ヒロミの機転で朝5時のフライトは、11時に変更されていた。イキートスからの帰りの便が突然キャンセルになったことはヒロミにも連絡があったそうだ。今、ペルーの国内線はLANという航空会社の寡占状態となっているため、こういったことがあるらしい。「競争がなければダメね」とヒロミは呟いた。 飛行機は定刻より20分くらい遅れてクスコに向けて飛び立った。約1時間の空の旅である。クスコは海抜3400mの地点にあるため、高山病にかかる人が多い。その予防薬をヒロミから渡され、出発前に飲んだ。それが効いたのかどうかわからないが、クスコの空港に降り立ったとき、それほど違和感を覚えなかった。 空港にはヒロミの友達でクスコの観光ガイドをしているファニーの妹さんが迎えに来てくれていた。車で宿泊先のホテルロイヤル・インティに向かった。「着いたらコカ茶を飲んで、最低2時間はベッドで横になって体を慣らしなさい」とヒロミから言われていた。コカ茶はホテルに着きチェックインを済ますとすぐに出てきた。お湯の中にコカの葉が入り、色は紅茶よりかなり薄めの茶色で味はほとんどない。 「お姉さんはもうすぐホテルに来られるはずだから、そうしたらツアーの細かい打ち合わせをしてほしい」と言ってファニーの妹さんはホテルを出て行った。僕たちは部屋に入り、ファニーが来るまでヒロミの言いつけ通りベッドで休むことにした。ベッドに寝ていると足のつま先とか唇の先とかがしびれてくるような感覚がある。これが3400mの高地ということなのかと思ったりした。 ファニーは1時過ぎくらいにホテルにやって来た。ツアーの予定はこの日は午後2時から6時までクスコ市内の観光、明日はバスでクスコ市外の遺跡を巡り、三日目には鉄道でマチュピチュに行くという日程だった。僕は明日と明後日のツアーはいいけど、今日は市内でゆっくりと過ごしたいと思った。まだ昼食も済ましていないし、空気の薄い高地であまり急ぎたくなかったのだ。 しかし、Jさんはせっかくクスコに来たのだから、僕にいろいろと見せたかったようで、ファニーの提示したツアーに参加することにしてしまった。予定の確認をしてツアーの料金を払ったりしていたら、もう1時30分を過ぎてしまった。これからこの不案内の土地で、30分で昼食を済ませてホテルに戻らないといけないと思うと気が滅入ってきた。 僕はやはり今日はゆっくりふたりで街中をぶらぶらした方がいいように思った。そしてそのことをJさんに言って、2時からの市内ツアーをキャンセルしてもらえるようにファニーに電話をしてくれるように頼んだ。Jさんも始めは渋っていたが、やはりイキートスからの強行軍で疲れているようで、ファニーに電話して今日のツアーのキャンセルを伝えた。 インカ帝国の首都だったクスコは古い街並みが残っていて、ただ歩くだけでも楽しい気分になってくる。ただ、高地だから速く歩くというわけにはいかないし、3ブロック以上歩くときにはタクシーと使ってとヒロミに言われていた。確かに歩き続けていると、あのベッドで感じた手や足の指先のしびれのようなものが強くなってくる。 また、胃腸の活動も弱まるので、体が慣れるまでは消化のいいものを少量食べるようにとも忠告された。そこでサンドイッチを食べようということになり、食堂が並んでいる通りに出て、サンドイッチの看板も見つけたのだけど、Jさんはもっといろいろな店を見てから決めようというので、またひとしきり歩くことになってしまった。これがこの後、起こることに影響したのかもしれない。しかし、ちょうど良さそうな店は見つからず、結局、最初に行った通りの中の店に入った。 僕はハムと野菜のサンドイッチをJさんはそれにチーズが入ったものを注文した。出てきたサンドイッチは大きくてお腹いっぱいになりそうだったが、僕が注文したサンドイッチの中にレタスが入っていなかったのをJさんが目ざとく見つけ、店員さんに文句を言った。メニューの中にサンドイッチに入る野菜の種類としてレタスが書かれていたのである。店員さんは「あいにくレタスは切らしてしまっているもので」と謝っていたが、Jさんの心が鋭くなっているような感じがして、何かいやな予感がした。 食べていると、ギターを持った若者が店内に入って来て、演奏を始めた。僕たちが食べている間ずっと演奏してくれて、ペルーの民謡だけでなく、レット・イット・ビーなどもやった。いろいろな店を回っているようだ。チップはあげてもあげなくていいのだけど、ビートルズナンバーを演奏してくれたので、ほんの志を入れてあげた。 食べ終わった後もゆっくりと休んでから店を出た。さて、市内をぶらぶら歩いてみようということになったのだけど、それには地図がほしい。ツーリストインフォメーションに寄ってもらうことにした。 ツーリスト・インフォメーションにはあまり人がいなかった。地図だけ貰ってさっさと退散したかったが、Jさんがカウンターの中のおじさんと話し始めた。クスコ市内及び郊外にある名所の入場券が一枚にまとめられたカードのことに関してのことだった。ただ、それはすでにファニーが用意してくれているはずであるから、僕たちには必要ないものなのだけど、Jさんは何故かいろいろと質問を続けた。
「それはもうファニーが持っているから、どうでもいいだろ」と言っても、「値段が知りたい」とか「バラで買えないかどうか」とか言って、さらに早口で係りの人と会話を続けた。 「気持ち悪い」とJさんはもう一度繰り返した。僕は彼女をベンチに座らせようと腕を取ろうとした。次の瞬間、取ろうとした腕が僕の手を滑った。そしてJさんは真後ろにいきなり頭から倒れた。頭の中が真空になった。初めに「気持ち悪い」と言ってから、10秒も経っていなかったと思う。 近くにいた数人の人が駆け寄ってきた。倒れているJさんの体をとりあえずベンチまで運ぼうとしたが、ぐったり力の抜けている状態ということもあり、男3人でも持ち上げることができなかった。すると頭の近くを持っていた人が「このままにしておこう」というようなことを言った。ふと床を見ると血が流れていた。頭から倒れたJさんは頭部の何所かを切っているようだった。 誰かが呼んだのか、騒ぎを聞きつけたのかわからないが、すぐに警官がふたりやってきた。Jさんの意識が少し回復するのを待って病院に行くことになった。しばらくするとJさんの意識が若干ではあるが戻り、足に多少の力が入る状態になった。両脇を警官がかかえ、僕はその後に従い外に出て、すぐにタクシーを捕まえた。タクシーに乗り込む直前、Jさんはまた意識を失った。(2007.11.17) ―つづく― |