心のささくれ

 仕事の終わった後、東扇島東公園に行きたくなった。公園のベンチに座り、暗くなっていく海と輝きを増していく工場の灯りを、ただぼんやりと眺めたくなったのである。中途半端な立場ということも関係して、新しい仕事にあまり慣れることができず、そして、不当とも思える社員の叱責に気持ちは切れかかっていた。

 その日、僕の使っていた機械が動かなくなったため、社員の人に見てもらった。内部のセンサーに紙が引っかかっていたのが原因だった。「センサーに紙が引っかかっているじゃないか!」と彼は忌々しそうにいい、紙を取り除いてさっさと部屋を出て行った。しかし、僕はその機械を使い始めたばかりで、基本的なトラブルの対処法は教えてもらっていたが、内部にセンサーのあることすら知らなかった。それなのに、このような態度をとられ、その理由を彼に問いかけたいという衝動に駆られた。

 これだけのことだったら、それほど不快に感じなかったかもしれないが、ここのところずっと彼の僕に対する態度が高圧的なのである。先にその理由を訊いてみたいと書いたが、察しはつく。恐らく、ストレスからイライラが募っているのだ。ストレスの原因は、会社への不満、仕事の忙しさ、他の社員との軋轢、古いパートさんたちとの確執などであろう。そういった口に出せない不満を、入ったばかりで、一番へまをすることの多い僕に向かって発散しているように思われた。

 この日は、たまたま土曜日だったので、仕事の終わった後、妻と遊びに行くことにしていたのだが、朝方に強い雨が降っていたため、止めようということになっていた。しかし、家に嫌な気分を持ち込みたくないので、ひとりで東扇島東公園に行こうと思った。何故、東扇島東公園なのかというと、人が少なく、静かで、一人心落ち着く時間を持てるからである。

 午後から天気が持ち直し、雲も薄くなってきた。妻は明るくなってきた空を見て、始めの予定通り、仕事の終わった後、遊びに行こうといってきた。できれば、独りでいたい気分だったが、二人の方が心強いような気もして、仕事の終わった後、川崎駅から妻とバスに乗った。

 東扇島東公園のバス停留所に着いたときは、曇っているせいもあり、辺りはかなり暗くなっていて、時々、稲光が空を白く染めていた。近くのコンビニでジュースとポテトチップス買い、公園に向かった。公園には工場の夜景を撮ろうと十数人の人たちが、ボードウォークのところに屯していた。僕たちは彼らから離れたところにあるベンチに座った。周りには時折り散歩している人が来るくらいで、誰もいない。ジュースを飲み、ポテトチップスを食べながら、取りとめのない話をした。

 海からの風が心地よく、頭上にひろがる広い空を見上げると、何ともいえない解放感に心が満たされていった。心の中のちっぽけな傷痕が消えて行く。風を感じ、波の音に癒され、大空に溶け込んでいくような錯覚を覚えた。対岸の工場の夜景も美しく、羽田空港から離発着する飛行機に想いを馳せた。

 以前に勤めていた会社で、仕事で嫌なことがあると江の島まで夜の海を見に行くアルバイトの男性がいた。その会社は埼玉県にあったから、江ノ島まではかなり時間がかかり、帰りのことも考えると三十分くらいしか海を見ることができなかったらしい。彼はそのことを、みんなにいっていたものだから、「バカじゃないの?」とか「気持ち悪い」とか散々いわれていた。「何で、夜の海なんて見に行くの?」という質問に「心のささくれを取るためだよ」と答えて、呆れられていた。みんなと約束していたテニスの待ち合わせに一時間以上も遅刻してきて「何で遅れたんだよ?」という問いに、「心のささくれとっていたから」と答え、「何だよ!それ?」ということもあったらしい。しかし、自分がその立場になってみると、彼の気持ちがわかるような気がした。

 公園に着いた時は、稲光だけで雷鳴は聞こえなかったが、やがて雷鳴も響き出し、雨がぽつりぽつりと落ちてきたので、公園を後にしてバスで川崎駅まで戻り、駅近くのとんかつ屋で食事をして、JRに乗って家に向かった。自宅の最寄駅に着いた頃には雨は本降りになっていた。(2011.8.7)




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