腕時計を落とす

 土曜日の午前9時、家の電話が鳴った。この時間帯に電話があることは珍しく、何かよくないことでも起こったのではないだろうかと不安な気持ちで受話器を取り上げると、仕事に行った妻からで「家に腕時計を忘れていないか、探してくれ」という内容だった。

 妻は朝食の後片づけのときに腕時計を腕から外してジーンズの前ポケットに入れたはずだが、会社に着いてポケットを探るとなかったという。それで、台所辺りに落ちていないか見てくれということで、早速台所だけでなく家の中をくまなく探したが腕時計はどこにもなかった。

 数分後、再び妻から電話があって「どうだった?」というから「なかった」というと「うそぉ〜」落胆の声を上げた。「そういえば駅で何か落としたような音がした気がする」というので、「たぶんそのとき落したんだろう」というと、「じゃー駅で訊いてみる」と言って電話は切れた。

 妻が酷く落胆している姿が目に浮かんだ。その腕時計は妻と付き合い始めた頃、クリスマスにプレゼントとして僕が贈ったものだった。妻はその腕時計を、炊事をするときとお風呂に入るとき以外は常に身に着けていた。

 あまりお金のない僕の買ったものだから、高価なものではなかったが、それでもできるだけデザインの美しいものをと店の中を物色しているときに「あっ!これだ」という感じで目に飛び込んできた腕時計だった。だから、それが無くなったとなると、僕自身も寂しい気分になった。

 もし、駅で落としたのなら、出てこない可能性が高いような気がした。無駄とは思ったがもう一度家の中を探してみたが、腕時計はなかった。

 この日、僕は母のところに行く予定だった。実家に置いてあるバイクをここ一カ月くらい全然動かしていなかったので、また、バッテリーが上がってもイヤだし、久しぶりに動かしてみようと思っていたのである。しかし、それを止めた方がいいのではないかという気がして来た。妻が腕時計を落としたことが、不吉なことに思えてきたからだ。

 アポロ13という映画の中でトム・ハンクス演じる宇宙飛行士の妻が浴室でシャワーを浴びているときに結婚指輪をちょっとした不注意から排水溝に落としてしまうシーンがある。それはアポロ13号が危機的状況に陥る前兆として描かれているのだが、そのことが思い出され、妻が腕時計を落としたことが、バイク事故を起こす‘前兆’のような感じがしてきたのだ。

 しかし、寒いものの天気はよく、バイクに乗るのならいい日だし、実家には他の用事もある。よく考えてみると、何となく嫌な気分になっているのは、‘前兆’よりも、妻にあげた最初のプレゼントが無くなってしまったことによる気持ちの落ち込みの方が大きいような気がして、僕は9時過ぎに家を出た。

 実家に着くと僕の顔を見るなり母が「N子ちゃん、亡くなったんだって」と言った。N子ちゃんというのは僕より3つ年下の従妹で、子供の頃、夏休みや冬休みに田舎に行くとよく遊んだものだった。彼女との関わりで印象に残っているのは、彼女の結婚後で確か祖父の法事のときだったと思う。お寺まで彼女を助手席に乗せて僕の車で連れて行ったのだけど、その車は5、6年乗っていたからシフトレバーが磨かれたようになっていた。それを見た彼女は意味深げに「ずいぶん使い込んだね。黒光りしている」といって笑った。彼女は兄妹の中でも、一番自由に生きていた。

 昨年、僕と同じ年の彼女の兄から、彼女が子宮頸ガンになっていることを聞いていた。抗がん剤の副作用がきつく本人の苦痛が大きいので、免疫療法での治療をするようなことをいっていた。そのときの口ぶりから、治療はあまりうまくいっていないが、大事に至ることはないような印象を受けた。あれから半年くらいだろうか…。

 昨年の11月後半に父が、そして年が明けてすぐに従妹が亡くなり、死は何処か遠くにあるのではなく、すぐ隣にあるもののように感じた。気分も沈み、腕時計のこともあるのでバイクに乗るのは止めようかとも思ったが、バッテリーの上がったときの押し掛けの辛さがトラウマになっていて、再び思い直して城南島まで行ってみることにした。

 途中でガス欠になりそうになって焦ったが、無事に帰ってこられた。やはり当たり前のことだけど‘前兆’などというものではなかったようだ。母にN子の葬式などの日程が決まったら連絡をくれるように頼んで実家を出た。

 家に帰り、夕食の準備をしていると妻が帰ってきた。妻の左腕には腕時計はなかった。
 「だめだったか?」と妻に訊くと、満面の笑みをたたえてバッグから腕時計を取りだした。腕時計はバンドの部分が壊れていたが、本体にキズはなかった。
 「やっぱり駅で落としたみたい。昼休みにもらいにいったの」

 腕時計がジーンズの前ポケットから落ちたわけは、妻の肥満にあったらしい。
 「いつもはポケットの奥まで入れるんだけど、ここのところ太ったから半分くらいしか入らなかったようで、階段で落ちてしまったみたい」と妻は言った。(2010.1.18)




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