朝、会社へ行くために駅へ向かった。駅に着いた時、ちょうど前の電車が発車した直後だったため、ホームの一番前に並んだ。それにしても、朝から猛烈に暑い。先日、岐阜県多治見市で39.4度を記録したそうだ。身の危険を感じる程の暑さである。家から駅まで7、8分歩いただけなのに、汗が止まらない。意識が遠のいていくような感覚だ。 そのうち、ホームも通勤客で人が増えてきた。ぼーっと電車の来る方向を見ていると、目の前を50代後半くらいの頑健そうな会社員風の男が横切り、僕の斜め前くらいで止まった。何でこんなところで立ち止まっているのだろうか?黄色い線を越えている。この暑さである、どうやら一番先に電車に乗り込みたいらしい。しかし、いくらなんでも後から来て、一番前に並ぶことはできないから、少しずれて立っているようだ。気にはなったが、別にどうでもよく、ただ早く電車が来てくれないかなと思っていた。 その時、「きちんと列につけ」と若い男の声がした。声の主は、僕のすぐ後に並んでいる人だった。それはほとんど独り言のような小さな声だったが、怒りの感情をたっぷりと含んだものだった。僕にははっきりと聞こえたが、僕の斜め前に立っている初老の男には届かなかったらしく、なおも彼はホームの一番前に惚けたように立ち続けた。 僕はだんだんと落ち着かない気分になっていった。あの挑戦的な声の感じから、もし電車のドアが開き、初老の男が最初に乗り込もうとすれば、ひと悶着あるような気がしたのである。 電車は定刻にホームに入線してきた。ドアが開くと、初老の男は、最初に乗り込もうと僕の前に入り込む仕草を見せた。その時、僕の後から手が伸びてきて、初老の男の肩を強く叩いた。肩を叩かれた初老の男は、振り返った。すると、彼の肩を叩いた手は親指を突き出し、‘後へ行け’と合図した。そして、割り込は許さないぞという風に、彼は僕に体を寄せた。僕の靴の踵をわずかに、彼の足が踏んだ。僕の後に並んでいたのは若い会社員だった。この暑さにもかかわらず黒の背広を着込んでいた。初老の男は、決まりが悪くなったのか、それとも恐怖を感じたのか、後の車両のドアへ行ってしまった。 悪いのは明らかに後から来たのにもかかわらず、ホームの一番前に並び、最初に乗り込もうとした初老の男である。しかし、若い男のやり方も、やや、常軌を逸しているようなところがあるように思う。もう少し穏やかな遣り方もあるような気がする。しかし、これは他人事ではない。その前日、会社で似たようなことを僕自身がしたのだ。
その日、仕事で使う薬品の入ったダンボールを、倉庫から台車に乗せてフロアーまで持ってくると、いつもそれを置く場所に廃品同様の機械が置いてあった。それは、同じフロアーで働いている若い男性アルバイトが上司の指示で一時的に置いたものだった。そこに置かれたままでは、僕の仕事に支障が出るので彼に「ここに置かれたら邪魔だからどけてほしい」というと、「一人ではできません」というので「それじゃー手伝うから」ということになった。そのうち、何故かムカムカしてきて
「そういわれても、Aさんにここに置いてって言われたものですから」 暑さでイライラしていたということはある。しかし、挑戦的な言い方になってしまったのは、そればかりではなかったように思う。僕は日頃から、彼のことをあまりよくは思っていなかった。端的に言えば、虫が好かないのである。それが、作業に使う場所にどうでもいい物を置かれたことによって、表面に出てしまったのだ。 もし、今年の夏がこんなに暑くなく、そして、彼のことをそんなに悪く思っていなかったら、随分と対応は違ったものになっていたと思う。朝の駅のホームの若い男性も、中年の会社員の態度にいきなり切れたのではなく、日頃からのストレスで溢れそうになっていた気持ちの上にちょこんと今回の出来事が乗ったことにより、一気に怒りが流れ出てしまったのかもしれない。 そういえば昨年、駅員や乗務員が乗客から受けた暴力が3年連続で過去最高を更新したという。世代別で大差はなく、加害者の6割近くが酒を飲んでいたそうである。「抑えきれないストレスを抱え、飲酒で暴発するのかもしれない」と日本民営鉄道協会は分析している。(2010.7.25) |