夜のローカル線

 夏休み前に切った髪の毛がだいぶ伸びて来たので仕事の終わった後、会社近くの1000円カットの店に行った。以前、土曜日にいったとき、大変混んでいて、長い時間待たされたので、それに懲りて、平日の仕事終わりにいくことにしたのである。

 店は混んではいなかったが、二つある理容椅子はいずれも人がいて、男性がひとり待っている状態だった。待合室で順番待ちをしている男性は大学生らしく、何かスポーツでもやっているような立派なガタイをしていて、三人掛けのソファーの真ん中に足を広げて座り、スマホをいじっていた。僕はソファーの横にいくつか並べられている椅子に腰かけ、待つことにした。

 スマホを熱心に操作していた大学生は意外と目敏く、一人終わると敏感にそれを察知し、理容室の方に行きかけたが、理容師さんに「掃除しますので、少しお待ちください」といわれ、再びスマホをいじりだした。やがて、大学生が呼ばれ、その後、あまり間をおかずに僕の番も回って来た。

 僕は他人がどのように髪型の注文をしているのか知りたかったので、大学生の言葉に耳をそばだてた。彼は「横を刈り上げて、あとはお任せします」とだけいった。あまりに簡素でわかりづらかったのだろう理容師さんが、「上は、どのくらいの長さにします?」と訊くと、「ワックスはあまり使わないけど、ワックスをつけたときに立つくらいにしてください」と丁寧に答えた。

 しばらくして、大学生は「すいません。電話をかけたいので、いいですか?」といいだした。どうも友達と待ち合わせをするらしい。「今、駅近くの10分カットで髪切ってるんだけど、場所わかる?駅周辺だとここしかないから。え、目印…?」彼はウインドウの外を見回し目に付くものを伝え始めたが、どうも友人の方はピンとこないらしい。すると理容師さんが「ガスト、ガスト」と教えた。

 理容師さんはカットを中断され、気に触っているのではないかと余計な心配をしていたが、大丈夫のようだった。ソファーでの態度など、あまり好ましくない人物かと思っていたが、よくみていると、それなりに礼儀正しく、友好的な感じで、人間的にはいい人なのかもしれない。見せかけだけ礼儀正しく振る舞っている自分の方が、人間としては不正直かも知れないと思った。カット終え、「ありがとうございました」といって彼は店を出ていった。

 僕もカットを終え、すっかり暗くなった夜の街にでた。風が心地よく、ふと気持ちも軽くなり、このまま帰るのがもったいないような気分になった。尻手駅から近いこともあり、そこから南武支線に乗り、浜川崎までいって、鶴見線経由で帰ろうかなと思った。鶴見線は首都圏で唯一ローカル線気分の味わえる路線で、終点の鶴見以外は全部無人駅である。

 鶴見線は第二次世界大戦時、アメリカ軍機による機銃掃射の痕が残り、映画の撮影にも使われたことのある昭和というより、終戦直後のノスタルジックな雰囲気の残る国道駅やホームのすぐ後は海が広がっていて、東芝の従業員以外は外に出られないという海芝浦駅など個性的な駅があり、その他も時代の流れから取り残されたような駅ばかりで、乗っているだけで何ともいえない安らぎを覚える。ただ、問題は南武支線を含め、本数がすくないことである。

 尻手駅について、浜川崎行きの時刻を見ると幸運なことに、川崎行きの南武線と2分しか違わない。僕は、浜川崎を経由して鶴見線で帰宅することにした。南武支線は尻手から浜川崎までの約4Kmを二両編成で運行している。この時間帯だと南武支線上に存在する車両はこの二両だけである。つまり、この二両編成の電車が尻手と浜川崎を行ったり来たりしているだけなのだ。

 尻手からの乗客は意外と多く、座席は全て埋まり、立っている人もいるくらいだったが、一駅毎に徐々に減り、浜川崎に着く頃には車内は閑散としていた。浜川崎は住宅もあるが基本的には工場の街なので、ここで降りる人のほとんどは通勤者ということになる。ほとんどの人が、鶴見線のホームに向かった。

 南武支線と鶴見線はもともと別の私鉄が運営していたので、道路を横断したところに鶴見線のホームがある。鶴見線に向かう人たちは、それほど急いでいなかったので、電車が来るにはまだ間があると思い、僕も彼らと同じペースで歩いていた。

 しかし、鶴見線に向かう高架路は途中でホームに降りる方とJFEに向かう方に分岐していて、僕の前を歩いている人たちはみんなJFEの方に行ってしまった。夜勤の人たちだったのだろう。ホームに降りる階段の上に来た時、下に電車が見えた。階段を駆け下り、僕がホームに降りたのと電車のドアが閉まるのがほとんど同時だった。電車は僕一人をホームに残して走り去ってしまったのである。

 ホームにある時刻表を見ると、次の電車の来るまで30分近くある。ホームどころか周辺にも何もない寂しい場所で、時間の過ぎるのを待つというのは辛い。南武支線の浜川崎に戻ろうかとも考えたが、それもつまらないし…と思って、鶴見とは反対の扇町行きの時刻表をみると10分くらいで電車が来る。

 恐らく次の鶴見行きの電車は、この電車が扇町までいって折り返してくるのだろう。それだったら、ここで30分待つより、次に来る反対方面の電車に乗った方が退屈しなくていい。僕は扇町行きの電車に乗った。

 三両編成の車両にほとんど人がおらず、全部合わせても6〜7人といったところだった。昭和駅では白髪の男性が一人乗って来ただけだった。電車はすぐに終点扇町に着いたが、昭和で乗って来た白髪の男性は、ずっと車内に座ったままだった。僕と同じく駅で待つより、反対側の電車に乗って折り返した方がいいと考えたらしい。ホームに降りて時刻表を確認すると、出発まで間があるので、トイレに行き、スイカを出口専用と入口専用それぞれのパッドにタッチして車両に戻った。

 僕の乗った車両には、誰もいなかった。こうして、暗い中、静まり返った誰もいない車両に乗っていると、何処か遠いところ、そう、東北の奥深くのローカル線にでも迷い込んだような不思議な気持ちになる。日常から非日常の世界に落ち込んでしまったような感覚を覚えた。

 ふと、隣の車両を覗くと先程の白髪の男性の他、数人の男性がいた。出発間際になり、発車時刻に合わせたようにパラパラという感じで数人乗り込んで来たが、車内はガラガラである。

 電車は、昭和、浜川崎と元来た線路を戻って行く。降りる人はほとんどなく、乗る人ばかりで弁天橋を過ぎる頃には、座席は埋まり、立っている人もチラホラ見かけるくらいの混みようになり、僕は日常の世界に連れ戻された。(2013.9.25)




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