東北地方太平洋沖地震

 午後二時少し前、企業健診を受けるため、会社から徒歩十分くらいの距離にあるSクリニックに向かった。午後の診療は二時からだが、真面目な人は一時半くらいには、会社を出ていた。早く行けばそれだけ、早く検診が終わるため、早く仕事を再開することができるのである。

 僕がSクリニックに着いたときには、すでに午後の診療が始まっていて、多くの患者さんがベンチに座って待っている状態だった。受付に問診票を渡し、企業健診で来たと告げると、しばらく座ってお待ちくださいと言われた。この日、僕の他に二人の従業員が検診を受けることになっていたが、すでに二人とも受付前のベンチに姿は見えず、検診で病院内を回っているようだった。

 十分くらい経った頃、名前を呼ばれ二階で診察を受けるように言われた。二階にも多くの人たちが順番を待っていたが、同じ会社の従業員の姿は見えなかった。受付に、一階で受け取ったファイルを渡してベンチに座った。季節柄、マスクをしている人が多かった。だいぶ長い時間待たされたが、名前を呼ばれ、診察室に入って医師の触診と血圧を測り、採尿するように言われた。

 処置室にいって採尿カップをもらい、トイレに行ったが、昼食を取った後トイレに行ってしまったため、なかなかおしっこが出ず、苦労した。採尿を終えた後、三階に行って身長、体重、視力を測定して、胸部X線を受けるように言われ、レントゲン室前のベンチに座って順番を待った。多くの人たちが順番を待っていたため、なかなか僕の番は回って来なかったが、今の時期、仕事は暇なため、それほど気にならず、むしろ好都合だと思った。時計を見ると、二時四十五分くらいだった。

 何となく、眩暈がするような気がして、僕は頭を振った。しかし、眩暈はさらに続いた。ふと、廊下の端に置かれた観葉植物を見ると、揺れている。眩暈ではなく、地震だとわかり、安心した。目の前の掲示板から吊り下げられている病院の移転計画の書かれた看板も右に左にと揺れ出していた。周りの人たちからも、「地震だ」と囁き合う声が聞こえた。

 揺れは徐々に大きくなっていき、反対側のベンチに座っていた初老の男性が「これは大きいぞ」と横に座っている妻に言っているのが聞こえた。目の前の看板の揺れは、さらに大きくなりレントゲン室から技師と若い男性の患者が下着のまま出てきた。受付にいた看護婦さんは、廊下に出てきて「この病院は耐震構造になっているので安心です。皆さん落ち着いてベンチに座っていてください」と言った。

 横揺れはさらに大きくなり、他の診察室からも医師が出てきて、「物が倒れたり、落ちるかもしれないので、周りに何かある人は座る場所を移動してください」とベンチに座っている患者に注意を与えた。揺れは一向に収まる気配がなく、心配になって来た時、館内放送で東京は震度5強、震源地は宮城県三陸沖で仙台で震度7を記録とアナウンスがあり、仙台は大変なことになっているのではないかと暗い気持ちになった。

 おさまったかと思うと、また揺れ出し、こんなに長い時間揺れている地震は今まで経験したことがなかった。ただ、耐震構造になっているためか、激しい揺れというより、ゆっくり大きく揺れているという感じだった。なかなかおさまらなかった揺れだが、十分経ったくらいにはおさまり、しばらく様子を見ていたが、検査は再開された。

 下着のままベンチに座っていた若い男性が呼ばれ、レントゲン撮影が終わった後、僕の番になり、胸部X線撮影を終え、検診は終了した。

 病院から会社に戻る間、多くの人たちが公園や駐車場に集まり、数人のグループを作って寄り添っている光景が見られた。三時という時間帯のせいか、母と幼児、そして老人が多かった。壊れたりしている建物は見かけなかったが、コンビニなどでは商品が床に散乱しているところもあり、会社近くの道路には、救急車が止まっていた。

 会社に戻ると、同じ部署の女性たちが非常階段の入口辺りに固まって、話していた。話を訊くと、かなり激しく揺れたという。会社のビルも耐震構造にはなっているらしいが、重い機械などが上の階に集中しているので、そのせいかもしれないと思った。フロアにある機械を確認しようとしたとき、再び強い揺れが襲った。女性たちは、今にも泣き出しそうな顔をして、非常口のところにしゃがみこんだ。その後も、揺れは何回か起こった。

 とても仕事のできる状態ではなく、パートさんたちは帰宅することになった。しかし、全ての電車が止まっているため、徒歩や自転車で帰れる人以外は、再び会社に戻ることになってしまった。社内に残っている人は二階に集まってくださいとアナウンスがあったので行ってみると、社員を含め二十人近い人たちが残っていた。

 所長が「帰れる人は帰って結構です。帰れない人は、ここにお菓子と飲み物を用意しましたので、まあ、雑談でもして夜を過ごしてください」といったので、笑いが起こった。僕は破損した機械の修復をすることになった。四時過ぎから始め、六時半前に三台あるうちの一台が復旧したので、帰ることにした。

 会社近くのペルー料理店で妻が待っているので、向かった。会社近くは多くの飲食店が並んでいるが、何処も人でいっぱいで、コンビニのレジの前には長蛇の列ができ、歩道は多くの人で埋め尽くされていた。妻の待っているペルー料理店には、叔母のtiaシゲがいた。話を訊くと、地震で危険を感じて避難してきたという。Tiaシゲはマンションの三階に三人の子供たちと住んでいるが、揺れが酷くなってすぐ、次女に連れられ部屋を出てきたため、部屋の中がどういう状態になっているかわからないといって、店内にあるテレビを不安そうに見ていた。

 僕と妻は店からデザートをもらい、歩いて自宅に向かった。風が冷たく、家を失い帰れなくなった人たちのことが脳裏に浮かんだ。しばらくいくと、辺りの家に電気の全く点いていないことに気づいた。どうも停電しているらしい。家も停電していたら、嫌だなと思いながら歩いた。

 家が近づいても、辺りは暗いままだった。僕は家の停電を覚悟した。幸いにして、妻が機転を利かせて、トンカツと八宝菜を買っていた。家にロウソクが二本あるから、その灯りで、ご飯は炊けないが、それを食べればいい。

 家に面する通りが見えた。その通りの信号機は生きている。ひょっとしたらと思って足を早め、通りまで行き、辺りを見回すと何と家の近所の家には灯りが灯っていた。玄関を開け、家に入り、蛍光灯のスイッチを入れると、灯りが点き、妻は歓声を上げた。

 どうなっているのかと、すぐにテレビを点け、絶句した。津波による惨状は、想像を絶していた。家の中を調べると、パソコンが横倒しになっていた。壊れたかな?と思って、電源を入れると立ちあがったのでほっとした。家の被害はそれだけだった。ご飯を炊いて、妻の買っていたおかずといっしょに食べた。東北地方では、どのくらいの被害が出ているのか、まだ、闇の中だった。(2011.3.14)




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