土曜日、出かけようと駅に向かった。休日は、駅までぶらぶら歩いて行くことが多いのだけど、あまりの暑さにバスでいくことにした。バス停に向かって歩いていると、十メートルくらい先を、夫婦と思われる二人の老人が寄り添って歩いていた。 年の頃は、七十代半ばくらいだろうか、やっと歩いているという感じでもないが、それほど健脚とも思えない頼りない足取りだった。バス停の背後には神社の杜があるが、それは北東に当たるため、容赦ない日差しが降り注いでいた。ただ、神社の階段近くに大きな物置小屋があり、バス停近くと神社の階段側の小屋の側面には影が出来ていた。 二人は小屋の側面の影に入ったので、僕は二人を通り過ぎ、バス停近くに出来ている影に入った。しばらくして、カーブの先にバスが見えた。すると、二人の老人は、急いでバス停まで、やってきた。彼らの方が早く並んだのだから、僕は後から乗り込むつもりだったが、どうもバス停近くに立っていた僕に先に乗られてしまうと思ったらしい。 休日のバスは混んでいた。夫の方は、座るのを諦め、バスの前方に向かったが、妻の方は目敏く、最後尾にひとつ空いていた席を見つけ、素早く座った。僕は中乗りの入口近くに吊皮を持って立った。二つめのバス停で僕の立っているすぐ後のシートに座っていた乗客が降りた。このバス停は、乗ってくる人も多いので、お年寄りが乗ってくることを思い、どうしようかと思っていたら、最後尾の席を取っていた妻の方が、物凄い勢いで突進して来て、その席に座った。道路を、頼り気ない足取りで歩いていた老人と同一人物とは思えないような早業に僕は唖然としてしまった。 彼女が前の席に移動した理由は分かる。恐らく終点の駅まで行くのだろうが、前にいた方が早く降りられるし、夫は前の方で立っているのだから、待たせては悪いと思ったのだろう。席のすぐ横に僕が立っていたため、座られてしまうことを考えて、一気のダッシュということになったのだと思う。 老女の行動をみて、物悲しくなった。年を取り、所謂弱者になると、他人を顧みる余裕を失ってしまうのだろうか、自分ファーストということになってしまうのだろうかと思った。そのバス停から乗って来たお年寄りもいたが、一番後ろの席に座ろうとする人はなく、みんな立っていた。もし、僕の横の席が空いていれば、入口から近いこともあり、座れた人もいたのである。 もう、すでに席を確保しているのだから、後から乗ってくる人のことを考え、終点までのんびり座っていえばいいのにと思った。バスから降りるのが遅くなるといっても、せいぜい一〜二分の違いだろう。しかし、バスの中で‘我先に’という行動を取る人は多い。特に朝の通勤時のバスである。 終点の駅西口に着く前から、後ろの方に座っている乗客は、席を立ち、前方へと押し寄せてくる。一人が動き出すと、遅れまじと次々という感じになる。もちろん、いち早くバスを降りるためだが、走っているバスの中を移動するというのは、かなり危険な行為で、運転手からも「走行中の移動は、ご遠慮ください」と常々アナウンスされる。しかし、そんなことはお構いなしで、駅に着く頃には、バスの通路は席を立った乗客で埋め尽くされている。 この行為、実はあまり意味がない。自分一人だけ、先に席を立ち、通路を前方に移動できれば早く降りられるだろうが、次々とそれを模倣する人が現われるため、通路は渋滞となり、結局、ずっと座っていた場合とたいして変わらなくなってしまう。さらに、バスがもし何かの理由で急停車をすれば、通路に立っている人は将棋倒しとなり、多くのケガ人の出ることも考えられる。 このようなことを書くのは、このような身勝手な行動をした人を非難したいためではない。自分自身も、実は自分ファーストになりかけているため、自戒を込めて書いているのである。自分だけよければいいという行動は、他人を不快にさせるし、何よりたいして自分のためにもなっていない。周りの見回し、恥ずかしくない行動をしようと思った今日この頃である。(2017.7.23) |