転居にともなう引っ越し前の住居との最後の関わりは敷金の清算である。敷金の清算にまつわる話はネットでみたり、知人から聞いたりして、身構えるような気分になっていた。職場の男性はワンルームマンションを退去するさい部屋の汚れが酷いと指摘され、敷金が返ってこなかったばかりか、クリーニング代として、さらに二十数万円を請求されたことがあるという。 果たして、いくら返ってくるのだろうか?昨年の十月末に大家さんと話す機会があった。そのときの話では、この家は耐震基準もクリアーしていないし、老朽化しているし、自身も体の具合が悪く、管理もおぼつかず、「息子が何か考えているらしいけど、賃貸はやめる」といっていた。 そして、引っ越し当日、隣の奥さんからこの家は解体することになっているらしいという話しを聞いた。何でも見知らぬ人がうちの敷地の測量をしていたので、何をしているのかと訊いたところ、この家は解体して四世帯の入居できるアパートにする予定だといったというのである。その話が本当だとすれば、敷金は全額返金されるはずである。解体する家に、新しい畳もハウスクリーニングも必要はないからだ。 翌日、退去の立ち会いのため、朝十時に前の家に行くと隣の奥さんが、庭掃除をしていたので、話しかけた。二人で話していると、道路に止まっていたベンツから作業服を着た男性が下りてこちらに向かってくる。すると奥さんが「解体屋さんが来た」といった。この家を覗っていたのは彼だったらしい。 それにしても今日は退去した後の立ち会いのはずで、解体業者が現われるというのはおかしいと思っていたら、彼は解体業者ではなく、その家を管理する不動産屋だった。彼が解体の話をしたのなら,話は早いはずだが、そう簡単にはいかなかった。 二人で何もなくなった家の中に入り、内見が始まった。そして、不動産管理会社の男はいろいろと細かい部分までチェックをしていた。しかし、それは明らかに「演技」という感じで、まるで真実味がないものだった。一応は見ている雰囲気を出してはいるが、実際は何も見ていないようだったのである。
一階と二階を一回りした後、一階のキッチンに戻り彼が説明を始めた。
「この家は解体されると聞きましたけど?」と僕がいうと、「いや、どうなんだろう?何も聞いていないけど、半年後とか、一年後とかにそうなるのかも」とあくまでもとぼける気でいるらしい。 ところが、一カ月経っても不動産屋からは、何の連絡もなかった。退去の立ち会いのときの彼の話ぶりでは、すぐに書類を作成するような勢いが感じられたが、大家さんとの話し合いが難航しているのかもしれない。問題は、家の解体の話がどの程度進んでいたかである。 家を退去してから、ちょうど二カ月目、前の家がどうなっているか見に行った。家が解体されているのなら、敷金の全額返還を強気に要求できる。しかし、家はそのままで、ひっそりと建っていて、解体を示す様子はなかった。 解体作業が始まっていたら、不動産管理会社に電話して、「敷金の清算はどうなっている?」と強くいえたのだけど、この状況では強気には出られない。大家さんや隣の奥さんの話から、解体する予定になっていたのは確かだと思われるが、事情の変化により、時期が変わったのかもしれない。これは長期戦になるかもしれないと覚悟したら、翌日、不動産管理会社から、敷金清算の報告書が送られてきた。 それによるとハウスクリーニングが35000円、障子張り替え三枚で9000円だけが請求されていた。合計44000円で、敷金の返還額は家賃の清算も含めて125000円だった。立ち会いのときの倍の額である。解体の話を出した効果が、多少はあったのかもしれないと思った。 うちの母がアパートを退去するときは、30年以上住んだということあるが、敷金全額とゴミ出し用のネットの準備をしてもらった謝礼ということで、上乗せして払ってくれた。いい大家さんの物件に当たるということが、賃貸するとき、一番重要なことかもしれない。 それにしても、不動産屋さんというのは、海千山千でなかなか本当のことをいわないものだということがわかった。敷金というのは本来、家賃滞納がなければ全額返金しなくてはいけないものらしいが、ほとんどの場合、契約時に特約事項とかでハウスクリーニング代や畳代、エアコンのクリーニング代など、借主が負担することにされてしまう。 今の物件を借りるときも、ハウスクリーニング代は国土交通省のガイドラインでは原則貸主負担だから、借主が負担するという契約はおかしいのではといったら、それがイヤだったら、契約はナシですといわれた。弱者の外交は成り立たないと何かの本で読んだ記憶があるが、正にその通りである。(2013.5.19) |