月が綺麗ですね

 「月が綺麗ですね」という言葉に、深い意味があると知ったのは、比較的最近で数年くらい前だったと思う。英語の教師をしていた夏目漱石は、生徒がI love youを「我君を愛す」と訳したところ、日本人の男性はそんな台詞は口にしないから、「月が綺麗ですね」とでも訳しなさいと指導したという。つまり男性が女性に「月が綺麗ですね」といった場合、間接的な愛の告白ということになるというわけである。しかし、夏目漱石の逸話を知らなければ伝わらず、キザな人と思われるかもしれない。

 若い頃に愛読書だった熊沢正子さん著の「チャリンコ族はいそがない」で、熊沢さんが旅先で知り合ったカポネという青年と夜、海岸で星空を眺めながら酒を酌み交わす場面が出てくる。熊沢さんがカポネに向かって「カポネ、星がきれいだ」といい、それに対してカポネは「バカな奴」と答える。当時、僕はこの場面の意味が理解できていなかったのだが、漱石の逸話を知ってから、これは月が星に変ってはいるが、熊沢さんがカポネに想いを告白し、風来坊のカポネは自分に惚れるなんてバカなヤツと呟いたんだなとようやくわかったのである。

 今夜、僕は「月がキレイだ」と独り呟いた。これは、愛の告白ではなく、本当にそう思ったのである。夜、二階に用事があったので階段を上り、真ん中の部屋に入ると、窓から白い光が差し込み、床を照らしていた。その部屋の外に街灯はなく、また、隣の家の窓もないため、窓から差し込んでいた光は、月明かりだったのである。窓から白い光が差し込み、暗い部屋の床に落ちている光景はあまりに幻想的で美しく、僕はしばし立ちつくした。

 あまりの美しさに窓辺によって夜空を見上げると、満月とはいえないけれど、天空で月が美しい光を放っていた。そして、思わず出た言葉が「月がキレイだ」だったというわけだ。

 このような光景を見たことは、あまり記憶がない。都会で生まれ育った僕は、常に街灯と家々の灯りに囲まれていて、月明かりや星明かりを感じるということがなかった。月明かりの美しさを感じるためには、まず、周囲に街灯や家がなく、暗くなくてはならない。前に住んでいた家も、その前の家も、家がすぐ近くにあり、しかもウチの方に向いた窓のあるため、月明かりだけを感じるということはなかった。

 月をじっと見ていると、不思議と神秘的な気持ちになってくる。月にまつわる話は、人の狂気に結び付くものが多い。満月の夜に犯罪が増えるなどという説もあるらしいが、どうも、相関関係はないようである。ただ、月光に心動かされるのは、間違いないように思う。異性と並んで月を見ていたら、その人と恋に落ちてしまうかもしれない。部屋に差し込む月明かりをみたとき、誰もそばにいなくてよかった。(2016.10.20)




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