水曜日、会社を休んで自宅待機をしていた。妻からのメールで手術は十二時くらいから始まると知った。手術時間は二時間くらいと聞いたから、一時半くらいに自宅を出る前提で準備をしていた。しかし、十二時を過ぎても手術はまだ始まっていないと妻からメールが来ていた。前の手術が伸びているようだった。二時過ぎに「まだかな?」とメールを送ると、いつまで経っても返信のなかったため、手術が始まったんだなと思った。 二時過ぎに始まったとすると、終わるのは早くても四時くらいになるだろうと思い、疲れが溜まっていたこともあって、少し横になって休んだ。しかし、どうにも手術のことが気になり、眠ることはできなかった。薄暗くなった五時前に携帯が鳴り、看護婦さんからすぐに来院してくださいといわれた。 バスに乗り、病院へ向かった。受付にはすでに誰もおらず、通りかかった若い男性の看護師さんが対応してくれた。面会用のパスを渡され、三階へいくと顔見知りの看護婦さんがいて、フロアーの奥の方にある応接間まで案内してくれて、しばらく待つようにいわれた。応接間といっても間仕切りのあるわけではなく、広いテーブルが廊下に置かれているだけだった。 病院の中は非常に静かで、時折、足に包帯を巻いたパジャマ姿の年配の男性が通り過ぎたり、車いすに乗った老人が部屋から出てきたりするくらいだった。妻は今頃、麻酔からまだ覚めていなくて寝ているのだろう。十分以上待たされ、ようやく看護婦さんから呼ばれた。手術前に説明を受けた部屋で医師は待っていた。今回は、フェイスシールドはなかった。 レントゲン写真とCTの画像を使っての説明が始まった。レントゲン写真でみた左足の腓骨にはチタン製のプレートが六ケ所でネジ止めされ、縦方向からも一本長いネジが入っていた。脛骨には小さな穴が開いていて、そこが靭帯を縫った箇所だと医師が説明した。手術は予定通りうまくいったが、軟骨がすり減っていたそうだ。今回の事故で削れたのか、長年の蓄積によるものなのかはわからないが、完治した後、痛みの出る可能性があるといわれた。 翌朝、妻にメールをすると手術後の痛みはあまりないという。骨折した人のブログなどを読む限りではみんなかなりの激痛に見舞われているようだったので、安心した。靭帯が切れていなければ本格的なリハビリは翌日からできるそうだが、靭帯が断裂していたため、患部を動かすことはできないが、ただ、そのまま寝たきりというわけではなく、可能なリハビリは行っていく。例えば、足の指を使ってタオルを引き寄せたり、筋肉のマッサージ、無荷重の松葉づえの練習などである。 一週間毎にレントゲン撮影と採血が行われた。骨が順調に生育しているか確認するのである。中にはなかなか骨がつかない人もいるという。さらにずっと足を固定していることにより血栓ができるエコノミー症候群や手術中に細菌が傷口に入り込むことによって起きる感染症などが起きることもある。幸いにして、術後もそれらの問題の起きることはなく、骨も順調にできているといわれた。 三週間が経ち、装具を足にはめての歩行訓練が行われるようになった。この装具は足にかかる体重をコントロールすることができるようになっている。無荷重から初めて三分の一荷重、二分の一荷重、三分の二荷重と増やしていき、最後は全荷重となる。骨折した人のブログをネットで検索しては毎晩のように読んでいた。しかし、なかなか退院までのイメージが掴めなかった。 妻が入院してから僕のしたことは、限度額認定証の申請、妻の加入している生命保険会社からの保険金申請書の請求、装具の代金の保険請求、そして週二回くらい妻の着替えを届け、洗濯物を回収することなどだった。それほど動いているというわけではなかったが、やり慣れないことばかりで精神的にはかなり疲れた。まあ、それに仕事と家事があったのだから、そちらの方が疲れの主な原因だったのかもしれない。 妻からのリハビリの状況を伝えるメールの内容は、それほど進展のみられないまま日を重ねていた。それは僕よりも妻の方が切実に感じていたようで、徐々に文面から焦りが伝わるものになっていった。しかし、それほど一気に骨折が回復するはずもなく、気長に指示されたリハビリを続けるしかないように思った。(2021.3.20) |