水に落ちた犬

 会社に、みんなから邪険な扱いをされているパートのおばさんがいる。以前から彼女は、嫌われ者であった。非常に気さくで、誰にでも友好的に話しかけてくるので、見た目はともかく、始めの印象はそう悪くはないのだが、こういう人は意外と気難しいことがあり、彼女もそうなのである。

 こちらの気の利かないことがあると、それまでの上機嫌が一転、錐で胸を刺すような言い方で指弾してきて、冷水を浴びせかけられたような気分になったことがある。僕は彼女とはいっしょに仕事をしていないから、エレベータとかでちょっと気のつかなかったときに、嫌味をいわれる程度だが、いっしょに仕事をしている人の場合、被害の大きくなるのは確実である。

 彼女のいっていることは、間違いではなく、気の利かなかった方が悪いともいえるのであるが、それほど大したことでもないのに、ねちねちいわれると反発を覚えるのは人情であるから、彼女といっしょに仕事をしている人を中心に、彼女の悪口が社内に流布されたのは仕方ないことだったのかもしれない。また、第一印象は気さくな感じなので、その後の‘豹変’とのギャップで、さらに心証が悪くなったことは否めない。もし、彼女がいつも気難しい顔をしていたら、これ程までには嫌われなかったように思う。

 しかし、今までは彼女を避ける人たちも、あくまでも個人的なレベルだった。確かに問題のある性格だが、仕事はそれなりにしっかりやっていたからである。個人的に、‘好き嫌い’のレベルで、彼女に面と向かってその性格を攻撃するということはなかった。ところが、最近になって、事態は一変した。彼女のやっていた仕事が、ほとんどなくなってしまったのだ。

 彼女は慣れないパソコンでの入力作業に回されることになった。お客さんからEメールを、仕分けする仕事である。家でもパソコンを使っているということだったので、大丈夫だろうと会社側は判断したようだが、実際はマウスの使い方もままならなかったようで、‘考えられないようなミス’を連発しているらしい。彼女の元同僚も数人同じ仕事に回されたが、スタートラインが同じであれば、今までの実績など関係なく、パソコンに詳しい方が上になる。

 こうなると、今まで表立って彼女を攻撃できなかった人たちは、仕事のミスにかこつけて、それこそ言いたい放題という状況になった。「顧客コード、全くいれていないじゃない?こんなもの、バーコードで読ませるだけでしょ?」と注意され、「ちゃんと読ませましたよ」と彼女が反論すると、「ちゃんとやっていないから、こうなるんでしょ!」と後から入ったパートさんに決めつけられていた。

 まあ、こういうことはありがちなことだが、このパートさんがこういった彼女の不出来振りを、周囲に吹聴するものだから、彼女と直接関わりのない人まで、「あのおばさんは全く仕事ができないらしい」と思うようになり、また、不幸なことに、顧客から送られてきたEメールの仕分けという仕事の性質上、社内の多くの人と関わることになり、‘禍事は全て彼女’というふうになってしまった。

 僕も彼女のことを、よくは思っていなかったが、さすがに最近のこの風潮はみていて辛いものがある。前記した顧客コードの入力がされていなかった件も、もしかしたら彼女のいうようにバーコードリーダの不具合かもしれないのである。不具合に気づかないというのは、それはまたそれで問題ではあるが…。

 唯一の救いは、彼女が図々しいことである。内面までは分からないが、とにかく打たれ強く、何をいわれても必ずいいかえし、後は何処吹く風といった感じだ。それが、また火に油を注ぐことになるのだけど、こういう状況に追い込まれたら、そうでもするしかないように思う。

 世間には‘水に落ちた犬は叩け’という言葉がある。ずいぶんと前から、そういう風潮が日本に蔓延していて、それは社会だけでなく、会社の中の人間関係までに浸み込んで来ている。それは、ストレスの裏返しでもある。溜まりに溜まったストレス発散の場を、みんな求めていて、その対象が見つかった途端、一気に堰を切ったように噴出するのである。生贄になるヤギを、みんな鵜の目鷹の目で探していて、変なヤツだと思われたら最後、祭壇に祭り上げられてしまう。ストレス社会では、息を殺して静かにしているしかない。(2011.9.23)




皆さんのご意見・ご感想をお待ちしています。joshua@xvb.biglobe.ne.jp

TOP INDEX BACK NEXT