亡霊

 一年前、突然出社しなくなってしまった社員のNさんが奥さんといっしょに、会社に来たという。彼を見た人の話では一見しただけでは、誰だか全くわからなかったそうだ。髪は肩を超えるほど伸び、髭も生やし放題でオウム真理教の教祖麻原彰晃のようだったという。


 Nさんが出社しなくなってしまった理由、正確には出社できなくなってしまった理由、それは上司による執拗な叱責だった。何かにつけて、上司は彼を‘指導’をしていた。それは明らかに度を越したもので、一時間以上、上司の横に立たされ‘指導’されていたこともある。ちょっとしたことで小言を言われ、ミスをすれば長々と説教される日々。延々と繰り返される日常の中で彼の心は壊れていった。

 それは勤務時間中に体調が悪くなり、早退するということから始まった。通勤の途中で気分が悪くなり、出社できないということが繰り返され、欠勤が増え、やがてそれが続くようになり、一年前の今頃、彼の休職が発表された。しかし、それから彼に関する情報は全く途絶えてしまった。

 休職が続いているのか、それとも退職してしまったのか、少なくても現場で仕事をしている人間は知らなかった。それは彼が会社に来なくなった原因が微妙な問題を含んでいることを感じさせた。知らず、知らずのうちに彼に関する話はタブーになっていた。


 Nさんが奥さんといっしょに会社に来た理由、それについていろいろな噂が出た。退職の手続きのために出社したという説や、休職期間の延長もしくは解除の交渉、今までできなかった単なる退職の挨拶、そして再雇用のお願いではないかという人もいた。しかし、真実は切実で厳しいものだった。

 Nさんはやっぱり会社を退職していた。それもずっと前に。心の病気の回復を待ちながら、失業保険で暮らしていたようだ。しかし、彼は回復しなかった。彼の心は一年間全く髪を切ることも、髭を剃ることもできない状態が続いていた。仕事を探そうにも、そのような彼を雇ってくれるところなど期待できない。そして、彼にはまだ小学校に上がる前の小さな子供がいる。

 Nさんが妻と会社に来たのは、精神状態の安定しない彼に奥さんが付き添ったというより、彼女が積極的に彼を会社に引っ張って来たといった方が正確だったようだ。それは夫の再雇用をお願いするためだった。夫が心の病にかかってしまったのは会社に原因があるのだから、そのことを考えてもう一度働かせてほしいと訴えたそうである。

 Nさんが完全に回復したのであれば、それほど問題はなかったように思う。しかし、Nさんの現在の姿を見れば、彼がまだ病に囚われているのは明らかだった。Nさんと机を並べていた人でさえ、彼がわからなかったほどなのだから…。

 しかし、彼の家族にとっては切実だった。他の会社への就職がほとんど絶望的な今の状況では、何とか元の会社に再雇用してもらい、月々の給料をもらいながら彼の回復を待ちたいと望んでいるということだった。会社側としても事をあまり荒だてなくないようで、無下に断るということはしなかったようだ。

 肝心のNさんの気持ちはどうなのだろうと思うと、心は重くなる。彼が多少でも回復していれば、髪を短く切り、髭をきれいに剃って会社に来たはずだ。元気だった頃のNさんは毎日髭をきれいに剃って、髪も常に短くさっぱりしていた。それがまるで亡霊のような姿になってしまった。

 「また、雇ってくれって来たって、薄気味悪いよな。前の職場にもいたけど、本人は治ったと思っていても、ああゆう病気はなかなか治らないんだよ」Nさんと面接した課長から、もし彼が復帰した場合、そっちに回すからと言われた主任さんの言葉である。

 会社に勤め続けるということは、多かれ少なかれ心を亡くしていくことなのかもしれないと思った。(2008.7.19)




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