海とバイクと缶コーヒー

 土曜日、久しぶりにバイクに乗って城南島海浜公園に行った。城南島は埋立地で、海浜公園からは羽田空港が間近に見え、実家から最も近い海を感じられる場所である。春から夏にかけては多くの人で混雑しているが、今の季節は晴れていても、人出は少なく、のんびりできる。

 バイクを駐輪場に止め、公園内にある自動販売機で缶コーヒーを買って、浜辺にあるベンチに座り、海を見ながら飲んだ。淡く低い冬の陽に照らされ、コンクリートに映された僕の影は今にも消え入りそうだった。

 海を見ながら、自然に思いはこれからのことになった。将来のことを思うと、どう考えても暗いような気がして、それがコンクリートに淡く映し出されている自身の影と重なり、ある種の現実味をもって迫ってくるようであった。陽をうけてきらきらと輝きを見せている波が、何処か遠く感じた。

 もし、ここに来る途中で、事故に会い、僕が死んだら会社から見舞金は出るのだろうかなどと縁起でもないことを思った。以前、勤めていたところでは、就業規則に確かそのようなことが書かれていて、業務上での死亡事故、それ以外の死で、金額こそ差があったが、支給されることになっていたと記憶している。

 今の勤め先での僕の身分は正社員ではなく、非正規社員なのだから、恐らく何にも出ないであろう。そんなことを考えていたら、何と冷たい社会になってしまったのだろうかという気がして来た。いつから、人間が物扱いされるようになってしまったのだろうか?格差社会というより、階級社会という感じがしないでもない。ただ単に賃金の差だけではなく、人としての扱いにも大きな差ができている。

 以前はパートやアルバイトで働いている人たちは、家庭の事情で短時間しか働けないとか、他にやりたいとことがあるので時間が自由になる方がいいとかで、そういう勤務形態が都合がよく、積極的にそれを選択していることが多かったように思うが、今では正社員になれないからという理由で消極的に選択をせざるを得ない状況に追い込まれている人が多い。

 社会全体が、あまりに自分だけ良ければいいという考えに行き過ぎているように思う。他人ことを思い遣るとか、社会のことを考えるとか、そういった余裕を失っている。これは、個人だけでなく、いろいろな団体でも変わりはない。

 そういったことか考えていたら、ただ、ただ、無力感に囚われ、こうして缶コーヒーを飲みながら海を見て佇んでいることが、酷く現実から離れているような気がした。しかし、冬の弱々しいけど柔らかい陽を浴びながら、海から吹いてくる風に身を委ねている気持ち良さもまた現実である。

 世の中がどうであれ、海は美しく、海辺は気持ちいい。とりあえず、今はその気分に浸ろうと、あとはあまり物事を思わず、陽光を受けてきらきらと光る波間を見ていた。(2010.12.21)




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