エステルの誕生日会

 以前、同じ会社で働いていたペルー人女性エステルの誕生日会の招待状が届いた。土曜日の夜7時から、K市内にあるペルーレストランを貸し切って行われるということだった。妻から「招待状が来たけど、どうする?」と訊かれ、何の気なしに「いいよ」と答えた。

 しかし、日の過ぎるうちに、だんだんと憂鬱になってきた。もともと僕は人の大勢集まる会は苦手で、送別会や忘年会なども最近ではほとんど欠席している。しかも、今回は、僕以外は全員ペルー人になる可能性が高く、パーティ会場はスペイン語が乱れ飛びという状況になりそうだった。日本で暮らしているペルー人も多いから、日本語のわかる人も多数いるだろうか、ほとんど知っている人はなく、何を話していいのかわからない。ペルー人の中で、孤立する自分が想像され、物憂くなってきた。

 そして、誕生日会の前日、風邪の症状が出始めた。のどがひどく痛み出したのである。妻にそのことをいうと、誕生日会に出席するのがイヤで、仮病を使っていると思われ、逆に説教された。しかし、風邪は仮病ではなかった。体調の悪さは本当だったのである。ただ、このような集まりのある前に、体調の悪くなることが多いというのはどういうことなのだろう?

 妻は誕生日会を楽しみにしていた。それというのも、こういう集まりに二人で出席することがあまりないからだった。以前、何かのパーティに誘われた時も、妻は一人で行っていて、いっしょの職場で働いていたリリアナは僕が来なかったものだから、妻は離婚したものと思い、気を使っていたという。妻の喜んでいる姿を見ると、多少、体調が悪くても出席しなくてはならないなと思った。

 いよいよ誕生日会当日、風邪で体調の悪いことに変わりはなかったが、思ったより悪化はしなかった。会社へ行き、17時まで働き、誕生日会に履いていく靴を買いに行った。当初はカジュアルな格好でもいいかなと思っていたのだけど、妻のいうにはペルーでは50歳の誕生日は特別なものだから、正装して誕生日会には出席しなくてはいけないそうだ。革靴は一足持っていたのだけど、安物だったせいか、表面の皮が剥がれてきており、あまり見栄えのいいものではないので、買うことにしたのである。

 靴を買い終わった頃に妻から連絡があり、コーヒーショップで待ち合わせた。誕生日会は19時からだが、ペルータイムのため、のんびりと行けばいいという。コーヒーを飲み、その後、トイレで服を着替え、パーティ会場のレストランへ入ったのは、20時近かった。

 誕生日会は、まだ始まっていなかった。店内のテーブルは取り払われ、壁際に椅子が並べられており、そこにみんな腰かけて、各々おしゃべりをしていた。僕たちも、みんなに挨拶をして回り、空いている椅子に腰かけた。しかし、いつまで経っても、誕生日会の始まる様子がない。どうもペルーから来ているエステルの90歳になるお父さんが、会場に来ていないためらしい。

 妻の親戚筋以外は、知らない人ばかりと思っていたが、以前同じ会社で働いていたリリアナやロサなどもいて、それなりに話が弾んだ。奥のテーブルに飲み物があったので、いただくことにした。サングリアという赤ワインに小さく切った果物を浮かせたものだ。この日は小さく切られたリンゴが浮いていて、サクサクとした食感を楽しみながら、ワインを口に含んだ。

 取り払われていたテーブルが、会場の中央に持ってこられた。どうやら、食事の用意ができたらしい。ローストチキン、セビーチェ、ロモサルタード、パパアラワンカイーナなどのペルー料理に混じってチャーハンもあった。どれも大皿に盛り付けれ、テーブルの隅に取り分けようの小皿が置かれた。

 9時近くになって、ようやくエステルのお父さん一行が到着した。ペルーから来日したのはお父さんの他にエステルの兄弟姉妹5人とその家族、エステルの夫アレックスのお母さんである。エステルのお父さんは黒のタキシードに黒の中折れ帽をかぶり、とてもダンディだった。

 ペルーから来日したエステルの家族の到着で、ようやく誕生日会が始まったが、決まった段取りのあるわけではない。まず、エステルがスピーチをした。スペイン語のため、何を話しているのかわからないが、時折笑いの起こるところをみると、冗談を交えて誕生日会に来てくれたお礼の言葉を述べているようだった。次にエステルの夫のアレックスが短めのスピーチを行い、最後のエステルのお父さんが娘に促され、二言三言話した。

 その後、テーブルの置かれた料理を小皿に各々とりわけ、立食パーティになった。料理は、どれも美味しかったが、特にエビの入ったチャーハンは格別だった。チャーハンは中華料理ではあるが、ペルーには中国からの移民も多く、ペルー国内ではポピュラーな料理なのである。誕生日会の出席者は30名以上だと思われ、料理を小皿に取り分けるのも一苦労だった。

 料理がだいたいなくなると、再びテーブルがどかされ、中央に広い空間が作られた。ラテン音楽がかけられ、エステルとアレックスがダンスを始めた。ペルーの人は、子供の時からダンスをしているので、下手な人はほとんどいないのである。それほど巧くない人でも味のあるダンスをする。アレックスは時折、コミカルな動きをして、みんなを和ませた。そのあとは、エステルと90歳になるお父さんがダンスをして、次にエステルのお兄さん、子供たちという具合にダンスの輪が広がっていく。

 妻が席を外していたので、初めは妻の従妹メグに誘われて踊った。ダンスをするのは、結婚式以来である。こういう席ではとにかく下手でも恥ずかしがらずに踊ることが大切である。下手だと尻込みをしていると、仲間だとは思われない。下手でも踊っていれば、みんなフレンドリーに接してくれる。

 二曲目は、以前同じ職場で働いていたリリアナと踊った。彼女は妊娠したので会社を辞めたのだが、今でも職場の人のことを覚えていて、「あの人は今どうしている?」とかつていっしょに働いていた人の近況を知りたがった。三曲目は、この誕生日会で初めて会った人に誘われた。彼女はペルー人ではなく、アルゼンチン人ということだった。エステルの近所に住んでいる友達らしい。

 曲が変わり、疲れたので椅子に座ろうとしたら、ようやく妻が戻ってきた。2曲ばかりいっしょに踊り、ようやく椅子に座ると、メグがチチャモラーダという紫トウモロコシのジュースを持て来てくれた。クセはあるが、結構美味しいのである。

 会場をぼんやり見ていると、意外と若い人たちが踊っていないのに気付いた。踊っているのはおじさん、おばさんばかりで、若い人は椅子に座ってスマホを見ている人が多かった。よく考えてみると、若い人は日本で生まれ育った人が多く、顔はペルー人だが内面は日本人に近いのかもしれない。日本ではあまり踊る機会のないため、こういう場には慣れていないのだろう。

 気が付くと、もう11時近くなっていた。帰る人もぽつぽつと出始め、僕たちもバスがなくってしまうので帰ることにした。エステルのところへ挨拶に行くと、彼女はそのことを察して、怖い顔をした。「バスがなくなっちゃうから」というと、「まだ、私と踊ってない」といった。僕は、エステルの求めに応じ、彼女と踊った。(2018.12.1)




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