心の中の宝物

 いつも仕事の始まる前にフロアーの掃除をする。誰かが掃除機をかけ、誰かがモップをかけ、そして誰かがゴミを捨てに行く。ゴミ捨ては、前日の作業中に出た廃棄物を一階まで下ろすため、男性の仕事になっている。掃除機とモップがけは、その日、九時に出勤した女性パートさんがやっている。

 ゴミ捨てを終え、パソコンで作業の受注をしていると、パートのKさんがモップをかけながら「モップがけって、こうやって後ずさりしながらやるのよ」と声をかけてきた。彼女を見ると、手に持ったモップを左右に振りながら、後ずさりをしていた。
 「こうすると、自分の足跡が残らないでしょ」
 「そういえば、そうですね」
 「二十のとき、掃除のバイトをしていて教わったの」とKさんは楽しそうに笑った。

 Kさんは、50代半ばでふたりの子持ちだが、長女は独立し、次女とふたりでくらしている。夫とは、数年前に離婚しており、本当はKさんではなく、Iさんなのだが、彼女の離婚したことは一部の人しか知らないため、旧姓のまま呼んでいるのである。

 「掃除のバイトですか?どんなところでした?」
 「キョウリツビルっていうとても広いビルだった。東京に出て来て、絵の学校に通っていた頃、やっていたの」とまた楽しそうにいった。

 新潟から東京に出て来て、希望いっぱいに輝いていた二十の頃の思い出が脳裏に蘇ったようだった。本当に楽しそうな笑顔をしていた。三十年以上も前の想い出が、彼女の心の中で宝物のように輝いているのだろう。

 彼女の楽しそうな笑顔をみて、胸の締め付けられる思いがした。僕は現在、会社でトラブルを抱えているが、彼女もまたトラブルを抱えている。そして、それはときとして酷い仕打ちとなって、彼女を刺す。彼女の泣いている姿を、何人かの人が見ている。二十の頃の思い出と今の彼女が、二重写しになった。

 「こうして、ほら」とまた彼女は楽しそうにモップを左右に振りながら、後ずさりをした。(2014.2.1)




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