のんびり歩けない人たち

 妻がペルーに帰った頃から、朝、出勤するとき、駅まで歩いて行くようになった。自宅から最寄りの駅まで約2.5km、時間にすると35分くらいだ。歩きの時間というのは、意外と正確で、だいたいいつも同じである。

 歩くようになったのは、バス代を節約するということにあるが、何より、気持ちいいからだ。自宅周辺は、結構、自然が残っていて、小鳥のさえずりを聞き、辺りの景色を眺め、楽しんで歩いている。大気の状態がよければ、富士山を見ることもできる。妻がペルーから帰って来てからは、二人で各家々の庭に咲いている花の話などをしながら、駅に向かっている。

 朝、ほとんど同じ時刻に家を出て、同じコースを駅に向かって歩いていると、お決まりのメンバーに会うことになる。怖かったのは、独り言というより、一人で会話をしている年齢不詳の女性だ。まだ、妻がペルーから帰っていなかったとき、ひとり駅に向かっていると、後ろから男の声で「承知しないぞ」という呟きが聞こえてきた。それも一回ではなく「承知しないぞ、承知しないぞ、…」と何回も繰り返しながら、背後から近づいてきた。

 僕は、身を固くした。襲われる可能性まで思った。「承知しないぞ」が、職場の気に入らない上司や同僚か、またはわがままな顧客か、或いは目の前を歩いている僕に向けられたものかは、わからなかったが、とにかく不気味だった。すると、今度は内容までは聞き取れなかったが、女性の声が聞こえた。どうも‘承知しないぞ’男といっしょに歩いているらしい。二人で歩いているなら、いきなり後ろから、僕に襲いかかってくることはないだろうと、多少、安心したが、気持ち悪いことには変わりないので、やや、歩をゆるめ、二人を先に行かせることにした。

 足音が徐々に近づいてきて、僕の横を通り過ぎていった。僕を追い越していったのは、もじゃもじゃのショートヘアーにチェック柄のシャツを着た年齢不詳の女、一人だけだった。その女は一人で、二人の声色を使い分けていたのである。僕は、ヒッチコックのサイコを連想した。その後も、この女とは、何回か出会っている。そして、この女はいつも何かを一人で呟きながら歩いている。

 学生服姿のマッチ棒のような体形をした高校生の男子にもよく会う。体が細く、頭が大きいため、マッチ棒に見えてしまうのである。だたし、この高校生、歩くのは誰よりも速い。まったくスポーツをしているようには見えないのだけど、前を歩いている人を追い越さずにはいられないといった感じで、次々と抜き去っていく。

 この男子ほどではないにしても、朝の通勤時に会う人は例外なしに、早足だ。中には前に人がいると、小走りで追い越していく女性もいる。歩いている人を自身も歩きながら追い越すというのは、意外と時間のかかるもので、並んで歩く時間が発生してしまうため、それが嫌なのだと思う。朝は歩いている人が多いので、歩いている時間より、走っている時間の方が長い感じである。いろいろな面々がいるが、一番、印象的なのは、60代前半と思われるスーツを着た会社員の男性である。

 その男性とは、駅に着くかなり手前で出会うため、余計に印象に残っているのかもしれない。左手に鞄を持ち、背筋を伸ばして、かなりの早足で歩いている。何もそんなに、急がなくてもと思ってしまうくらい、生真面目に歩を進めていく。全くといっていいほど、周囲に関心を示さず、視線はひたすら真っ直ぐである。道には通学する小学生を見守るおばあさんなども立っていて、通り過ぎる時、挨拶をしてくれるのだが、彼はそれに応えたことがなく、ただ、早足で横を通り過ぎるだけだ。

 彼に追い抜かれ、その彼の後姿を見ていると、少し物悲しい気分になる。ただ、前を見て、急ぎ足で歩くことしかしてこなかった人生を感じてしまうのである。もちろん、そんなことは、こっちの勝手な想像で、ほんとうはわからないことなのだが、休みの日に、彼はのんびりと歩いているのだろうか?と余計なことまで、気になってしまう。

 歩くという動作には、その人の人生の歩みも反映されるように思う。ひたすら、わき目も振らず歩く人、前を歩いている人を追い越すときに小走りになってしまう人、ぶらぶらと周囲を見回しながら歩く人…。僕も以前は早足だったような気がするが、最近は、多くの人に追い越されるようになってしまった。最も、これは、人生の反映などという大そうなものではなく、ただ、単に年をとったというだけかもしれない。(2017.6.8)




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