納骨の日

 昨年、亡くなった父の納骨の日がやってきた。いろいろと事情はあったにせよ、父とは終に親子の交流というものを持てないまま永遠に別れることになり、僕は父の遺骨をほとんど拾うこともできず、この日を迎えることが何とも心残りで仕方なかった。遣り残したことがいっぱいあり、しかし、もうそれはどうすることもできないのだから、心の中にはいろいろな想いが放り出されたままになっている。

 物心ついた頃から父との会話というのは、ほとんどなかったように思う。父は穏やかに話すということのできない人で、また、仕事中毒といっていいほど仕事ばかりしていたから、お互いにじっくりと向き合うということはなかった。僕が中学生になった頃、父は病気になり、それがきっかけで両親は別居し、やがて僕は母について家を出たため、高校生以降、父と会ったのは数回だった。

 弟は僕とは違い、ここ十年くらいは父とふたりで暮らしてきたから、父の遺骨をずっとそばに置いておきたかったようで、納骨の時期が四十九日を遥かに超えてしまったのは、仕方ないことだったのかもしれない。一年くらいは、この家に置いておきたいとも言っていた。

 納骨は日曜日の午後一時からということで、僕と妻は十時半に弟の家へ行った。前日は四月も半ばだというのに東京でも雪が降り、当日の天気が気になったが、気持ちよく晴れてくれて、僕たちは気分よく父の遺骨を持って家を出た。

 お墓は横須賀にあり、京急で行くかJRにするか直前まで迷った。今まではずっとJR横須賀線の横須賀駅で降りていたが、地図で見るとお墓のあるお寺は京急の安針塚駅と逸見駅の中間くらいにあり、遺骨を持っていくため出来るだけ近く、乗り換えのない方がいいだろうということになり、結局、今回は京急の安針塚で降りることにした。

 初めて降りた安針塚は小さな田舎の駅で、僕たちは早速、道に迷ってしまった。地図を頼りに歩いたが、お寺周辺は以前来た時とはかなり変わっていたため、曲がるところを行き過ぎたりしてしまったのである。駅から歩いて二つ目のトンネルを過ぎたあたりで、行き過ぎていることに気づき、地図を丹念に見ながら歩いて、やっとお寺に着くことができたが、以前来たときにあった花屋が無くなっていて、僕と妻は花屋を探すことになった。

 安針塚駅を出てすぐに花屋があったので、そこまで戻るつもりだったが、少し歩いたところにあったスーパーで訊いてみると、注文すれば10分くらいで届けてくれるという。「いくらくらいにしますか?」と訊かれたが、お墓に備える花束の相場などわかるはずもなく、逆にスーパーの店員さんに「どんなものでしょう」と訊くと、「500円でも、1000円でも、いいでしょう」と言われたので1000円のものをふたつ頼んだ。着き次第、お寺の玄関のところに届けてくれるというので、お金を払い、お寺に行くと、お寺でも花束を売っていて、一束500円だった。損したような気分になったが、豪華の方が父も喜ぶだろうと思い直した。

 お寺の座敷に上がるとすでに叔父夫妻は来ていた。1時間くらい前に着いてしまったので、お墓の周りの雑草を抜いたり、墓石の掃除をしていたという。お茶を飲みながら、用意されていたお菓子を食べ、しばし雑談をした。叔父夫妻は、特に奥さんがかなりの旅行好きのようで、ポルトガルやブラジルに行った話などをした。僕の妻がペルー人だと知ると、昨年はマチュピチュに行く予定だったが、あの大洪水で断念したという。今度行ってみたいということで、いろいろとマチュピチュのことを訊かれた。

 1時を少し過ぎた頃、住職がやってきて、石屋さんに支払う謝礼のことなど弟と細かいことについて話始めた。住職とは思えない横柄な口のきき方をする人で、あまりいい印象は持てなかった。火葬証明書を弟から受け取ると、「もう、しばらく時間がかかるから、ゆっくりしてらっしゃい」といって出ていった。20分くらい経ってから、住職がまた来て「それではこれから納骨と四十九日の法要を行いますから、二階へ上がってください」といい、弟に遺骨、僕の戒名を書いた紙を持つように指示した。

 二階に上がると引き戸があり、その部屋の中に入ると中央に祭壇があり、椅子がいくつも並べてあった。その椅子の一番前列に座ると、しばらくしてから住職が現れ、「これから納骨、続いて四十九日の法要を合わせて行います。普段は時間がかかるのですが、事情があるということなので、今日は短縮する形で行います」と言って、お経を読み始めた。‘事情’とはお布施の多寡のことである。

 ここ一年あまり、弟はあまり仕事に恵まれていない。勤務していた会社が倒産し、次に就職したところも勤め始めてすぐに経営がおかしくなり解雇され、現在はアルバイトで生計を立てているらしい。らしいと書いたのは本人もその当たりことをあまり話したがらず、僕も自身の経験からあえて訊くことを避けているためである。母が仕事は探しているのかと訊くと、苛立ったような物言いになるという。事前に話があれば、多少の援助はできたが、弟にしてみれば‘今さら’という気持ちがあるのかもしれない。

 納骨と四十九日の法要は20分程度で終わり、その後はお墓にいって納骨ということになった。お寺の玄関のところには、頼んでおいた花束がふたつ置かれていた。1000円出しただけあって、お寺で売っている500円のものと比べて、見栄えがいいのでうれしかった。

 お墓場には石屋さんが来ていて、墓石を上げ、納骨出来る状態になっていた。弟は「今、渡した方がいいんですか?」と言い、石屋さんに一万円の入った熨斗袋を渡した。石屋さんは丁寧に頭を下げ、それを懐に仕舞うと「住職は?」と訊いた。「後から来ると言っていました」と弟は言い、住職が来るまで僕たちは黙したままその場に立っていた。

 住職は5分くらいしてからやってきて、「それではお線香を上げてください」と言い、お経を唱え始めた。石屋さんは弟からお線香の束を受け取ると、それにバーナーで火をつけ、ひとり、ひとりに配った。僕たちは順番にお線香をお墓に添えたが、それを置く石がわずかに傾いているようで、供えられた線香はぼろぼろと地面に落ち、それを拾いながら、また供えるということになった。最期に石屋さんが線香を供え、住職のお経も終わり、納骨は終了した。

 住職がいなくなると、場の緊張が解け、石屋さんといろいろと話した。父の遺骨が入ったことにより、先祖代々の墓も満員状態になってしまったようだ。石屋さんによれば、墓石を上げるか、前後に拡張すれば余裕ができるという。あとは雨水が流れ込んでいるようなので、その対策もされた方がいいですよと言われた。

 叔父夫妻は車で来ていたので、駐車場のところで別れ、3人で安針塚駅に向かった。駅のホームに着くと弟が「皐月賞が見たいな」と言った。時計を見ると、まだ2時半にはなっていない。今から真っ直ぐに帰れば、間に合いそうだった。「発走は確か3時40分だと思うから、見られるな」と僕は言った。(2010.4.26)




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