コロナ禍のお葬式

 妻の日本の母代わりだったTiaシゲが急逝した。Tiaシゲは妻の従妹のメグの母親である。足が悪く、入退院を繰り返していたが、数週間前に退院して自宅に戻っていた。しかし、自宅内で転倒して足を骨折して、再入院した直後だった。骨折の手術はせずにギブスで固定し、リハビリ病院に転院するという話を聞いていたので一報を聞いたときは驚いたのだけど、手術しなかったのは心臓が弱っていたためだったそうで、親族はある程度の覚悟はできていたらしい。

 オリンピックが盛り上がっており、Tiaシゲはスポーツ観戦が好きだから、妻は病院の5000円分のテレビカードを送ろうとしたが、メグは「いいよ、いいよ」といってなかなか受け取ってくれなかったという。結局、妻は押し付けるようにして渡したが、後から思うと「何となくわかっていたのかな」と感じたそうだ。妻のとっても日本での母代わりとしての存在だったTiaシゲだったが、僕にとっても貴重な人だった。

 Tiaシゲは沖縄で生まれ、妻の父親の弟Tioミツオと結婚した後、Tioミツオは兄の後を追ってペルーに移住した。三女一男をもうけたのち、経済状態の悪化していたペルーから日本に戻った。大学を卒業した後、妻はTiaシゲを頼って日本へやってきた。妻は数年働いてある程度、お金が溜まったらペルーに帰るつもりだったが、僕と結婚したので日本にずっといることになった。

 妻と付き合い始めた頃、大晦日はTiaシゲのマンションで除夜の鐘を聞くのが年中行事になっていた。マンションには30名前後の人たちが集まったが、ほとんどがスペイン語での会話で僕はなかなか居場所をみつけられなかった。そんなときに言葉をかけてくれたのはTiaシゲだった。彼女はスペイン語も話せたが、日本語で僕と会話をしていると周囲にいる日本語も話せるペルーの人たちも会話に入ってきてくれた。

 Tiaシゲは沖縄で生まれ育ったから、基本的には沖縄の人たちの気質が強いように感じた。人懐っこくて、好奇心が旺盛だった。また、4人の子供がいたが上3人の女の子よりも末っ子の男の子を可愛がっていて、このことが三女との間で軋轢を呼んでいた。スポーツ全般が好きだったが、特にプロレスなどの格闘技がお気に入りだったようだ。

 Tiaシゲの葬儀の日程は木曜日にお通夜、金曜日に告別式とお葬式と決まった。コロナ禍なので、出席に制限のようなものがあるのかと思っていたが、それはなかった。木曜日、仕事を終えた後、会社近くの商業施設のトイレで着替えて、斎場へ向かった。斎場へ着くとすでに多くの人たちロビーに佇んでいたり、会場内の椅子に座っていたりした。すでに献花は終わっていて、僕たちは棺に近づいてTiaシゲの眠っている顔をみた。穏やかな表情をしていて、口元は微笑んでいるようにみえた。心臓が原因だったそうで、それほど苦しまなかったようだ。

 通常なら食事が用意されているだが、コロナ禍なのでそれはなく、みんなただ何となく座っているだけだった。時折、参列者がやってきてTiaシゲの棺の前に置かれたテーブルに献花をして、遺族の人たちとハグをしたり、話したりしていた。マスクをしている以外はソーシャルディスタンスも三密も関係ない通常のお通夜の光景があった。

 翌日、10時の告別式の始まりの時刻に間に合うように家を出た。余裕を持たせたつもりだったが、バスの乗り継ぎがうまくいかず、時間ギリギリになってしまった。斎場の入口に着くと、Tiaシゲの三女メグの夫のミノと長女エリカの夫のケンちゃんが並んで立っていた。2人に挨拶をして葬儀場へ入った。昨日に比べると親族とほんとに近しい人たちだけの参列だったので人数は少なめだったが、それでも20人前後はいただろうか。

 司会の男性が現れて、「遺族の希望により、無宗教の葬儀を行います…」といった。告別式が始まり、昨日を同じように白いカーネーションを一人一人献花して、Tiaシゲとのお別れをした。献花を終えると、遺族の人たちが生前Tiaシゲの使っていたものや好きだった食べ物、お別れの手紙などを棺に納めた。その後、今度は全員で棺の中に花を入れ、Tiaシゲを飾った。花は本物と布の物とがあった、布で作られたものは白と紫の花びらがあり、その部分を外側に広げるときれいな形になるようになっていた。

 いよいよ出棺になり、みんな棺の周りに集まり最後のお別れをした。Tiaシゲといっしょに暮していたメグの次男ユースケと頻繁に行き来していたエリカの長女レナは涙を流していた。おばあちゃんとの別れは寂しい。自分の時のことを思い出した。電動式の台車に乗せられた棺は奥にある火葬場に運ばれていった。

 棺が台車から火葬炉の中に入れられると、最後のお別れということが実感され今までのことが思い出され寂しい気持ちになった。ユウスケやレナ、そして三人の娘たちは涙を流した。火葬の終わるまでは1〜1時間半かかるので、二階の休憩室にみんなで移動した。二階のロビーには座り心地のよさそうなソファーが並んでいたが、僕たちの通された休憩室は長い机と背もたれはあるがやや硬めの椅子の置かれた部屋だった。コロナ禍ということで食事は提供されないが、親族の人たちが売店で買ったお菓子とジュースを出してくれた。

 それらを飲み食いしながら周りの人たちと話した。ユウスケはずっとスマホでゲームをしていて、普段は人懐っこくてほとんど人見知りをしない子供だけど、この日は呼んでもスマホの画面から目を離さなかった。オリンピックやエンゼルスの大谷選手の話題が出たりした。偶然に妻の同級生がアナハイム球場へ野球観戦にいった画像をアップしていた。柱がバットの形になっていたりして、美しい球場だった。日本よりもはるかに感染者の多いアメリカだが、ワクチン接種の進んでいることのあるのだろうけどほとんどの人はマスクをつけておらず、国民性の違いを思った。

 長い時間ずっと同じところにいるのも気詰まりなので、開放感のあるロビーのソファーに移動した。斎場は工場地帯にあるため、当たりの風景は埃っぽくて殺風景だが、僕は意外と好きなのである。そんな風景を見ながらぼんやりしていると甥のタカシが来て前に座った。彼も部屋の中が息苦しかったらしい。工場の夜景見学の話や彼の仕事について話していると今度はメグの夫のミノがやってき隣に座った。最近の異常な暑さに参っているらしい。ミノがペルーで乗っていたジェニミの話をしているときに火葬の終わったことを告げるアナウンスが入り、一階まで下りて行った。

 炉の前まで来るとお骨拾いをする部屋に通され、遺骨の来るのを待った。子供達には見せない方がよいと判断でユウスケとレナは外に出された。しばらくすると職員の女性がお骨の乗ったステンレス製の容器が上部に付いているワゴンを押してきた。そしてお骨拾いの説明を始めた。それにより、まずはTiaシゲの娘たちがお骨を拾い、骨壺に入れ、その後は二人一組になってお骨を拾った。僕はTiaシゲにとっては姪の子供にあたるミホとお骨を拾った。職員の女性が頭の骨と、最後に喉仏の骨を入れて 葬儀は終わった。

 そのまま散会になるのかと思っていたら、ペルー料理店に行って食事をしようという話になった。しかし、僕は前日から下痢気味だったのと疲れ気味だったので帰宅した。

 コロナ禍の長引く中、病院ではいろいろと問題の起こっていることを聞いた。現在は基本的に家族の面会は中止になっており、患者さん同士の交流も禁止、看護師との会話も最小限に抑えられ、入院しているお年寄りたちの認知症が急速に進行しているという。病室でできることといったらテレビを見るくらいしかないそうだ。

 また、お葬式で感じたのは、新しい生活様式とやらはただのママゴトだということである。握手やハグは止めて、肘同士をタッチしてあいさつしましょうなどというものは実際の葬式の場では誰もしない。みんな握手をし、ハグをし、頬にキスをしていた。それが人間の感情というものであり、作り物の挨拶などなんの感情も呼び起こさないのである。

 食事に行った妻の帰ってきたのは十時過ぎだった。家族の人たちが寂しそうだったので遅くなったといった。(2021.8.15)




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