異動 後編

 以前、主にこの仕事をしていたのは、70歳の男性Mさんだった。僕は荷受け・在庫管理の仕事をしていたので、不要な箱や梱包するときに緩衝材として使う茶紙など、発送に使えそうなものがよく出るため、それをMさんに回したりして、懇意になっていた。この仕事は前々から人の定着しない作業で、昨年末、若い男女が入ったが、相次いで辞めていた。僕は、Mさんの精神力の強さに感心したが、妻は70歳で他に仕事もないから、続けられたのでしょうと冷静に分析した。

 新聞紙を丸めたり、シュレッダーの紙片を袋詰めしたりという作業が、人から見えないところで行えるのなら、何とか耐え切れるかもしれないが、営業部という人の出入りの多い部署の片隅でやっているため、情けなさも人一倍というわけなのである。辞めるにしても、まず、次の仕事を決めてからと考えていたが、それまで精神が持つかどうか、自信はなかった。

 製品を箱詰めして宅急便の伝票を貼る発送の仕事の始まるのが、三時くらいで、それから五時までは、特にストレスを感じることなく働けるので、問題はそれまでの準備の時間帯をどうやってうっちゃるかだが、結局はどうすることもできず、心の持ちようを変えるしかないように思えた。しかし、それはそう簡単なことではなかった。

 会社に行き、早々に詰め物造りの作業を指示されたりすると、逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。実際、昼休みに外へ出たときには、このまま帰ってしまおうかと何度も考えた。さらに、眠れなくなってきた。寝つきはそれほど悪くはないのだけど、朝早く、四時過ぎくらいに目が覚めるようになった。明らかに、うつの症状である。心や体の壊れる前に、辞めた方がいい、そんな気持ちが強くなった。

 作業をしていて、いろいろな思いが心に押し寄せ、どうしようもない気持ちに陥るとトイレに逃げ、何とか立て直して、また、作業を続けた。こんな状態で、一週間持つのだろうかと、さえ思った。うつになりやすい人は、真面目で、責任感が強く、物事を悲観的にとらえる傾向があるらしいが、僕はその逆で、不真面目とまではいかないかもしれないけど、それほど真面目というわけでもなく、責任感もあまりないし、楽天的なので、本来、うつになりにくいタイプなのだが、今回ばかりは、気分の凹みが大きく、自分でもどうなるかわからなかった。

 異動してやっと一週間の終わる金曜日、逃げたい気持ちに何度か襲われながらも、明日は休みだと強く心に言い聞かせ作業を続け、やっと発送の仕事になった。商品の大きさにあった箱や袋を選び、梱包して、宅急便の伝票を貼る。ふと、隣で作業している人をみると、僕の作った緩衝材を箱に詰めていた。今までも何回か目にした光景だったが、何故かこのとき、心がふっと軽くなった。凹んでいた気持ちが、フラットになった。

 自分の作ったものが役に立っている光景をみたことにより、確かなことは分からないが、心が動いたのかもしれない。もちろん、憂鬱な気持ちが消えて、やる気が出てきたなどということはない。ただ、すぐに辞めたい気持ちが、いい仕事を見つけてから辞めようと変ったくらいである。

 例え辞めるにしても、気分の落ち込んだまま、辞めたくはなかった。この状態を克服して、次を落ち着いて考えられるような通常の精神状態に戻したかったのである。今の段階で、そこまで戻ったかどうかは分からないが、居た堪れなくなるほどの気分の落ち込みはなくなった。

 それから、いままで、状態はよくも悪くもなっていない。気分が落ち込んでどうしようもなくなるということもなければ、気持ちが前向きになって来たということもない。一日、一日を淡々と過ごし、時に辛くなり、時に気分が軽くなる。この後、私生活での環境の変化がどのように作用するか…。ただ、長くは続かないような気はする。(2016.6.10)




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