痩せゆく男

 スティーブン・キングの小説に「痩せゆく男」という作品がある。ある日、肥満体の弁護士ビリーは、ジプシーの女性を車で引き殺してしまう。罪から逃れようとビリーは懇意にしている警察署長と判事に頼み込み、事件をもみ消してしまう。その裁判の帰り、ジプシーの老人が彼の前に現われて頬に触れ、「痩せていく」とつぶやく。そして、次の日から、ビリーは急激に痩せていく…。

 ビリーのように何か悪事を働いた覚えはないのだけど、今年に入ってから、正確にいえば引っ越しのため、新居を探し始めた頃から、体重減少が続いている。昨年の秋くらいから、体重の増え気味になっていた妻のダイエットのため、ご飯の炊く量を少し減らすようにした。妻には全く効果はなかったのだが、僕には効果があったようで、体重は59キロを切って、58キロ台で安定していた。

 今年に入り、部屋探しを始めた。週末は毎週、不動産屋に通い、こちらの条件にあった物件の内見をするということが続いた。体重は58キロを割り、57キロ台に落ちたが、それほど気にならなかった。ゆっくりと休める日が少なくなり、また、保証会社だ、保証人だと精神的にも疲れることが重なっていたため、体重の減るのも仕方ない気がしたのである。

 三月中旬の健康診断で、56キロ台になってから、少し減り過ぎているなと思うようになった。引っ越し当日、家の前の路地に出て作業を見ているとき、隣の奥さんに話しかけられた。私も手伝うから、路地に植えられていた水仙を掘り出して、持っていきなさいといわれ、二人で球根を掘り出していると、
 「Hくん、ここに来た時は、ふっくらして可愛い感じだったのに、ずいぶん痩せたわよ。一回、病院で診てもらった方がいいんじゃない?」隣の奥さんがいった。

 確かに前の家に引っ越してきたとき、僕の体重は60キロを超えて、一時は61キロくらいあったが、減ったといっても3キロちょっとなわけだし、
 「いや、それほど痩せてはいませんよ」と笑って答えると
 「いえ、痩せたわ」といかにも深刻そうな表情でいうのであった。
 「病的な感じがします?」と訊くと、これまた深刻そうな表情で頷いた。こういうことは、たまに会う人の方が変化に気づきやすく、適確なことが多いので、イヤな感じがした。

 新居は前にも書いたが、最寄駅まで徒歩で23分、それも急な坂道が途中に数か所ある。閑静な住宅街だが、生活するには不便で、家から一番近いスーパーまで十五分、これまた急坂が数か所ある。前の住まいは最寄駅まで徒歩5分、道は平坦だったから、かなり‘過酷’な環境になったといえる。ご飯の量を減らしても痩せなかった妻が、2キロ弱痩せたくらいなのである。僕の方は、下落幅がもっと大きく、引っ越して一ヶ月後には55キロ台まで落ち込んでしまった。これは、三十代前半の頃の体重である。

 五月に入り、部屋の片づけも大方済んだので、親戚をよんで食事会をした。そのとき、僕の母と弟も来たのだが、僕の痩せ方に驚いたようで、「体、大丈夫なの?」と心配された。しかし、痩せたという以外には特に体調の悪いこともなく、「何の症状もないから大丈夫だろう」というと、「症状が出たときは、もうかなり進んでいるんだよ」といわれた。母は日本人の死亡原因第一位の病気が念頭に浮かんでいたらしい。隣の奥さんといい、母といい、たまに会う人たちに、痩せたことを心配されて、さすがに、僕も不安になり、頻繁に体重を計るようになった。

 五月の下旬に、55キロで下げ止まったと思っていた体重が一時53キロ台まで落ちたとき、恐怖を感じた。それは自分が重篤な病気にかかっているのではないかというようなものではなく、もっと単純に体重が減り続けていることに対してのものだった。体重が減り続けるというのは、自分の存在が消えていくように思われたのである。

 何とか少しでも、体重を戻さなくてはと思い、妻には悪いが、ご飯の量を前に戻し、魚中心だった食生活を肉の方にややシフトさせた。すると、体重はやや元に戻り始め、56キロ台を記録することも出てきた。単純に考えれば体重の増減は、摂取カロリーと消費カロリーの引き算で決まるわけだから、食べる量が減り、しかも、体を動かすようになれば、体重が減るのは当たり前なのである。

 現在、体重は54.5〜56キロの間をいったり、来たりしている。一日50分以上歩いて、さらに仕事ではほとんど立ちっ放しなのだから、多少、食事を増やしても目に見えて体重が増えてくるということはないのかもしれない。しかし、体重が減り続けるというのは、かなり怖いことだと感じた。僕は肥満になった経験がないのでわからないが、ダイエットしている人たちは、体重の減少を不安に感じたりしないものなのだろうか?(2013.6.22)




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