母の言葉

 結婚してから年末・年始の過ごし方が固定化してきた。12月29・30日は家の大掃除、大晦日は母の家に行き、弟も交え夕方から鶏肉の団子がたくさん入った白菜鍋とお寿司を食べながら、梅酒を飲み、紅白歌合戦を観た。食べ始めた時間が早かったため10時くらいにお腹が空いて来たので、年越しそばはないかというと母は嫌な顔をした。

 母と同居していた頃、僕がそばに関してうるさく文句をいうので、いつしかそばは食卓に上らなくなっていた。母の記憶によると、ある年、旅行から帰ってきてから急にうるさくなったという。それはたぶん東北の西会津地方を友人と周ったときのことだったと思う。

 昼時、豪農風の作りのそば屋に入った。そこは客の注文を受けてから、そばを打ち始めるということで、かなりの時間待たされたが、そばの香りといい、食感といい、今まで食べてきたそばとは別物だった。東京に帰ってから、そのことを職場の人たちに自慢げに話したら、いくら美味しくてもそんなに待たされるのは嫌だといわれた記憶がある。

 そばの香りはどうしようもないから、せめてゆで加減だけでも、あの食感に近づけたいと自分では何もしないくせに、いろいろと母に注文したのである。しかし、何度食べてもあの時の食感とは程遠く、僕はさらにうるさくなり、終に母はそばを出すのを止めてしまったというわけである。

 だから、大晦日、そばはないかというと、嫌な顔をしたのであるが、そう言われることも予期していたようで、食感のあまり関係ないつゆに入った温かいそばを用意していた。それは鴨そばとか何とかいう名称で、鴨肉などは全く入ってはいないのであるが、どうもつゆに鴨の出汁が溶け込んでいるようで、独特の旨味が感じられ、そばのゆで加減も悪くなく、美味しく食べることができた。

 元旦は妻の叔母の家に夕方からいった。妻の方は親戚が多く、それもみんなスペイン語で話すため、僕はちんぷんかんぷんで、居所の無い思いをするのである。せめて、大晦日組と元旦組に分かれてくれたらと願っていたが、その願いも虚しく、今年は全部の親戚が元旦組となり、過去最高の人数となってしまった。

 妻の従妹のメグに「失敗したね」と笑われたが、もうどうしようもない。だが、この人数の多いことが幸いして、小グループに分かれたので、多少は救われた。ほとんどの人は日系ペルー人なので、程度の差はあれ、日本語も話すことができるのである。だから、人数が少なくなると、隣の人が通訳してくれたり、日本語で話してくれたりする。それに今年でこの集まりも5年目であるから、慣れてきたということもあるのかもしれない。

 2日は、弟の家に行った。一昨年、亡くなった父の仏壇にお線香をあげ、少し遅れてきた母もいっしょに4人で近くのお寺へ初詣に行った。その帰り、和食レストランに入り、食事をした。正月は何かと食べる機会が多くなるから、胃に優しい和食を食べるとほっとする気がする。食事を終えた後、暗くなった川沿いの道を、弟の家に向かって歩いている時、母が話し始めた。

 「昔、占い師もみてもらったことがあって、あなたは中年になったらすごく苦労します、だけど、晩年はいいですよといわれたことがあってね、だけど、晩年になっても全然よくならないじゃないって思っていたのだけど、こうして4人で初詣に行けるっていうことは、前は全然考えられなかったことだし、幸せなのかもしれないなって思ってね。あの占い師、いい加減なことを言ってと思っていたけど、当たっていたのかもしれないわね」

 そんな母の言葉を聞き、親孝行とは特別なことをするのではなく、当たり前のことを当たり前にすることなのかもしれないと思った。しかし、その‘当たり前’のことすら、今までろくにできておらず、心のむず痒くなる気がした。

 所々に街灯の灯った川沿いに道は、人通りもなく、暗く静かだった。この道をもうしばらく歩いていたい、そんな気持ちになった。(2011.1.9)




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