井の中の蛙

 以前、同じ会社で働いていた元同僚から、「夏休みに北海道を旅行する予定なんだけど、おすすめのところある?」と連絡があった。妻と結婚するまで、僕が夏休みにはバイクで北海道ばかり行っていたことを覚えていたらしい。ざっくりとおすすめスポットと訊かれても、返答に困るので、同行者の人数や関係、日数などを訊くと、妻と二人で日数は一週間くらい、レンタカーで周ることを考えていると知らせて来た。僕は今までの経験から、基本的なアドバイスをして、その後、参考になればといくつかプランを考え、メールで送った。

 これは、七月上旬のことである。しかし、八月中旬を過ぎても、彼からは何の連絡もなかった。別におみやげまでねだるつもりはないが、どういうルートで周ったのか、旅行の話を聞きたいと思った。そのうち、何か悪いことでも起きたのではないだろうか?と心配になり、旅行、どうだった?というメールをした。すると、しばらくして返信があった。彼は旅行に行っていなかったのである。

 やはり、何か悪いことでもあったのだろうかと心配になったが、彼からの電話で事情がわかった。彼も、僕の辞めた後、転職していて、現在、働いている会社は全体の夏休というものがないという。しかし、夏季休暇は取れるシステムになっていて、各自、三日間与えられるそうだ。つまり、後は自分の好きな時期に、それを消化すればいいと思うのだが、そんなに気楽なものでもないらしい。

 まず、他の同僚とできるだけ休みのかぶらないように、それぞれ調整をしなくてはいけない。その結果、夏季休暇の三日間を連続して取る社員は、ほとんどいないという。彼は、夏季休暇に有給休暇を足して九連休にしようと思っていたらしいが、そのような人は皆無ということだった。

 彼は、有給休暇の申請を上司にしたが、あまりいい顔をされず、明らかに立腹の態度だったという。そのうち彼は、イヤな顔をされてまで休暇を取っても、これからの会社生活に悪影響になるのではないかと思い始め、北海道旅行は止め、一泊二日の伊豆旅行に切り替えたそうである。

 この話を聞いて、もちろん、それは彼の人生であり、彼の決めたことだから、僕がどうこういうことではないが、人生を無駄にしているように思った。一泊二日の旅行なら、何も夏休みにしなくても、土日で十分にできる。上司にイヤな顔をされたくらいで、一週間の休みを撤回していたら、会社員であり続ける限り、長期の旅行はできないということになる。

 会社や仕事が大切だという気持ちはわかるが、それより大切なものは、いっぱいある。旅行など、定年退職してからいくらでもできるという人もいるだろうが、六十代で、二十代や三十代のときのような旅は絶対にできない。その年代でしかできないことというのは絶対にある。彼は、仕事や会社が大切というより、会社や上司と闘うことを避けたかったのである。

 基本的に会社は従業員が有給休暇を申請したとき、拒否することはできない。ただ、仕事の忙しい時期だとか、代替の人の都合のつかないときなど、時期を変更する権利はある。しかし、この権利は、あらゆる配慮をしたが、どうしても都合のつかなかったときに有効であり、配慮を尽くさなかった場合は、時季変更の権利は行使できない。

 恐らく、彼の上司も、そのあたりのことをわかっていたのだろう。だから、はっきりと拒否するのではなく、イヤな顔をしたり、憤慨したような態度をみせて、自発的に休暇を取り下げるように仕向けたように思われる。もし、彼があくまでも休暇を取るという態度を崩さなければ、北海道へ行けたのである。

 しかし、彼のような人は多いように思う。上司の顔色や、同僚へ迷惑のかかることを怖れ、自分のやりたいことをがまんしてしまうのだ。がまんは日本人の美徳であるかのように、思い込んでしまっている人たちである。確かに、がまんは美徳ということはあるだろう。しかし、周囲と摩擦を起こさないように自分を合理化していくと、自分を失ってしまう。

 まだ、やりたいことがあり、それができずに悔やんでいるうちはいい。しかし、周りの空気を読むことばかりに気を使い、それに自分を合わせていると、いつしかやりたいこともなくなり、ただ、会社へ行くだけの人間になる。会社などは、どう考えても、井戸の中くらいの広さしかない。井の中の蛙にならないためにも、旅行も含めて、広く世の中を見聞する機会を持った方がいいと思う。(2015.8.21)




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