ペルーからの訃報

 真夜中、妻のスマートフォンの鳴った音で目が覚めた。「アロー」と横で寝ている妻の声が聞こえ、すぐに「No!No!」叫び、大声で泣き出した。電話はペルーに住んでいる妻の一番上の姉のサチコの死を伝えるものだった。

 サチコは5人姉弟の長女で、次女ヒロミ、三女カズエが生まれた後、家族は沖縄からペルーに移住した。移住後、養鶏所を経営していたが、パン屋に転身しお母さんが中心となって店の切り盛りをした。ペルー移住後に四女のJさんが生まれ、最後に弟のキョウジが生まれた。

 母はパン屋の仕事で忙しかったため、四女の妻と長男のキョウジの世話はサチコがしていた。そのため、Jさんにとって最も関りの深い姉弟だった。成人したサチコは親のパン屋の経営を引き継ぎ、アメリカや日本に留学していたJさんもやがて手伝うことになっていたそうが、日本で僕と知り合い結婚したため、サチコが一人で切り盛りしていた。

 サチコは6年前に乳がんにかかった。リンパ節まで転移しているステージ2だった。手術を行い、その後、抗がん剤治療に入った。そして、5年が過ぎ、がんの再発はなかったが、医師は大事をとってもう一年、抗がん剤の投与を続けることをすすめ、サチコもそれに従った。

 昨年の暮れ、足に血栓のあることがわかり、それを溶かす薬の投与をした。その薬の副作用のせいなのか、吐き気などの悪心に悩まされるようになり、食事も満足に取れなくなり、体調の悪化が酷くなったので入院することになった。しかし、入院生活は退屈で、寝てばかりだと返って体が悪くなるとサチコは判断し、退院した。

 家に戻ったが、食欲はなく、やっと体を動かしているという状態がつづいた。一日中、うつらうつらしていることも多く、心配になったヒロミは別の病院に連れていった。入院して検査することになったが、夜間に痙攣を起こし、脳のCTを撮ると出血の跡らしい影があった。

 集中治療室に入り、人工呼吸器と胃に直接栄養を届けるチューブが装着された。昼はヒロミが、そして夜間はキョウジが付き添った。家族の判別もつかない状況で、言葉を発することもできなかった。ヒロミから妻に「すぐに会いに来た方がいい」という連絡の入るほど、事態は緊迫していた。

 妻は連絡をもらった二日後、ペルーに旅立った。二月上旬のことである。当初は高熱を発したりと予断を許さない状況が続いていたが、少しずつサチコは言葉を発するようになり、やがて冗談をいえるくらいまで回復した。そのうち、ベッドから降りて、新聞を読んだり、テレビを観たりするくらいまで元気になった。食事も口から取れるようになり、退院の話まで出ていた。

 三月中旬に妻の帰国するころには、普通に会話ができていた。「サチコは、もうほとんど普通になったよ」とペルーのお母さんも喜んでいた。妻の帰国後は、やはり日本に住んでいる三女のカズエがペルーに行き、看護を引き継いだ。しかし、その後退院の日が決まると、その直前に高熱を発するということが続いた。再び食欲がなくなり、少し話すだけで疲れてしまうようになった。一時は明るい光が見えていたのに、再び空は雲に覆われてしまった。「電話しても元気がないの。やっとしゃべっているという感じ」と妻は毎日のようにサチコの体調を気遣っていた。

 口から食事が取れなくなってきたため、再びストマックチューブで流動食を胃に流し込むことなった。ペルーのカズエから「今日は元気だよ」と連絡があり、LINEのテレビ電話でサチコと話した。「今度、ペルーに行くときは、ちゃんと両足で立ってね」と妻がいうと、サチコは親指を立ててOKのサインを返した。それが、妻のサチコと話した最後になった。

 サチコの訃報に妻は号泣しながら、「サチコ、あんなにがんばっていたのに」と叫び、そして「全然、楽しんでない」ともいった。サチコが若い頃からずっと仕事に追われていたからだ。店は朝早くから営業していたし、休みも週に一日だけである。一週間の休みどころか、数日の休みを取って旅行するといったこともなかったようだ。また、店を手伝う予定だったJさんは、僕との結婚で、それができなくなり、サチコに対して多少の引け目を感じているようだった。

 子供の頃、面倒を見てくれたこと、そして、店を手伝えなかったこと、その思いが妻の心の中で絡み合い、抑えきれなくなったのだろう。妻が店を手伝えなかったことについて、サチコは冗談っぽく「裏切られちゃった」といったことはあったが、恨みがましいことをいうことはなかった。 サチコはずっと仕事をしていた。仕事だけの人生だった言い切ってしまうのは乱暴だが、それに近かったように思う。しかし、それを否定的にみるというのは、間違っている気がする。その人生の価値を決められるのは、サチコ自身しかいないからだ。他人がその人の人生を判定するのは、あまりにも傲慢な行為に思える。

 仕事ばかりだったサチコだが、いわゆる日本の仕事中毒の人とは明らかに違っていた。肩の力が抜けていたし、兄弟の仲で一番ユーモアのあったのもサチコだった。仕事ばかりではあったが、仕事、仕事という感じでは、まるでなかった。淡々と日々の仕事をこなしている感じだった。ただ、リタイヤした後、好きな絵を描いたり、美術館を回ったりと楽しみが待っていただけに、残念で仕方ない。

 心配したのは妻の精神状態だった。前にも書いたが、店を手伝えなかったことについて罪悪感のような感情を持っていたら、イヤだなと思った。自分で自分を責めるような状態には陥ってほしくなかった。サチコもそんなことは全く望んでいないと思う。妻の手伝えなかったことに一抹の寂しさを覚えながら、でも、妻の幸せを第一に想っていたのではないだろうか。

 旅行会社に勤める友人に連絡すると、ペルー行きのチケットはすぐに取れ、妻はその日のうちに出発した。そして、数時間前にペルーに着いた妻から電話があった。思いの外、明るい声で安心した。「みんなでいっぱい泣いたら、気分が落ち着いてきた」といった。人はどんな悲しみも乗り越える力を持っている。ただ、これから、そういうことの多くなると思うと、多少、憂鬱な気分になった。(2019.4.14)




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