週末、親戚の家に遊びに行った。その家族には小学校一年生になる男の子がいて、夕食を取り終えた後、いっしょに遊ぼうとねだられた。彼がいっしょにやろうといったのは、任天堂のWiiだった。 僕はWiiをやったことがないので、彼に教えてもらいながら野球ゲームをした。リモコンを持って投げるふりをしたり、バット代わりに振ったりするのだけど、全くダメで、ピッチャーをすればホームランを連発されるし、バッターをすればセカンドゴロやショートフライばかりで、画面のボールに向かってリモコンを振るというのも、何か変な気がして、楽しむことができないまま、早々にコールドゲームになってしまった。 他にもいくつかゲームをしたが、中には何をしているのかわからないうちに終わっていたりして、親戚の子供に呆れられ、「もう、いいよ。一人で遊ぶから、みんなと話に行って!」と言われてしまい、今時の子供は、ませているなと思った。 僕が子供の頃は全く逆だった。大人と遊んでいて、なかなかうまくいかず、最後は癇癪を起してしまい、「もう、止める」などといって不貞腐れていた。しかし、よく考えてみると、子供そのものが変わってきたということでもないような気がする。 時代と共に、子供自身も変化しているとは思う。しかし、もっと変わって来ているのは、遊びそのものなのだ。僕が子供の頃は、コンピュータゲームなどなかった。遊びといえば外でするゴロベース、角ぶつけ、ハサミ、フライ取りといった野球に関するものか、カンケリやいろいろな鬼ごっこ、ベイゴマやメンコであった。家の中では、トランプに人生ゲームやオセロ、将棋などのボードゲーム、それに正月だと凧上げやすご六、かるたなどだった。 楽しく遊ぶためには、それなりの技術が要求されるものが多い。外遊びのベイゴマやメンコ、内遊びの将棋やオセロなど、年下の者は年上の者に勝つことは容易ではなかった。友達とメンコをしていて勝ちまくり、ほとんど取り上げたのに、彼の兄貴が出てきて今度はこっちがほとんど取り上げられてしまったということがあったし、祖父と将棋をして勝った記憶はない。 もちろんコンピュータゲームにも技術もあるだろうし、それなりの鍛錬が必要かもしれないが、底が浅く天井が低いような気がする。小学校一年生でも、ある程度やれば、熟練者になれてしまうのだ。それに基本的に一人でできるため、誰かと軋轢を生じながら、それを乗り越えるということもない。また、親にとってもゲーム機を与えておけば、子供が一人で勝手に遊んでくれるのだから、楽だという一面もある。遊びは、このような特性を持ったコンピュータゲームだけしかしないという子供にある種の不安を感じる。 Wiiで野球をするよりも、実際に広場でボール遊びをする方がはるかに楽しいはずである。実際に野球をすれば、ボールで指を突いたり、体に当たったりして痛い思いをするだろうが、ボールをうまく投げられるようになったり、取れるようになったり、打てるようになったときの気持ち良さは、コンピュータの世界では味わえないものである。 遊びも含めて、生活全般が箱の中に押し込められてきている。(2010.12.16) |