僕はいままで人に殺意を感じたことはなかった。イヤな奴やムカつく奴はいっぱいいたが、そこまで激しい憎悪というものを持ったことはなかったのである。しかし、最近、一人の女性を殺してしまいたいと思った。彼女は同じ職場で働く五十代半ばのパートのおばさんである。 僕は以前から彼女にチクチクいわれて、それがまたどうでもいいようなこと(彼女にとっては大事なことなのだろうけど)なので、何回かつい声を荒げてしまったことがあった。しかし、つい先日は、それが激しい言い争いに発展してしまった。 その日、彼女に、作業に使う材料の補充を頼まれた。棚を見ると、材料はまだ十分にあり、急いで補充する必要はなさそうだった。それでも、暇であれば、行っていたと思うが、忙しかったので後回しにした。それが、彼女の気に喰わなかったようである。午後、遅い時間になってから、仕事が一段落したので、彼女に頼まれた材料の補充をしていると、彼女が「倉庫にあるものを全部持って来て、棚に入りきらないものは、ラックの一番上に積んでちょうだい」と強い口調でいってきた。 その作業に使う材料は倉庫に山積みというわけでもないから、全部持ってくることは可能だったが、材料の入っている棚には入り切らず、棚の上に積んでといわれても、そんなことをしたら、かなりの高さになって、椅子の上に上がらなければ取れない状態になるし、第一、地震でも起きたら崩れて来そうで危ないと思い、僕はYさんのいうことをきかなかった。そしたら、いきなり、Yさんが切れた。 「Gさんは、倉庫にあるものを全部こっちに置くようにいっていたわよ。聞いてないの!」と大声で捲し立てるようにいった。Gさんとは担当の社員である。しかし、担当になってから、まだ日は浅く、最近になってようやく仕事の段取りが掴めてきたところで、古参パートのYさんには、かなわないところがある。 そのGさんが言っていたのは「Yさんのいうままに材料を発注していたら、在庫がかなりだぶついてしまった。この仕事で使う材料は、発注してから二日くらいで納品されるから、あまり在庫を持つ必要はないので、これからは使用量に見合った発注にして、倉庫にある在庫を減らしていく」というものだった。それをYさんが勘違いしたか、Gさんが誤解を与えるような言い方をしてしまったか、とにかくYさんの認識を変えるため、Gさんから聞いたことを説明したのだが、「倉庫にある材料を全部持ってきて!」と繰り返すだけで、他人の話を全く聴こうしない。それで、僕もつい声を荒げてしまったのである。 他人の話を聴こうとせず、ただ、自分の主張を繰り返すだけのYさんを黙らせたいという気持ちが芽生えた。彼女に消えてほしい、いや、消してしまいたい、それは殺意といってもいい感情だった。ただの妄想ではなく、リアルな情景を伴った想像だった。 家に帰り、気持ちが落ち着いてくると、自分に対してイヤな気分になった。Yさんと言い争いになったことに関しては、別に後悔はなかった。問題は、ほとんど‘殺意’ともいえる感情が起きたことである。それは、あと一歩で境界線を越えてしまいそうなほど実感のある危ない感情だった。 何故、そのような感情が生まれたのか、考えてみた。Yさんとの争いの原因は材料の補充を巡るくだらないものである。適当に遣り過ごすこともできたように思う。しかし、僕はYさんの態度に怒りを覚え、消してしまいたいとさえ思った。どうしてだろうと考えているうちに、それは今までの積み重ねによるのではないかと思うようになった。‘積年の恨み’というヤツである。 今まで材料の補充を気持ちよく行えたことは、ほとんどなかった。常にYさんの‘嫌味’や‘小言’にさらされていたからである。「それはそこじゃない」「もって丁寧において」「危ないから」「それはしなくていい」「何度いったらわかるの?」「両手で持って」「前にもいったよね!」等、はじめはそれほど気にならなかったが、数を重ねるたびに、イライラ感が募っていたのは確かである。ひとつ、ひとつは大したことではないが、それが積み重なることによって、徐々に居た堪れない気持ちになり、限界近くに達していたのかもしれない。 ここ数年、近親者や近隣者による殺人事件や傷害事件がよく起きている。それらも、恐らくはちょっとしたことが積み重なり、やがて耐え切れなくなって一気に爆発した気がする。夜中に洗濯機を回す音だったり、野良猫へのエサやりだったり、テレビの音が大きかったり、そんな、ちょっとしたことに対する苛立ちが溜め込まれていき、いつしかその重さに耐えきれなったとき、自制心が決壊し、とんでもない行動をとってしまうのではないだろうか。 Yさんも、恐らくそうだったように思う。今までの積み重ねが、彼女の自制心を崩壊させ、人前はばからず、怒鳴り散らすという行動になってしまったのだろう。ただ、今回のことは、結果的に僕に関してはよかったと思っている。というもの、それ以来、Yさんは僕を無視するようになり、話しかけて来なくなったからである。Yさんと口をきかなくて困ることは僕にはない。嫌味や小言から、逃れることができたのである。ただ、Yさんは何も言えなくなった分、ストレスを溜め込んでいるかもしれない。あとはそれが誰かに対して何かのきっかけで爆発しないことを祈るのみである。(2014.6.28) |