悪夢の採血

 金曜日、会社の健康診断にいってきた。現在、勤める会社では約一月に渡って一日1、2名ずつ会社の近くにあるクリニックに行き、検診を受けることになっている。検診を受ける日は、それぞれが希望日を提出して、係の人が調整するのだが、だいたいその通りになる。したがって、何かしら不安のある人は希望日を遅くして、体調を整えたりする。僕もそのひとりで、検診の一週間前くらいから食事には気を使う。

 検診で多くの人が嫌がるのは胃の検査だ。胃を膨らませる薬を飲まされ、ゲップをがまんしながら、バリウムを飲むのは辛く、さらに検査台の上で回転させられたり、台が傾き頭の方を下げられたりすると、体を支えるのがやっとだったりする。前の職場では体が支えられず、頭から滑り落ちてしまった同僚がいた。しかし、僕が一番憂鬱なのは採血なのだ。

 僕は血管が細く、採血の時はいつも辛い思いをさせられる。針を刺したが、血管に入っておらず、左手から右手に変えられたり、また、針を動かされたりとスムーズに血の採れることが少ない。若い頃は、まだ、何とかなっていたようだが、最近はなかなか一度では決まらなくなってきた。二年前には採血の終わった後、軽い脳貧血のような状態になったこともある。昨年は、左腕から右腕、さらに左腕と針は一回で済んだが、血管を見つけるのに看護師さんが苦労していた。

 そして今年、検診場所のクリニックに行くと、同じ会社のロサがすでに受付を済ませていて、多くの人が待機していた。。問診のあと彼女はレントゲン検査、僕は採血に行くように指示された。採血の行われている処置室に入ると、ここも多く人が順番を待っていた。今年こそはスムーズに終わってほしいと願ったが、そうはいかなかったのである。

 自分の番号が呼ばれ、採血の行われている椅子に座って名前と生年月日を告げた。ちらりと看護師さんの顔を見ると、顔半分はマスクで隠れていたが、それほど若いという感じではなく、少し安心した。注射や採血というのは看護師さんの力量が現れるからである。

 高校生の時、肺炎になりかかって入院したことがある。毎日、点滴が行われたが、このとき僕を担当してくれたのは若い看護師さんだった。年齢が近いこともあり、彼女とは仲良くなり、いろいろなことを話して楽しかった。ただ、点滴の針を刺すときはいつも痛かった。点滴の針は太く、液の出る穴がはっきりと見えるくらいだったから、それは仕方ないと思っていた。いつしか点滴をするときは、歯を食いしばるクセまでついていた。

 ある日、彼女の代わりに婦長さんが点滴をしに来た。三十代後半くらいで、何事にもテキパキした人だった。僕はいつものクセで針の入る前から、歯を食いしばっていた。しかし、驚いたことに痛みは全くなかったのである。すっという感じで、点滴の太い針が血管に入っていた。これが看護師さんの力量、経験の差なのかなとぼんやりと思った。

 だから、採血の時、それほど若くない看護師さんのように見えたので、経験値も高いような気がして安心したのである。まず、左手を机の上に出し、二の腕をゴムで圧迫して、血管を探し出した。そして針を入れたが、採血管になかなか血が入ってこない。少し針を動かしたりしたが、ダメだった。「痛くないですか?」と訊かれた。痛くないことはなかったが、それほどでもなかったので「大丈夫です」とだけ答えた。

 右腕を見せてくださいというので、机の上に乗せた。看護師さんは慎重に血管を探り、針を刺した。今度は採血管に血が入ってきたが、二本目のときにどういうわけか血が入ってこなくなった、看護師さんは針をぐりぐりと動かした。僕は苦痛に耐え、左腕は腰辺りを強く握るくらいになった。「痛いですか?」と訊かれたので、今度はためらわず「痛いです」といった。看護師さんは申し訳なさそうに「ごめんなさい」と謝り、採血を続けたが血は入ってこない。

 そのうち、僕は少しずつ意識の遠くなった。脳貧血のような状態である。「少し、気分が悪いです」というと、看護師さんは採血を中止した。針を抜くと、少量ではあったが、血が吹き出た。看護師さんは他の人も呼び、僕はベッドでしばらくの間、横になることになった。看護師さんはしきりに謝っていたが、僕はそれほど気にはしていなかった。血管が細いのだから、仕方ないと思った。

 気分はすぐに回復したが、後5分は横になっていてくださいといわれた。「恐らく血圧が急激に低下したのでしょう」といわれ、看護師さんが血圧を測った。その時はだいたい正常に戻っており、続けて体内の酸素量を調べたが、これも問題なかった。しばらくして、再び採血を行った看護師さんが来た。採れた血の量が少ないので、もう一度採血をしなくてはならないが、今度は他の看護師さんが行うということだった。カーテンの外で、「○○さん、採血お願いします」という声が聞こえた。

 少しして、「それでは、採血させてください」と別の看護師さんがカーテンを開けた。黒縁メガネをかけ、ややぽっちゃりしたアニメキャラのような女性で、先ほどの人より、若かった。大丈夫なのかなと心配になったが、採血を頼まれた人だし、腕は確かなのだろうと思った。上半身を起こそうとすると、「そのままで結構ですよ」といい、僕の左腕をゴムで圧迫し、血管を探し出した。使用する注射器は細いビニールのような管のついたもので、先ほどの物より針も小さかった。僕はまた目を閉じ、採血の終わるのを待った。

 「はい、終わりました」という声が、聞こえた。今度はうまくいったようで、「採れましたか?」と訊くと、「はい、採れました」という声が返ってきた。具合はよくなっていたので、起き上がろうとすると「あと、5分くらい休んでいてください。呼びに来ますから」といわれた。

 採血のとき、気分が悪くなり、気の遠くなるのは血管迷走神経反射というものらしい。採血をきっかけとして、迷走神経が緊張状態になることで起きる症状だそうだ。迷走神経とは自律神経のうち、副交感神経に含まれるもので休息を促進する。血管迷走神経反射の起きる要因には緊張や不安があり、血圧低下、徐脈、嘔気、顔面蒼白、冷汗、めまいなどの症状が現れるそうである。そして、重症になると意識喪失や痙攣なども発症するという。

 5分くらいベッドで横になっていると、初めに採血を行なった看護師さんが来て、気分を訊かれたの、「もう、よくなりました」と答え、その後の検査は予定通りに行われた。最後の胃のX線検査を終えた時には、あれだけ多くの人がいたのに、待合室には一人しか残っていなかった。時刻を見ると、もう昼に近かった。どうでもいいような気分になり、僕はゆっくりと会社へ向かった。(2019.3.16)




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