、もうひとりの少年がその子を呼んだ。ふたりはそろって駆け出し、広場の反対側にある石段の上で何やら遊び始めた。遊んでいる彼らの姿を見て、何故かほっとした。Jさんも戻り、ホテルの部屋に帰った。少し休憩してから、近くのレストランまで食事に出かけた。

 食事を終え、昨日Jさんが運び込まれた病院に向かった。受付を済ませると医師はすぐにやってきた。昨日と同じように、手の指先にサックのようなものをつけ、血中の酸素濃度を測定した。右、左とも基準値を超え、どうやら健康を取り戻したらしい。明日のマチュピチュ行きもOKになった。

 部屋に戻り、すぐにシャワーを浴び、寝ることにした。明日は6時発の列車に乗らないといけないのだ。30分以上前に駅についておいた方がいいと言われているから、5時過ぎにはホテルを出発しないといけない。ということは4時半起床!ホテルのフロントに「4時半にモーニングコールしてもらえますか?」と頼むと、「一晩中起きているから大丈夫」との応えが返ってきた。

 時間通りの時刻にモーニングコールがあり、半分眠りながら着替えをし、一階の食堂に降りた。パンにバターとジャム、それにオレンジジュースとコーヒーといういつもの朝食だが、朝早いためか食欲が全然ない。辛うじてパン一枚を食べた。

 5時にファニーがタクシーで迎えにきた。駅に向かうタクシーの中に朝の陽光が射し込んでくる。今日もいい天気のようだ。駅に着き、ファニーから列車の往復のチケットと列車の終点アグアス・カリエンテスからマチュピチュまでのバスの往復のチケットをもらった。ホームにはまだ入れないようなので改札のところで待っていると東洋系の顔をした人たちが3人やって来た。ふたりは50代の夫婦のようで、もう一人は若い男性で彼らの子供ようである。どうも日本人のようだ。

 「おはようございます。沖縄の方ですか?」と声をかけられた。彼らは沖縄から来た上原さん夫婦で、子供のように思われた若い男性はブラジルに住んでいる甥っ子だという。彼の案内で南米を旅行中らしい。改札が開き、上原さんたちといっしょに列車に乗り込んだ。偶然にも上原さんと真向いに席だったのだけど、そこにはすでに東洋系の男が座っていた。話している言葉ですぐに中国人だということがわかった。彼らは団体で来ていた。「ここは僕たちの席なんですけど」と日本語で言うと、すぐにどいてくれた。

 上原さんはクスコは二回目だという。以前に来たとき、奥さんは高山病が酷くてずっと寝ていたと言った。マチュピチュも二回目だが、何回来てもいいとうれしそうだ。この列車は標高3400mのクスコから3600mまで上り、そこから標高約2000mのアグアス・カリエンテスまで下っていく。この上る過程で何回も切り返すのだ。つまり進行方向が何回も変わる。そのマチュピチュの麓の街、アグアス・カリエンテスに着くのは9時40分、3時間40分の列車の旅だ。

 車窓から見える風景はレンガを積み重ねたような家だったり、切り立った崖に高く聳える山の厳しいものだったりするけど、川が流れ、田畑があり、日本の田舎に似ていて懐かしさを感じた。といっても、かなりの時間、僕は目を閉じていた。

 始めは上原さんと話したり、車内サービスの朝食をとったりしていたけど、4時起きは堪えた。それは上原さんも同じだったようだ。たまに目を開けると、夫妻は気持ち良さそうに眠っていた。しかし、中国人の団体さんは賑やかだった。中には寝ている人もいたが、よくしゃべり、よく食べ、よく笑っていた。

 10時少し前に列車はアグアス・カリエンテスに着いた。改札を出て、ガイドさんを探した。僕かJさんの名前を書いたカードを持っているとファニーから聞いていた。辺りを見回すと、中年の血色のいいおじさんが僕の名前を書いたカードを持っていた。列車でいっしょだった上原さん一家も、同じツアーだった。全員で10名くらいのグループだった。

 駅からバス乗り場までは民芸品の売り場が続いていた。Jさんによると街の雰囲気は以前とかなり変わったという。新しい宿泊施設の建設もされているし、雰囲気のいいレストランもあった。バスも最新式のもので、ペルーというより、日本でもこれほどきれいなバスに乗った記憶はない。快適そのものである。

 マチュピチュまではつづら折りの道を登っていく。深い谷に木々の緑も深い。空に向かって垂直に伸びる山々は、険しさと神秘性と、そして人を包み込んで守ってくる母性のようなものを感じた。

 ファニーから受け取ったチケットを出し、マチュピチュに入場する。世界各国からたくさんの人たちが来ている。積み重ねられた石垣の果てにワイナピチュがそびえ立っている。マチュピチュというのも本来は山の名前だそうだ。ふと近くに目をやると、階段状になった芝生の上で寝そべっている人たちがいる。うらやましくなる。自分も時を忘れて、心行くまでこの地の上に体を横たえていたいと思った。

 ガイドさんの後についてみんなでぞろぞろと歩く。僕と上原さんがどうしても遅れがちになる。僕は写真を撮るのに夢中になり、上原さんはビデオカメラを回し続けているためだ。ガイドさんはみんないることを確認してから、説明を始めるのでいい迷惑である。僕にはJさんが、上原さんには甥っ子さんが通訳してくれているけど、難しい単語が多いようで日本語に訳すのも一苦労である。

 テレビで見るマチュピチュはすごく、人を圧倒するような雰囲気を持っているように思えた。実際にいっしょに回ったイタリア人の人は、「ローマもすごいと思っていたけど、これを見たらな…。何も言えないよ」とJさんにぽつりと言ったそうである。

 しかし、僕がマチュピチュから感じたのはそういった近寄りがたい凄さではなく、懐かしさだった。芝生に寝転んでいた人たちのように、心が安らいだ。長い旅路の後、やっと我が家に着いたような安らぎ。一日中ずっとここに居たい、何もしなくてもいい、ただああやってごろんと横になって、空を流れる雲を眺め、風の体で感じ、木々や草の匂いを吸い込んで、ただそうしていたい。そんな気持ちになった。

 それにしても日差しが強い。冬だというのが嘘のようで、ノースリーブの人もいればTシャツに短パンという人も多く見かけた。何故、この場所に何の目的で都市を造ったかは謎らしい。だけど、ここにいるとただ単に住みやすかったからではないかという気がしてくる。段々畑で野菜を育て、リャマを放牧して、一年中太陽の恵みがあり、自然に囲まれ喧騒とは程遠い安らぎの世界。

 ツアーは時間的制約が強く、最小限のところだけを見て周ったようだった。居住場所での生活の方法、常に一定量の水が流れるように設計された水路、季節や時刻を知るための天文的な建造物、段々畑のでの農業、石切り場での石の切断方法、12角に切り出された石、そして宗教的な施設…。半日では時間が足りない。

 ツアーは休憩を挿むことなく、2時まで続き終了した。解散となり、あとは自由行動となった。ほとんどの人は昼食をとるためマチュピチュを後にしてアグアス・カリエンテスに向かった。帰りの列車は3時55分発だ。

 「もう、ちょっとここにいない?」と僕はJさんに提案した。もう少しマチュピチュに残り、ツアーで回れなかったところを見て置きたかったし、ずっとここにいたいような気持ちになっていた。Jさんも同じ気持ちだったらしく、ふたりで30分ほど石垣の中をブラブラと歩いた。(2007.12.3)

―つづく―


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